第04話『沈黙の図書館、凍てつく数式』(後編)

 私は空中に向かって、猛然と数式を書き始めた。

 黒板など不要。この空間そのものが、私のキャンバスだ。


定義するDefine。――対象Xは、絶対零度にあらず」


 私の指先が空を切り、複雑怪奇な幾何学模様魔法陣を描き出すたびに、空間が悲鳴を上げた。


 バチッ! バチバチッ!


 青い火花が散る。

 私が記述した「解凍プログラム」に対し、扉を封印している氷の術式が「反論」してくるのだ。氷が生き物のように盛り上がり、鋭い槍となって私に襲いかかる。


「ほう? 自動防衛機能カウンター付きか! 術者は誰だ? ケンブリッジの教授か? いや、この変数の置き方は……もっと古臭いな」


 私は一歩も動かず、迫りくる氷の槍を目の前で停止させた。

 物理的な防御ではない。槍の「運動エネルギー」を計算し、その数値を「0」に書き換えたのだ。氷の槍は空中で静止し、カランと虚しい音を立てて床に落ちた。


「計算が雑だぞ。偏差値が足りていない」


 私は嘲笑いながら、さらに記述速度タイピングを加速させる。

 右手で方程式を解きながら、左手で空間の歪みを補正する。脳が焼き切れるような熱量。ドーパミンが溢れ出す。


(……おい! 足元! 足元を見ろ!)


 レンの切迫した声が脳内に響く。

 なんだ? 私の計算を邪魔するな。


(凍ってるぞ! お前の足が!)


 ふと下を見ると、私のローブの裾から右足にかけて、白い霜が這い上がってきていた。

 敵の術式が、解析を行っている私自身を「バグ」と認定し、凍結消去しようとしているのだ。

 だが、それがどうした?


「……ふふ、肉体が凍る速度と、私が解を導き出す速度。どちらが速いか、競走レースといこうか!」

(ふざけんな! 死ぬだろ! 避けろ!)

「避ければ計算が遅れる!」


 私はレンの警告を無視し、一歩踏み込んだ。

 右足の感覚が消える。膝まで凍りついた。構うものか。あと一行。あと一つの変数を埋めれば、この美しい難問は解ける。


 冷気が喉元まで迫る。視界が白く染まる。

 思考速度が極限まで加速し、世界がスローモーションになる。


 見えた。

 この術式の「セキュリティホール」が。


 私は凍りつつある右手で、最後の一文字を空中に叩きつけた。


「――証明終了(Q.E.D.)!!」


 カッ!!


 閃光が炸裂した。

 青い光が波紋のように広がり、図書館の地下回廊を満たす。光が触れた瞬間、絶対零度の氷は「ただの水」としての定義を取り戻し、一瞬にして蒸発した。

 ものすごい量の水蒸気が噴き出し、視界を覆う。


「あ、あつ……」


 変身が解ける。 オウルの人格が満足げに深淵へと沈み、レンの意識が浮上する。


 俺はその場に崩れ落ちた。

 右足が動かない。凍傷になりかけている。

 ライターの火で炙りたいところだが、そんな力も残っていない。


「……クソ学者が。死ぬところだったぞ」


 激しい頭痛と吐き気に耐えながら、俺は鞄から本物の「溶解液」を取り出し、床にぶちまけた。 そして、わざと自分の作業着にも水をかけ、濡れ鼠になる。


「……おーい、終わったぞ」


 俺の情けない声を聞きつけ、司書の老人が戻ってきた。 彼は湯気を立てる扉の前で、目を丸くした。


「こ、これは……あの氷が、跡形もなく消えている!? 一体どうやって!?」

「企業秘密だ。……ちょっと薬品の調合をミスってな。ボヤ騒ぎになりかけたが、結果オーライだろ」


 俺は震える手で、ふやけた煙草を口にくわえた。

 司書は俺の足元を見て、「なんと、足が真っ白ではないか! 大丈夫かね!?」と慌てふためく。

 俺は「薬品がかかっただけだ」と嘘をつき、報酬の割り増しを要求してその場を去った。


        * * *


 帰り道。 俺は足を引きずりながら、雨の降るスラム街を歩いていた。

 ブーツの底が濡れた石畳いしだたみを叩く、コツ、コツ……という乾いた音が、静まり返った路地裏に響く。


 右足の感覚はまだ鈍い。オウルを使った代償だ。あいつを使うと、しばらく思考がハイになって眠れなくなるのも厄介だ。


 だが、もっと厄介なことがある。

 オウルの記憶ログが、俺の脳裏に焼き付いていたからだ。


(……あの氷、ただの事故じゃなかったな)


 オウルが解析した術式の深層。そこに、奇妙な「署名サイン」が残されていた。

 それは、バグって暴走したのではなく「誰かがこじ開けようとして失敗し、強制ロックがかかった」痕跡だった。


 そして、その解除コードに使われていた幾何学パターン。

 俺は以前、修理した貴族の懐中時計の中に同じ紋様を見たことがある。


 R.C.S.M.(王立蒸気・魔導教会)。その紋章に酷似していた。


「……教会が、自分たちの管理する図書館の禁書を盗もうとしたってのか?」


 キナ臭い。『オルゴール』といい、今回の件といい、最近の帝都はどうかしている。 俺のような末端の修理屋ですら感じるほど、大きな歯車が狂い始めている。


「……関わりたくないんだがな」


 俺は短くなった煙草を指先で摘まむと、腰のベルトポーチから小さな金属容器を取り出した。

 真鍮しんちゅうの配管用パイプを加工し、ネジ式の蓋を取り付けた自作の携帯灰皿だ。この薄汚れたスラム街で、吸殻一つ持ち帰るなんて酔狂だと笑われるかもしれない。だが、前の世界で染み付いた習慣というのは、そう簡単には抜けないものだ。


 俺は丁寧に火を消し、吸殻を灰皿に収めて蓋を閉めた。金属が擦れ合う音が、妙に耳に残る。


 予感がする。

 このままで済むはずがない。いずれ俺の店からくり堂にも、その狂った歯車が回ってくるだろう。


 その時、俺は守れるだろうか? あの「開かずのカートリッジ」たちを使わずに。


 懐の中には、封印されたNo.3『シュライク』と、No.6『ハルシオン』の気配がある。

 特にNo.6は厄介だ。かつてのゲーム時代、俺が最も長く使い込み、最も多くの敵を葬った最強のカード相棒


 困った時はあいつを使えばなんとかなる。その「手癖」が、今の俺には致命的な毒になる。

 あんな暴力的なまでの曲線美を持つ女になってみろ。俺の精神なんて、一発で持っていかれる。


「……頼むから、出番なんて来るなよ」


 俺は冷たい石畳を踏みしめ、祈るように呟いた。

 だが、予感は消えない。いずれ、その最強のカードを切らざるを得ない日が来ることを。

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