名前を呼ぶまで、あと一度

@mkenta1017

第1話 再生ボタン

久遠がその通知を見たのは、夜明け前だった。

画面に浮かぶ名前を、最初は理解できなかった。


――真白。


親指が止まり、次の瞬間、心臓が一拍遅れて跳ねた。

編集者・真白。三年前に別れた、元相棒。

連絡先は消していない。消せなかった。ただ、それだけだ。


件名は短い。


訃報のご連絡


「……は?」


声に出した途端、喉がひりついた。

何度も読み返す。文字は変わらない。

久遠は椅子に深く腰を落とし、天井を見た。


嘘だろ。

再会しないまま、終わるなんて。


葬儀には行かなかった。

行かなかった、というより――行けなかった。


理由はいくらでもつくれた。締切、仕事、体調。

でも本当は、彼の名前を声に出す自信がなかった。


数日後、小さな箱が届いた。

差出人は、真白の妹だった。


「兄が……久遠さんにだけ、これを」


箱の中に入っていたのは、古いICレコーダー。

見覚えがある。打ち合わせの合間に、よく使っていたやつだ。


久遠は、しばらくそれを机の上に置いたまま、触れなかった。


夜。

部屋の明かりを落とし、カーテンを閉める。

外の音が消えたのを確かめてから、久遠は再生ボタンを押した。


『……久遠』


一言で、胸が締めつけられた。


懐かしい声。

少し低くて、穏やかで、いつも自分の話を最後まで聞く声。


『これ、たぶん……最後になると思う』


小さなノイズ。息を吸う音。


『驚かせてごめん。病気のこと、言えなかった』


久遠は、思わず目を閉じた。


『君なら、きっと察すると思ったから』


それは、あまりにも真白らしい理由だった。


『三年前のこと、覚えてる?』


覚えている。

忘れたことなんて、一度もない。


「……忘れるわけないだろ」


声は、レコーダーには届かない。


『あの時ね、君がいなくなる理由、分かってた』


真白は、笑った。

泣いているようにも、聞こえた。


『久遠は、逃げたんじゃない。守ったんだ』


久遠は、膝に顔をうずめた。


違う。

守ったなんて、そんな格好いいものじゃない。

怖かっただけだ。好きだと認めるのが。


『だから、恨んでない』


少しの沈黙。


『でも、寂しかった』


再生が終わった。

部屋に、音は戻らない。


久遠は、しばらく動けなかった。

そして、誰もいない部屋で、ようやく声に出した。


「……真白」


その名前は、祈りみたいに震えていた。


――ここから、終わったはずの物語が、もう一度、始まる。

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