異世界プラシーボ

冬顔まくら

プロローグ

「夜間頻尿は、気の持ちようでよくなる病気なんですよ」と妻が言った。


妻は、看護師帽をかぶり、白い襟の付いた紺色の服を着て、白いエプロンを付けていた。赤十字のマークのついた腕章も付けている。メ〇ソレータムの缶に描かれた少女そっくりの格好だ。コスプレとは言い切れない。なぜなら妻は看護師だからだ。ちなみにこの格好をしているのは家にいる時だけだ。職場の医院では、機能的なスポーツウェアのような半袖の制服を着ている。


五十歳を過ぎてから、私は夜中に尿意で目が覚めるようになった。その日、居間で新聞を読んでいたら夜間頻尿の薬の宣伝が載っていて、「こんな薬があるんだな」と言って妻に見せたら、妻が言ったのだった。「夜間頻尿は、気の持ちようでよくなる病気なんですよ」と。


「より学術的に言えば、夜間頻尿の新薬開発において、偽薬プラシーボと実薬を比較した際、効果の差が統計的に有意ではなかった、ということになります」


看護師である妻は、暇さえあれば医学書を読んでいる。


偽薬プラシーボか」と私は言った。「『とてもよく効くお薬ですよ』とか言って、小麦粉を固めた白い錠剤を飲ませると、効果が出るというやつだな」

「よくご存じじゃありませんか」

「それくらいは知ってるさ。気の持ちようでよくなるのなら、私も偽薬プラシーボを飲んでみるか」


妻は台所の引き出しからビオフェ〇ミンの茶色い瓶を取り出した。


「とてもよく効くお薬ですよ」と言って妻は瓶から白い錠剤を出して私に渡した。私は錠剤を口に入れた。


「なお、これまでにわたしが述べた夜間頻尿に関する意見は、医療や医薬品に関する情報を含んでいますが、一看護士が一研究者の論文を自由に引用したものであり、医療効果を約束するものではありません」と妻は言った。医療従事者としての免責事項説明なのだろう。家庭内でそこまでする必要はないと思うが、昨今、どこからコンプライアンス上の問題を指摘されるかわからないご時世だ。用心に越したことはない。


「薄毛、老眼、腰痛も、気の持ちようでよくなるだろうか」と私は言った。

「それは老化現象です」と妻は言った。

「それもそうか」

妻は居間のソファに座り、リーディングライトをつけて医学書を開いた。私は新聞をたたんだ。


「もう寝るよ」と私は言った。

「寝る前にトイレに行くのもお忘れなく」と妻は言った。


私はトイレに行ってから寝室に行った。気の持ちようでよくなるなら、自己暗示も効果があるのだろうか。布団に入ってから「偽薬プラシーボのおかげで、今日は夜中にトイレに行きたくならない」と念じてから目を閉じた。眠りはすぐにやってきた。


私は夢を見た。夢の中で白い少女が手招きをしていた。偽薬プラシーボの錠剤のような、白い少女だった。「ボクの名を呼ぶキミは誰?」と言って、少女は私に手を伸ばした。私はその手を取った。そして──


目が覚めた。

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