第05話『灰色の部屋、黄金の神託』

 夢を見た。

 ひどく懐かしく、そして吐き気がするほど嫌いな夢だ。


 耳を打つのは雨音。

 だが、それは帝都の石畳を濡らす重苦しい雨音ではない。

 もっと軽く、無機質で、アスファルトとトタン屋根を叩くだけの、味気ない雨の音。


 油の匂いがしない。すすの匂いもしない。

 あるのは、コンビニ弁当の防腐剤と、湿った埃の匂いだけ。


「……ああ、クソ」


 俺の意識は、鉛のように重い肉体に引きずり込まれていく。

 そこは帝都ロンディニウムの工房ではない。

 俺が捨ててきたはずの、「灰色の棺桶」だ。


        * * *


 東京、某所。築三十年の木造アパート。

 遮光カーテンで閉め切られた六畳一間は、昼も夜もなく、常に薄暗い闇に沈んでいた。


 部屋の主である男――九十九 蓮(ツクモ・レン)は、死んだ魚のような目でパイプ椅子に座り込んでいた。

 足元には飲み干したエナジードリンクの空き缶が転がり、デスクの上には冷え切ったジャンクフードの容器が積み上げられている。


 ブラック企業でのシステムエンジニアとしての激務。サービス残業、パワハラ、理不尽な納期。

 心身をすり減らして帰宅し、泥のように眠り、また出社する。

 そんな灰色のループの中で、俺をつなぎ止めていたのは「ここ」だけだった。


 ブォォォォン……。


 重厚な排気音を立てて鎮座するハイスペックPCと、壁一面を覆う6枚のマルチモニター。それだけが、俺の世界のすべて。俺の祭壇。


 『Aethelgard(エーテルガルド)』。

 世界規模で接続数を誇るVRMMO RPG。


「……ログイン」


 掠れた声で呟き、ヘッドセットを装着する。

 瞬間、灰色の現実は遮断され、色彩の洪水が俺の網膜を焼いた。


 俺はこの世界で「廃人」と呼ばれていた。

 だが、ただ時間を浪費するだけのプレイヤーではない。俺が固執していたのは「完全なる自己完結」だ。


 野良パーティ? ギルドの人間関係?

 くだらない。人間は裏切る。ミスをする。効率を落とす。

 信じられるのは、自分が組み上げたロジックと、自分が操作するキャラクターだけだ。


 だから俺は、6つのアカウントを同時に操作(複垢プレイ)する道を選んだ。


 メインモニターには、鉄壁の守護者【No.1】。

 誰にも押し負けない、絶対的な強さが欲しかった。だから感情を捨てた鋼鉄の巨人を盾にした。


 サブモニターには、殲滅の魔術師【No.2】。

世界のルールを知りたかった。バグすら利用する学者の狂気は、俺の探究心の投影だ。


 右端のモニターには、悲劇の暗殺者【No.3】。


 そして――【No.6】。

 このクソみたいな現実には存在しない、理想の「運」と「美貌」を持つ女。

 俺の歪んだ性癖と、叶わない願望を詰め込んだ、究極の偶像(アイドル)。


 そうして自分のキャラクターだけで作ったクラン【青い鳥】は少しだけ有名だった。


『――おい、クロウ。またソロでレイドボスを狩ったのか?』

『頭おかしいんじゃねえの』


 チャット欄に流れる称賛と畏怖のログ。

 俺はそれを無表情で眺めながら、キーボードを叩き続けた。


 楽しいわけじゃない。これは意地だ。何者にもなれなかった俺が、ここにある時間だけは「誰か」になれる。

 その証明のためだけに、俺は命を削ってキーを叩き続けた。


 そして、限界は唐突に訪れた。


 プツン。


 胸の奥で、何かが切れる音がした。

 激痛はなかった。ただ、視界が急速にブラックアウトし、体が崩れ落ちる感覚だけがあった。

 モニターの青白い光が遠のいていく。


(ああ……まだ、デイリークエストが残ってるのに……)


 そんな間の抜けた未練と共に、九十九 蓮の人生は終了した。


        * * *


 次に目を開けたとき、そこは真っ白な空間だった。

 雲の上でも、お花畑でもない。

 壁も床もない、無限に続く白いグリッド線の空間。


「――九十九 蓮。享年二十九」


 事務的な声が響いた。

 目の前に立っていたのは、光り輝く女神――などではない。

 スーツのようなフォーマルなドレスを着た、冷徹な目をした「管理者」のような女だった。


「貴方の人生ログを確認しました。……酷いものですね」


 彼女は空中にホログラムのようなウィンドウを展開し、俺の人生を指先で弾いた。


「労働時間、過多。幸福度、著しく低下。他者との交流、ほぼ皆無。貴方が生涯で生産した価値は、社会的にはほぼゼロです」

「……うるさいな」


 俺は半透明の体のまま、毒づいた。死んでまで説教かよ。


「だが、俺は『エーテルガルド』の中にいた。あそこには、俺が生きた数万時間の記録がある」

「ええ。そこです」


 管理者はウィンドウの一つを拡大した。

 そこに映っていたのは、俺が作り上げた6人のキャラクターたち。


「貴方がこのデータ虚構に注いだ熱量と執着。それは異常値を示しています。 通常、魂のリサイクルにおいてこれらは削除対象ですが……貴方のその『無駄な時間』の重みは、ある種のエネルギーに変換可能です」


