揺れない音の中で

pure

第1話 三十六歳、自動二輪教習所

 雨が降る前の静けさというものがある。

 朝の空気のどこかに、まだ乾いたままの気配と、湿り始めた匂いが同居しているような時間だ。樹(ミキ)はブーツの紐を結びながら、玄関で深く息を吸った。

 今日、人生で初めてバイクというものに触れる。

 三十六歳になってからの、まさかの新しい挑戦だった。

 なぜ今なのか──自分でもよくわからない。ただ、胸のどこかで「今だ」とささやく声のようなものが続いていて、それに逆らわなかっただけだ。

 教習所の受付では、名前を書く手が少し震えた。

 ロビーにはすでに何人かの受講生がいて、そのうちのひとりの女性が声をかけてきた。

「中村さん?私は美奈子。今日から自動二輪の教習なの。あなたも 今日からだって聞いたわ」

 その“聞いたわ”の範囲がやけに広そうなのが気になる。

「えっと、はい。今日が本当に初めてで」

「初めてなのに大型から? 勇気あるなあってみんな言ってたよ」

「いいえ、私、自動二輪を今日からはじめます」

 その“みんな”が誰なのか、樹にはわからなかった。

 ただ、美奈子さんの口調は意地悪ではなく、柔らかい興味だけが含まれている。

 彼女は“噂好き”な人なんだろうなと感じた。

 コースへ向かうと、先に来ていた受講生たちの視線が樹に集まった。

 中でも一人、妙にこちらを意識している男性がいた。

「今日から教習なんですよね? 僕、同じ班で」

 丁寧だが、距離感の近さが気になる。

「よろしくお願いします」

 そう返すと、彼はなぜか少し照れたように笑った。

「女性でバイクなんて、ロマンありますよね。こういう出会いって、なんか特別というか…」

 樹は心の中でそっとブレーキをかけた。

 こういう“早すぎる親しみ”には慣れているが、苦手なタイプのような気がした。

 車体置き場に並んだバイクは、樹にはほとんど“鉄の生き物”に見えた。

 触ったこともないのに、いきなり仲良くなれる気はしない。

 そこへインストラクターの柏田先生が歩いてきた。背筋の伸びた、落ち着いた声の人だった。

「中村さん、初めてですね。バイクは身体の真ん中が舵になります。今日はまず“触ること”から始めましょう」

 その言い方に、説明というより“導く”ような柔らかさがあった。

 「では跨ってみましょう」

 樹は深く息を吸い、慎重にバイクへ近づいた。こんな大きな機械を倒さずに扱える気がしない。

 しかし、跨ってみると不思議なことに、想像よりも重心が低く、身体が支えやすい。

「あ……座れる」

「そう、まずはそれで十分です」

 柏田の落ち着いた声が、緊張をやわらげてくれた。

 隣では、先ほどの“意識しすぎ男性”がなぜか張り切ってエンジンを吹かしていた。

 と、その横で別の男性がつぶやく。

「初回からあれは飛ばしすぎだな……巻きこまれたら嫌だな」

 目線が定まらず、運転の癖も荒そうだ。距離を置きたいタイプのように感じた。

 樹は指示通り、そっとエンジンをかけた。

 初めて感じる振動がブーツ越しに伝わり、身体の中心が少し揺れる。

 怖さと嬉しさが同時に胸の奥で混ざった。

「アクセルは呼吸みたいに、すこしだけ。握るんじゃなくて“添える”だけです」

 柏田の声に合わせ、樹は慎重に指先を動かす。

 まだ走り出してはいない。

 ただエンジンの鼓動が、自分の心臓のリズムに少し近づいた。

 空はまだ降り出さず、静かな灰色を保っていた。

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