第2話 空白の三年間

朝が来ても、久遠は眠れなかった。

カーテンの隙間から差し込む光が、昨夜の続きを否定するみたいで、目を背けた。


机の上には、ICレコーダー。

触れれば、また真白の声がする。

触れなければ、昨日が夢になる。


久遠は、しばらく逡巡したあと、コーヒーを淹れた。

苦味が舌に広がっても、現実味は戻らない。


――三年前。


あの日から、時間は進んでいたはずなのに。

真白の死を知った瞬間、すべてが巻き戻った。


久遠と真白が組んだのは、偶然だった。

雑誌の臨時企画。編集とライター。

最初は、仕事上の相性がいいだけの関係だった。


「久遠さんの文章、無駄がなくて好きです」


初めてそう言われたとき、なぜか胸がざわついた。

褒められることには慣れている。

でも、真白の声には、余計な期待が混じっていた。


打ち合わせが増え、夜が増え、原稿が増えた。

気づけば、久遠は“仕事以外の話”を真白にするようになっていた。


――それが、当たり前になった。


別れの夜も、きっかけは些細だった。


「次の連載、一緒にやろう」


真白は、いつもの調子でそう言った。

未来の話を、まるで今の続きみたいに。


久遠は、その言葉が怖かった。


「……無理だ」


「え?」


「ずっと一緒みたいな言い方、やめろよ」


真白は、何も言わなかった。

ただ、少しだけ目を伏せた。


「……ごめん」


それだけだった。


久遠は、その背中を引き止めなかった。

いや――引き止められなかった。


コーヒーが冷めていることに気づき、久遠はマグを置いた。

代わりに、ICレコーダーを手に取る。


昨夜の続きが、まだ残っているはずだった。


再生ボタン。


『久遠、これ聞いてるなら……たぶん、相当落ち込んでるよね』


少し困ったような笑い声。


『でもね、言わせて』


ノイズ越しでも分かるほど、声が真剣になる。


『三年間、君の文章、全部読んでた』


久遠の呼吸が止まる。


『名前を見つけるたび、安心してた』


『ちゃんと生きてるって、分かるから』


久遠は、レコーダーを強く握った。


『会いに行こうと思ったことも、何度もあった』


沈黙。


『でも、久遠が選んだ距離なら……尊重したかった』


それは、久遠が一番欲しくなかった優しさだった。


『俺はさ』


小さく、息を吸う音。


『久遠に、嫌われたまま死にたくなかった』


胸の奥が、鈍く痛んだ。


再生が終わる。

久遠は、机に突っ伏した。


嫌ってなんか、いない。

ただ、好きすぎただけだ。


携帯が震えた。

知らない番号。


一瞬ためらってから、通話に出る。


「……はい」


『久遠さん、ですよね』


落ち着いた女性の声。


『兄の原稿の件で、お話があって』


――真白の妹だ。


『兄が、最後まで手放さなかった原稿があります』


『それを……久遠さんに、託したいんです』


久遠は、目を閉じた。


逃げ続けてきた三年間が、

静かに終わりを告げる音がした。


「……分かりました」


それは、覚悟の返事だった。


――空白だった時間が、今、ゆっくりと埋まり始める。

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