嵐の前の静けさ(後編)

PM12:05


昼休憩に入ると周囲が騒がしくなる。各々のデスクでお弁当を広げている者、財布を持ってフロアを連れ立って出ていく者。それぞれ自由な行動を始めている。引継ぎ資料の作成に勤しんでいた光希は顔を上げ、引き出しの中にしまい込んでいたスマホを取り出した。


「メール……。美沙さんからだ」


送られて来たのは1分前。ラウンジで昼食のお誘いだった。鞄の中から弁当包を出してから、光希は返信する。相馬美沙は、今年の四月に異動になった先輩だ。部署が変わってからも、こうして声を掛けてくれる。

前回一緒に昼食を食べたのは一週間前。それとなく特殊犯罪対策部門の雰囲気を聞いてみようかと考えながら、光希はラウンジへと向かった。


(やっぱりこの時間は混んでるな…)


ラウンジに一歩入ると一気に賑やかな声と、美味しそうな社食の香りが光希を包んだ。広いフロアに並べられているテーブル席は殆どが若い協会員で埋まっている。空いている席は殆ど無い。何処かに美沙がいるはず。光希はラウンジを見渡した。すると、窓際のカウンター席からこちらに向かって手を振る姿がある。あの場所は都内を一望出来るので、光希のお気に入りの席だ。ただこの時間は大体先約が居て座れない。


「光希ちゃん、こっちこっち!」

「美沙さん!」


トレーを抱えて歩く人にぶつからないように、光希は手を振る美沙が座る場所へ向かう。席を取ってくれていたようだ。美沙の目の前には注文の出来上がりを知らせる呼び出しベルが置かれている。美沙の隣の席に座り、光希は持ってきた弁当包を置いた。


「ありがとうございます」

「光希ちゃん、今日はお弁当なのね」

「はい。久しぶりに作る時間があったんです。美沙さんは今日はラウンジの社食ですか」

「ええ。ここのお昼、量もしっかりあって安いから。今日は和風パスタを頼んでみたの」


穏やかな言葉遣いは異動前から変わっていない。彼女の纏う空気は場を和ませてくれる。光希は、美沙の異動後の後任として入ってきた嶋田日菜の顔を思い出し、小さく息を吐き出した。


「……あら溜息。何かあった?」

「まあ、そうですね」

「もしかして、後任の嶋田さん?」

「……えっと」


じっ、と光希の顔を覗き込んで声を抑える美沙に光希は言葉を濁したが、美沙は、ああ…やっぱりね。と、つぶやいて苦笑いを浮かべた。


「嶋田さん仕事は出来るんだけどね…。光希ちゃんとは正反対のタイプだから。意地悪する人じゃないんだけど」


光希は真横の席で、美沙から引継ぎを受けていた嶋田日菜の姿を思い出した。声が大きくて、兎に角直球で意見を言う人だ。美沙とは正反対の性格で、半年が経つ今でも気軽に話を出来る関係には至っていない。

不意に美沙の手元の呼び出しベルが鳴り始める。


「あ、ちょっと行ってくるね」

「はい」


出来上がった注文の品を取りに席を立った美沙の後ろ姿を追う。艶のあるセミロングの黒髪に合わせたオフィスカジュアル。私服のセンスが良い。化粧も服装も派手な訳ではないが美沙はやはり周囲の男性の目を惹いている。


(美沙さん、すごくモテるんだよね…。)


美沙本人にはモテる、という自覚は無い。協会内で内勤する者に関しては、制服が無いため私服で勤務しても良い事になっている。

けれど光希は私服、と言われるとどんな服を着るべきか悩んでしまう性分だ。結局はパンツスーツという服装に落ち付いている。美沙のようにセンス良く私服が選べたら良いのに、と考えつつ弁当包から箸箱を取り出していると、トレーを持った美沙が戻って来る。トレーに乗っていたのはサラダとスープが付いた和風パスタセット。女性協会員が食べている所をよく見る。


「お待たせ」

「和風パスタセット、美味しいですよね。私もよく頼むんです」

「そうなの?私初めて食べるの。楽しみね。じゃあ食べましょうか」

「はい!」


手を合わせ昼食を食べ始める。光希は美味しそうにパスタを食べる美沙を見つめる。視線を感じたのか美沙は手を止めた。


「どうしたの光希ちゃん?食欲ない?」

「いえ、あの…美沙さん。一つ聞いても良いですか?」

「ええ。勿論よ」

「その……美沙さんの異動先の特殊犯罪対策部門ってどんな所なんですか?」


そう聞く光希に、美沙は少し考えて答えた。


「忙しさは前とそんなに変わらないんだけど、常時空気が張り詰めている感じね。やっぱり現場仕事は危険と隣り合わせだから」

「えっ、美沙さん現場に出ているんですか?」

「ああ違う違う私は裏方よ。管理システムがまだ整い切ってないから、手作業でやる事も多くてね」

「……そうですか。ありがとうございます」

「いいえ。ほら、お昼の時間終わっちゃうから早く食べよう?」


ラウンジの電波時計は12時半を指している。光希はお弁当に箸をつける。異動の話を美沙はまだ知らないはず。光希が卵焼きを口に運んだ所で、一息ついた美沙は周囲を見渡していた。


