偽薬1錠め 異世界で目が覚めたなら
あたりは真っ暗だった。
思わず「ふふふ」と笑みがこぼれた。また夜中に目が覚めてしまった。
トイレに行くため、布団から起き上がった。裸足の足が触れたのは、しかし、いつもの寝室の板張りの床ではなく、
「おお?」
薄暗かったが、まったくの暗闇というわけでもない。そこは私の寝室ではなかった。
後ろを向くと、遠くに光が見えた。あたりには、生臭い匂いがうっすらと漂っていた。どうやらここは、洞窟の中らしかった。
最初に考えたことは、これは夢なのだろう、ということだった。布団から出て少し歩いてみると、足の裏にゴツゴツとした感触をはっきりと感じた。
妙にリアルな夢だ。
そう思った時、洞窟の奥から「グォォォ…………」という唸り声が聞こえてきた。シュルシュルと地面を這う音がした。近づいてきたのは、大きな蛇だった。二つの目が光っていた。
「な……!」
蛇は私に襲いかかってきた。私は
「うわぁぁぁぁぁ!」
ぁぁぁぁ
ぁぁぁ
思いの
「やったか?」
しかし蛇は起き上がり、飛びかかってきた。
今度こそやられた!
と思った瞬間、踵で石を踏んだ。カチリ、という感触があった。
天井、左右の壁、地面から、無数の尖った岩が飛び出して蛇を貫いていた。
罠が作動したらしい。
蛇の顔が目の前にあった。蛇の顎に刺さった岩が蛇の頭を固定していた。大きく開いた口から尖った牙が突き出していた。その牙から液が滴り落ち、地面の石を「じゅっ」と溶かした。
「ひぃ!」
私は尻もちをついた。蛇は絶命したようだった。
「ふぅ」
一安心だ。
しかし一匹とは限らない。私は立ち上がって光の方に走った。尖った石が足の裏に刺さった。得体の知れないものを踏んだ。しかし構ってはいられなかった。私は全力で光に向かって走った。そして出口に辿り着いてみると──
そこは、断崖絶壁の中腹にある出っ張った岩場だった。勢いあまって崖の下に落ちるところだった。足元をコロコロと石が転げ落ちた。
眼下には見渡す限り、森が広がっていた。
太陽は昇っていくところらしい。夜中だと思ったが、朝だったのか。
私は洞窟の中を見た。物音は聞こえてこなかった。下を見ると、鬱蒼と茂った木々の中を何かが動いているのが見えた。迷っている暇はない。上に行こう。私は灌木の幹を掴み、崖を登り始めた。足を滑らせながらも、崖の上に辿り着いた。息は上がり、心臓はドクドクと鳴っていた。
足裏が痛い。
これはどうやら夢ではなさそうだった。
私は崖の上に立った。真下にさっきの洞窟の出口である岩場が見えた。もう一匹の蛇が出てくる気配はなかった。
目の前には森が広がっていた。振り向くと木で覆われた山があった。
ひとまず危機は去ったらしい。私は崖の上でぺたんと座り込んだ。
なぜ、こんなことになったのか。昨日の夜からのことを私は思い出してみた。妻と話し、その後、いつもと同じように布団に入った。いつもと違うのは
蛇の顔を思い出した。心拍が急に高まり、いてもたってもいられない気分になった。
いかん。
私は深呼吸した。
長いサラリーマン生活の中で、これよりも大変なことはいくらでもあった。部下が取引先の社長の娘と駆け落ちした時は、もっと大変だった。
サラリーマン心得その1:非常時こそ平常心
感情的になっても状況は打破できない。落ち着いて状況を確認することが先決だ。
私は周囲を見渡した。木々の影に建物のようなものが見えた。あれは家か?そう思った時、「ひゅん」という音がして、私の側頭部に固い物が命中した。目の中に火花が見えた。
「非常時こそ、平、常、心……」
気を失っていく中で、かすかに見えたのは、私に近付いてくる一人の少女の姿だった。
* * * * *
「お、気がついたか」
目を開けると、丸太で作った天井が見えた。
体を起こそうとしたら、右のこめかみに激痛が走った。
「痛っ」
私はこめかみを押さえた。コブができていた。
「悪ぃな、おっさん。てっきり奴らだと思って攻撃しちまった」
私の目の前に小学生の高学年か中学生くらいの女の子が立っていた。
その少女は、中世ヨーロッパの庶民が着るような服を着ていた。腰には革ベルトを巻いていた。そして──
頭の上には猫耳があり、尻尾があった。
