第03話『沈黙の図書館、凍てつく数式』(前編)

 面倒な騒動から、数日が過ぎた。

 帝都の空は相変わらず鉛色で、路地裏には煤⦅すす》と雨の匂いが沈殿している。


 俺――九十九 蓮ツクモ・レンは、まだ新しい鉄扉の蝶番に油を差しながら、不機嫌に鼻を鳴らした。


「……たく。あのバカコンドルが派手にぶち破ったせいで、今月の稼ぎが全部修理代に消えちまった」


 『からくり堂』の新しい扉は、奮発して以前より分厚い装甲板入りの特注品にした。

 これでまたR.C.S.M.教会の連中が来ても、数秒は長く持ちこたえるだろう。もっとも、二度と御免だが。


「ごめんください……店主は、いらっしゃるかな?」


 遠慮がちなノックと共に現れたのは、煤けたスラム街には似つかわしくない、アカデミックガウンを羽織った初老の男だった。

 鼻眼鏡に、インクで汚れた指先。学者崩れか、あるいは本職か。


「いらっしゃい。生憎だが、魔導書の解読なら専門外だぞ」

「いや、解読ではない。『解凍』を頼みたいのだ」


 男は帝都中央図書館の司書だと名乗った。依頼内容は奇妙なものだった。「持ち運べないから、現場に来てくれ」という。

 俺は修理道具一式を詰め込んだ鞄と、腰のベルトに自作のライターをねじ込んだ。

 「万が一」のための武器や道具は持たない。俺の中に、全て眠っているからだ。

気が進まないが、準備はそれだけでいい。俺は店を出た。


        * * *


 帝都中央図書館。

 知識の殿堂と呼ばれるその場所は、地下深くに広大な「禁書保管庫」を持っている。一般人は立ち入り禁止の、冷たく静まり返った石造りの回廊。


「……こいつは酷いな」


 現場に到着した俺は、思わず眉をひそめた。

 保管庫の最深部。厳重なセキュリティが施されているはずの巨大な扉が、分厚い氷に覆われていたのだ。

 それだけではない。扉の前には、二人の警備員が立っていた――いや、立っているように見えた。


 彼らは、氷漬けになっていた。

 恐怖に歪んだ表情のまま、一瞬にして絶対零度で固められたかのように、氷像と化している。


「今朝、交代の者が発見しましてな」


 司書の老人が震える声で言った。


「バーナーで炙ろうとしたが、氷は溶けるどころか、火を近づけただけで炎ごと凍りつく始末だ。警察ヤードへ通報する前に、何とか扉だけでも開けられないかと……」


 俺はハンマーを取り出し、氷の表面を軽く叩いた。


 カァン!


 高い音が響くだけ。傷一つつかない。


(……物理的な氷じゃないな)


 俺の目には見えないが、肌がピリピリと痛む。

 俺はスキル【至高の鍛冶】を発動し、氷の構造を解析した。


(――解析Analyze


 脳内に情報が走る。

 材質:水(H₂O)。ただし、分子運動が完全に停止している。

 これは『数理魔導アリスマンシー』の暴走だ。空間座標を固定する術式がバグを起こし、「エントロピー」の数値を極限までマイナスに固定し続けている。

 ハンマーで殴れば衝撃が内部に伝播して、中の貴重な禁書ごと粉々になるだろう。


(コンドルの出番じゃない。……一番気が進まない「あいつ」の出番か)


 俺は溜息をつき、鞄からいくつかの薬品瓶を取り出して見せた。


「……爺さん、悪いが席を外してくれ。特殊な溶解液を使うんだが、気化すると毒なんでな」

「む、無茶はしないでくれよ? 中の本は国宝級なんだ」

「分かってる。俺はプロだ」


 司書が回廊の向こうへ消えるのを確認し、俺は扉の前で一人になった。

 静寂。そして冷気。俺は自分の頭を軽く叩き、脳内の奥底に眠る「知識の怪物」を呼び覚ます。


「……ああ、気が重い。頼むから俺の体を乗っ取るなよ?」


 俺は目を閉じ、脳裏に『思考スロット』を浮かべる。イメージするのは、ペストマスクが刻印されたカートリッジ。【No.2】。


(――装填ロード


 瞬間、俺の視界から色彩が消えた。

 代わりに、世界が青白い「線」と「数値」で埋め尽くされていく。俺の体から噴き出す青い光の粒子が、現実の肉体を上書きする。


 薄汚れた作業着が消え、漆黒の学士ローブが形成される。

 顔には、感情を隠すための不気味なペストマスク。腰には無数のチョークとフラスコ。


 変身完了。

 俺――いや、「私」は、ペストマスクのレンズ越しに、目の前の氷塊を見上げた。


「……素晴らしい」


 口から漏れたのは、レンのぶっきらぼうな声ではない。

 理路整然とした、しかし熱っぽく浮ついた学者の声。


「実に美しいエラーだ! 見たまえレン君・・・。この空間のエントロピーが完全に逆行している! 分子運動を計算だけで選別し、熱を奪う……まさに『マックスウェルの悪魔』の再現だ! この術式を書いた者は、物理学と魔導の境界ラインを理解しているぞ!」


 俺の自我が、頭の片隅で頭痛と共に叫ぶ。


(……いいから早く溶かせ! 人が来るぞ!)


「焦るなよ、凡人。まずはこの美しい数式を鑑賞解析しなくては」


 私は懐から一本のチョークを取り出した。

 指先で軽く弾くと、チョークは重力を無視して空中に浮かび上がる。


 さあ、証明の時間だ。

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