 女は興味なさそうに、しかし厳粛に告げた。


「貴方に新しい世界での生を与えましょう。ただし、貴方の魂は空っぽだ。だから、貴方が愛したその『6つの仮面』を魂の代用として埋め込みます」


 彼女は指を鳴らした。 6つの真鍮色の輝き――『人格媒体(カートリッジ)』が、俺の魂へと吸い込まれていく。


「貴方は彼らに成れる。彼らの力を行使できる。それが貴方が人生を捧げて得た、唯一の勲章です」

「あいつらに……」

「……警告しておきますが、彼らはあまりに強く作り込まれすぎている。長く身に纏えば、貴方の自我は彼らに塗り潰されるでしょう。それでも行きますか?」


 俺は笑った。 迷いなどあるはずがない。


「上等だ。灰色の部屋で腐っていくよりは、狂った世界で踊るほうがマシだ」


 管理者は初めて、薄く笑った気がした。


「では、良い旅を。――『廃人』様」


        * * *


「――ッ!!」


 俺は弾かれたように跳ね起きた。

 全身が汗で濡れている。心臓が早鐘を打っている。


「……はぁ、はぁ、はぁ……」


 荒い呼吸を繰り返しながら、周囲を見回す。

 灰色の部屋ではない。

 古びた木製の天井。剥がれかけた壁紙。そして、窓の外から聞こえる蒸気機関車の汽笛。


 帝都ロンディニウム。スラム街の片隅。

 俺の店、『からくり堂』の2階寝室だ。


「……夢、か」


 最悪の目覚めだ。

 だが、肺に入ってくる空気は、あの無機質なエアコンの風ではなく、煤とオイルの混じった生々しい街の匂いがする。

 その事実に、俺は安堵した。


 俺はサイドテーブルに手を伸ばし、真鍮パイプを加工した自作のライターを掴んだ。 親指で歯車を弾く。


 ガキンッ。


 硬質な音と共に、頼りないオレンジ色の火が灯る。


 揺れる炎を見つめながら、俺は呼吸を整えた。

 あの女神の言う通りだ。俺の魂はツギハギだらけの代用品だ。

 オウルを使えば知識欲に溺れ、コンドルを使えば破壊衝動に駆られる。


 俺はベッドから這い出し、洗面台に向かった。 鏡に映るのは、疲れ切った黒髪黒目の東洋人の顔。

 スラムの修理屋、No.5 クロウ。それが今の俺だ。


(筋力E、耐久E、敏捷E……)


 ウィンドウなどないが、脳裏に焼き付いたステータスが呪いのように思い出される。

 この身体は、元の世界の俺(九十九 蓮)を忠実に再現して作ったアバターだ。


 役割は単純明快。溢れかえるレアアイテムを詰め込むための「倉庫」であり、歴戦の英雄メインキャラたちの装備をメンテナンスするための「修理屋」。

 だからこそ、最弱だ。

 戦闘力など不要だった。この身体は、誰かのために奉仕するためだけに作られた器なのだから。

 結果として、この世界で生き抜くには、あまりに貧弱すぎる。


 バシャバシャと冷たい水で顔を洗う。タオルで顔を拭き、もう一度鏡を見たとき。

 一瞬だけ。鏡の中の俺の瞳が、鮮やかな蒼色に明滅した気がした。


「……ッ!?」


 瞬きをすると、いつもの黒い瞳に戻っている。

 見間違いか? いや、オウルの侵食が残っているのか。


「……食われてたまるかよ」


 俺は鏡の自分を睨みつけた。

 あの灰色の部屋で死んだ俺が、ようやく手に入れた「生きる時間」だ。例えバグだらけのクソゲーみたいな世界でも、攻略するのは俺だ。

 借り物の英雄たちじゃない。


 俺は作業着に袖を通し、腰のベルトに工具を吊るした。階下へ降りる階段の軋みすら、今は愛おしい。

 今日も依頼が来るだろう。あるいは、教会の追手か。


「店を開けるか」


 俺はライターをポケットにねじ込み、今日という戦場へ足を踏み出した。

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