やはりこれは夢なのか。
少女が私のこめかみに手を当てた。少女の体から、少しだけ、おしっこくさい匂いがした。
夢にしてはリアルすぎる。
「奴ら、とは?」と私は言った。
「やっぱ、腫れちまってるな」と少女が言った。あまり人の話を聞かないタイプなのだろうか。「キーリア姉ちゃんが戻ってきたら治してもらえるんだけど、それまで待ってくれ」
「キーリア姉ちゃん?」
「ああ、俺の姉ちゃんだ。治癒魔法が使えるんだぜ」
「治癒魔法……」
「おうよ、すげぇだろ。冒険者パーティにでも入れば荒稼ぎできるのに、里のためにこんな辺鄙なところにいてくれてるんだ。ありがたいっつうか、申し訳なくてよ」
こめかみは、心臓が血液を送り出すたびに、どくん、どくんと痛んだ。
向こうで湯の沸く音がした。
「おっといけねぇ、料理してたんだ」
少女は部屋から出ていった。私は部屋の中を見渡した。私が寝ているベッドのほかには何もない部屋だった。窓から空が見えた。白い雲が浮かんでいた。
どうやら私は大変なことに巻き込まれたらしい。一つ幸いなことは、今日が土曜日だということだ。仕事が休みの日でよかった。
少女が戻ってきた。手には盆を持っていた。
「食ってくれよ。遠慮はいらねぇぜ。怪我させたお詫びだ」
少女から椀を受け取った。中に入っていたのは野菜と肉のスープだった。一口飲んでみた。
「薄味だが悪くないな」と私は言った。
「そうだろ、オーク肉のスープだ」
オーク肉がどんな肉かわからなかったが、「オーク」という言葉から、私は樫の木を連想した。その名にふさわしいやさしい味がした。
「ここはどこ……」と私は尋ねかけた。
しかし少女は「おっさん、おもしろい服着てんな」と言った。
やはりあまり人の話を聞くタイプではないらしい。家に帰るための手がかりをこの少女から得たいと思ったが、無理はしない方がよさそうだ。この少女は会社で言えば、現場の人間なのだろう。
サラリーマン心得その2:現場同士は仲良くせよ
価格や金利など、取引条件で対立することもあるが、基本的に取引先は運命共同体だ。現場同士は仲良くするに限る。厳しい折衝は上層部に任せておけばいいのだ。
この少女から情報を取るのは諦め、とりあえずは話を合わせておくことにした。
私は自分の着ている服を見下ろした。水色のパジャマだった。
「寝る時はいつもこれだよ」
「ベッドまで引っ張ってくる時に触ったけど、やわらかい生地だよな。そんな上等な布、見たことないぜ。おっさん、ひょっとして貴族か?」
「まさか、ただの庶民だよ」
「そうなのか」
「そうだよ。それにしても君が私をここまで運んでくれたのか。重かっただろ」
「なんてことはねぇよ。なにしろ獣人だからな」
そう言って、少女は尻尾をぴこぴこと動かした。
そうか、獣人か。どうやらここは、人の形をした獣が普通に暮らす世界らしい。
「君の名前をまだ聞いていなかったな」
「俺はアーシャ。おっさんは?」
「山田だ」
「ヤーマダか。よろしくな、ヤーマダ」
私がスープを食べ終わり、アーシャが空の食器を盆にのせて部屋を出ていった時、家全体が大きく揺れた。一拍置いて、もう一度。
さっきの大蛇の姿が頭をよぎった。あれの片割れが私を追ってきて、家を揺すっているのではないか、と。
しかし、アーシャは、「あ、キーリア姉ちゃんだ」と言って、家の外に出ていった。
私はベッドから起きて窓の外を見た。そこにいたのは、翼のある竜から降りてくる少女だった。
アーシャと違い、猫耳も尻尾もなかった。杖を持ち、聖職者の着るようなローブを着ていた。
アーシャが走り寄り、ローブの少女に抱きついた。ローブの少女がアーシャの頭を撫でた。アーシャが窓辺にいた私を指差した。私を見たとたんにローブの少女の顔が曇った。ローブの少女はしゃがみ込んで、アーシャに何かを言いふくめているようだ。アーシャの顔が不機嫌になった。
ローブの少女はアーシャの手を引いて家に近づいた。そして私のいる部屋の中に入ってきた。
「私はキーリアと申します。旅のお方、この度はアーシャが失礼をいたしました」そう言ってキーリアは頭を下げた。「私がもっと
高校生くらいの年だろうに、ずいぶんとしっかりしたしゃべり方だ。
