第07話『曇天の工房、回らない歯車』
朝。
重い瞼を開けると、視界の隅にチラつくシステムウィンドウ――なんて便利なものは、この現実には存在しない。
だが、俺は知っている。
かつて数万回も見直し、穴が開くほど見つめた自分のステータス画面。その残像が、瞼の裏に焼き付いている。
(筋力E、耐久E、敏捷E……)
寝起きの体が鉛のように重いのは、あの数値が「事実」として俺の肉体を縛っているからだ。俺は自分の細い腕をさすりながら、ベッドから起き出した。
「……さて、稼ぐか」
俺は今日一日、ただの「修理屋」として生きる。
英雄でも、怪物でもなく。この街の歯車の一つとして。
* * *
日中の『からくり堂』は、意外にも忙しい。
雨続きの湿気で、街中の機械が悲鳴を上げているからだ。
「おい店主! こいつの調子が悪いんだ。すぐに直せ!」
昼過ぎにやってきたのは、小太りの商人だった。
彼がカウンターにドンと置いたのは、真鍮で作られた犬型の
「動かなくなった。不良品じゃないか?」
「……拝見します」
俺は接客用の営業スマイルを貼り付け、ルーペを目に当てた。意識を集中する。スキル【至高の鍛冶】発動。
(――
0.5秒で、犬型機械の設計図が脳内に展開される。
内部構造、材質、摩耗度。全てが数値化されて見える。第三駆動輪の軸が、泥の圧力で0.03ミリ歪んでいる。それに伴い、メインスプリングが焼き付いてロックされている。
原因は明白。扱いが悪すぎるのだ。
(……直すだけなら3秒で終わるな)
だが、俺はすぐに手を動かさなかった。
こんなスラムの修理屋が、最新鋭の玩具を目にも止まらぬ早業で直してみろ。「なんでこんな場所に凄腕がいる?」と勘ぐられ、変に目を付けられるのがオチだ。
俺はわざとらしく「ふぅ」と息を吐き、少し困ったような顔を作って見せた。
「……こいつは少し手間がかかりそうだ」
俺はゆっくりとドライバーを回し始めた。
脳内の設計図では最短手順が見えているが、あえて迂回し、普通の修理屋のような手つきを演じる。こびりついた泥を布で丁寧に拭き取り、歪んだ軸を慎重に――あくまで人間の手作業に見える速度で――矯正していく。
カチャ、カチャ……。
地味な作業音が店内に響く。
商人は退屈そうに貧乏ゆすりをしているが、それでいい。俺はただの「少し腕のいい修理屋」でなくてはならない。
数分後。
全てのパーツが正しい位置に収まり、再組み立てが完了した。
「――はい、直りました」
「ふん、やればできるじゃないか」
商人は修理代を投げ置くと、礼も言わずに機械犬を抱えて出て行った。
残されたのは、カウンターの上の小銭と、胸糞悪い沈黙だけ。
俺は自作の携帯灰皿を取り出し、煙草に火をつけた。
紫煙を深く吸い込み、肺の中で循環させて、吐き出す。この煙が、胸のモヤモヤも一緒に連れ去ってくれればいいのに。
(……くだらない)
俺の手は完璧に仕事をこなしているが、心の中には黒い
こんな金持ちの道楽おもちゃは、すぐに直る。
だが、昨日見た、錆色の血を吐いていた少女はどうだ?
あの子の肺は、この玩具よりもずっと精巧で、代えが効かなくて、そして今も壊れ続けている。
俺の【至高の鍛冶】は、無機物の構造なら解析できる。だが、生命という複雑怪奇なシステムは、俺の専門外だ。
俺にはそれを直す知識もなければ、技術もない。
あるのは、脳内のスロットに眠るNo.4のカートリッジだけ。だが、俺はこうして小銭のために玩具を磨いている。
「……おじちゃん、いる?」
夕暮れ時。
遠慮がちな声と共に、店のドアが開いた。入ってきたのは、昨日あの少女に薬を飲ませていた、浮浪児の少年だった。
「……昨日の坊主か。修理なら受け付けてないぞ」
「違うよ! お礼を言いに来たんだ」
少年は泥だらけの手で、包み紙を差し出した。
中に入っていたのは、市場の売れ残りの硬いパンが二つ。
「昨日は、水筒の水……ありがとな。おじちゃんが来てくれなかったら、リズは死んでたかも」
「……俺は何もしてない。お前が薬を持ってきたからだ」
俺はパンを受け取らず、冷たく返した。礼を言われる資格なんてない。
「で、そのリズって子の具合は?」
「うん……薬で少し楽になったみたいだけど、まだ熱が下がらないんだ」
少年の顔が曇る。
「でも、大丈夫! 明日、『白い教会』の神父様たちが、スラムまで巡回に来てくれるって!」
「……なに?」
俺の手が止まった。
白い教会。R.C.S.M.(王立蒸気・魔導教会)の傘下にある医療施設だ。
「最近、錆肺の子供たちを無料で診察してくれてるんだって。運が良ければ、教会の施療院に入院させてくれるらしいんだ!」
「……」
少年は希望に目を輝かせている。
だが、俺の背筋には冷たい汗が流れた。タダより高いものはない。特に、この帝都においては。
教会がスラムの孤児を集めている? 『検体』としてか?
あの「骨でできたオルゴール」。
あれの動力源は何だった? ――『子供の魂』じゃなかったか?
「……おい、坊主。その巡回診療、本当に大丈夫なのか?」
「え? どういうこと?」
「いや……なんでもない」
俺は言葉を飲み込んだ。何を言う?
「教会は怪しいから行くな」と? じゃあ代案はあるのか? このまま路地裏で死ぬのを待つよりは、一縷の望みに賭けて教会に行くほうがマシじゃないのか?
俺が治療してやればいい。
その答えが喉元まで出かかって、俺はそれを強引に噛み殺した。ここで俺が動けば、俺の平穏が終わる。教会の目の前で「奇跡」を使えば、今度は俺が解剖台に乗せられる。
「……これ、やるよ」
俺はカウンターの上の、さっき商人が置いていった小銭を掴み、少年の手に握らせた。
パンの代金だと言い訳をして。
「あ、ありがとう! これでリズにスープを買ってやれる!」
少年は何度も頭を下げて、嬉しそうに走り去っていった。
俺は一人、薄暗い店内に取り残された。
俺は自分の掌を見つめる。黒く汚れた、修理屋の手。
脳裏にある思考スロットが、カチリと音を立てる。
そこには、未使用のNo.4『ダヴ』のカートリッジが装填されている。だが、俺はそのトリガーを引けない。
「……何が至高の鍛冶だ」
俺は吐き捨てるように呟いた。
目の前のガラクタ一つ、自分の保身のために見捨てようとしている。前世でモニター越しに見ていた英雄たちは、こんなに臆病だったか?
外では、再び冷たい雨が降り始めていた。
明日も雨だろう。そして明日は、その「白い教会」の馬車がやってくる。
歯車が狂う音がする。俺の中で、何かが限界を迎えようとしていた。
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