アーシャが「そのおっさん、ヤーマダっていうんだぜ」と言った。
「ヤーマダさん、怪我の手当てはいたします。それが終わりましたら、ここから早々に立ち去っていただけますでしょうか」とキーリアは言った。丁重だが、有無を言わせぬ口調だった。
もうしばらくここにいて、キーリアから家に帰るための手がかりを得たいところだが、知らない初老の男が家にいるのは確かに気味が悪いだろう。やむを得まい。治療が終わったらこの家を出ていこう。
キーリアは「
「足の裏も怪我をしていますね」とキーリアが言った。「履き物をどうされたのですか?」
「もともと裸足だった。気がついたら洞窟の中にいたんだよ」と私は正直に言った。「大きな蛇が出てきたから走って逃げてきたんだ。足の怪我はその時にしたものだ」
「蛇ですって?」
「ああ、運よく罠が作動してね。おかげで逃げられたんだ」
キーリアは顔色を変え、「アーシャ、
「あの蛇はいったい……?」と私は言った。
それには答えず「まずは傷の手当てを」と言って、キーリアは足の裏の怪我を治した。
アーシャが部屋に走り込んできた。
「キーリア姉ちゃん、
「ああ!」キーリアは、突然寝室の床の上に膝をつき、「勇者様、ご無礼をいたしました。どうかお許しください」と言って頭を下げた。「私がもっと
「勇者?」
「我が里に伝わる言い伝えです。永き歳月、転移の洞窟を守りし
キーリアは私の手を握り、「勇者様、どうか、我が里にご同行ください」と言った。
里、か。
私が家に帰るための情報集めには好都合だった。里とやらに行けば、彼女らの上司がいるだろう。話はそこで聞けばいい。
「わかりました。同行しましょう」と私は言った。キーリアがホッとした表情を浮かべた。「では早速」
キーリアに手を引かれ、私は裸足のまま外に出た。そこには翼の生えた竜がいた。
「お乗りください」
言われるがままに竜の背に乗った。竜の背には鞍が革ひもで固定されていた。私の前にアーシャが乗った。アーシャは腰ベルトの後ろに短剣を付けていた。私の後ろにキーリアが乗った。パジャマ姿の初老の男が少女二人に挟まれる格好となった。コンプライアンス的にだいじょうぶだろうか。私の目の前にアーシャの猫耳があった。
「いざ、
キーリアが竜の首に軽く蹴りを入れた。
竜は大空に舞い上がった。
* * * * *
その時、森の中に駐屯していたのは帝国軍第3部隊だった。
閉塞感が日に日に高まっていた。帝国軍第3部隊は精鋭中の精鋭部隊である。半年もこんな場所で塩漬けにされるのはたまらない、と全ての兵士が思っていた。
しかし、その日、指令本部が俄かにあわただしくなった。伝令が次々に指令本部の幕屋に入っていっては出ていった。
「報告します。洞窟内の
「報告します。竜人の小屋に、獣人の娘により男が1名運び込まれたとのことであります」
「報告します。竜人の小屋に飛竜が着地し、竜人の娘が小屋に入りました」
「報告します。飛竜が、竜人の娘、獣人の娘、そして謎の男を乗せて飛び立ちました」
幕屋から白い鎧を身にまとった女性の騎士が出てきた。腰まで伸びた金髪を三つ編みにしていた。付き人の渡した望遠鏡をのぞき込み、「ようやく動いたか、竜人め」とつぶやいたのは──
「白き雷光」の二つ名を持つ女騎士、ウィトブリシア・アルドランだった。
「私たちはツイている。そうは思わんか」
付き人に望遠鏡を返した。
「部隊を整列させよ。迅速にな」
帝国軍第3部隊長、女騎士ウィトブリシア・アルドランは兵たちの前に立ち、兵たちの顔を見た。皆、気合の入ったいい顔をしていた。
よく通る声で、部隊に命令を発した。
「我が騎士たち、我が兵士たちよ、進軍だ!目的地は飛竜が教えてくれる。念のため伝令鳩に竜の後を追わせよ。これより第3部隊は作戦行動に入る。くれぐれも奴らに気取られるな。日頃の訓練の成果を見せてみよ!迅速に動け!」
「「「「「「「「「「はっ!」」」」」」」」」」
森の中、騎馬三十騎と歩兵二百名が音もなく進軍した。
部隊が目指すのは竜の行先であるはずの「
部隊が進軍した後には、音もなく殺された魔物の死体がいくつも転がっていた。
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