「この時間は本当に賑やかね」

「ええ。なんでも揃っていますから」


社食は勿論だが、お弁当やおにぎり、菓子パンなど一通りの物は販売しているため食べ飽きてしまうという事がない。これで24時間営業だ。特に一人暮らしの光希からすると、頼らない手は無い。


「夜ってどんな感じなの?こんなに人は多くなさそうだけど」

「夜はまた雰囲気が違って良いんですよ。ここから見える夜景は最高なんです」


残業後に夕飯やカフェオレをよく買いにくるため、光希は夜のラウンジの雰囲気を知っている。特に今座っている席から見える夜景は別格で、夜景を見る為だけにラウンジに足を運ぶ事もある程だ。


「そうなんだ!私、夜は来た事ないのよ。今度時間が合う時一緒に来ない?」

「はい。美沙さんの都合が良い日、また教えて下さい。私はいつでも大丈夫です」


先程美沙に異動先の事を聞いた際に、管理システムが整っていない、と言っていた事を光希は覚えていた。手作業でやる事が多いとどうしても時間は足りなくなる。万年人手不足、というのは現場だけでは無いようだ。


「うん。また連絡するね。光希ちゃん、真面目だから、あんまり考え過ぎないでね」

「……はい。ありがとうございます」


先程まではモヤモヤしていたが、少し気持ちが軽くなった気がした。



二日後、AM9:00


「おはようございます……あれ」


光希はある場所に来ていた。朝9時からの予約だったはずだが自動ドアの入り口を通り、受付まで来てみたがまだ誰も居ない。


特殊献血センター。本館とは別の建物で、施設の老朽化に伴い半年程前に建て替えが行われた。二ヶ月から三ヶ月に一回のペースで光希はここで献血をしている。ロビーに置かれた長椅子に座っていると、受付背後のドアがスライドして制服を着た若い女性が出て来た。長椅子座る光希に気づき、慌てて目の前までやって来た。


「あっ。お待たせしました!朝比奈光希さんですね」

「はい」

「カードをお持ちですか?」

「はい、お願いします」


手に持っていたカードを手渡すと、女性は受付に移動して手際良く設置されているパソコンを操作し始めた。呼び出した個人情報が画面に表示される。


【No.305】


その番号を見つめる女性の目が僅かに細くなる。辺りの空気に一瞬緊張が走った。提供者管理番号は献血センターの職員しか見られないようになっている。更に小さく右上に表示されていた赤字を一瞥し、ゆっくりと息を吐き出してデータを閉じた。


「はい!確認出来ました。ではこちらへどうぞ」

「よろしくお願いします」


 和かにそう言って歩き始めた女性の後ろを光希はついていく。いつもは採血が行われている大部屋にはまだ誰も居ない。足音は二つ。ロビーから採血場、どこにも人気は無くひっそりと静まり返っていた。


ーー誰も居ない。……確か前の時もそうだったよね。


 三年前、献血を始めたばかりの頃は直前の連絡もなかった。いつ来ても良かった上に人も多く賑やかだった。

 何かが変わったのは初めての献血から一年経った頃だった。日時を指定されるようになり、今日の様に誰も居ない場所へ通されるようになったのだ。

 一度、光希は何故誰も居ないのか聞いた事がある。だが、少し前からこの体制に変わったんですよ、と返されて話はそこで終わっている。


「こちらへどうぞ」


 暫く女性について行くと、個室の前で足が止まった。前に来た時と同じ部屋だった。

 一面白い壁の清潔な匂いの部屋。まさに採血の為だけに作られた部屋のようだ。


「ベッドに横になってお待ち下さい。血液検査と血圧の測定をしますので」

「わかりました」


 個室を出て行く若い女性の姿が見えなくなると、光希は靴を脱ぎベッドに横になった。これも前回と同じ。

 ここで問診票の入力、血液検査、血圧の測定、採血まで全てが行われる。そして必ず医師が一人側に居るので、急な体調不良にも直ぐに対応してくれる。不思議だったのは、光希が自分で飲み物を取りに行くと言うと持って来ますのでお申し付け下さい、と返されて全てが終わるまで部屋を出られない。気にする事でもないのかもしれない。


横になって数分後、別の女性が入って来た。献血センターの管理を任されている人。光希が献血を始めた頃に出会い、既に顔馴染と言っても良い関係だ。


「光希さん。いつもありがとうね」

「日野さん!よろしくお願いします」


朗らかな表情で話す女性、日野美也子。年齢は丁度母親くらい。三年前から光希を担当している。今日も他愛もない話をしながら、血圧を測り、血液検査を手際よく進めて行く。


「えっと、問診票は……」

「さっき入力しました」

「そう。ありがとう」


問診票のデータを確認した後、ちょっと待っててねと美也子は部屋を出て行った。


「……今日はどれくらいの量かな」


 今ここで行った検査で献血量が決まる。光希の場合、体調が良い時の最大量は100ml×4本分。つまり400mlだ。最小量は100ml×2本分。流石に最大量を献血した日は疲れやすくなるが、それでもこれが誰かの助けになっていると思うと気にはならない。

 暫くして戻って来た美也子の手には採血の道具を乗せたトレーが乗っていた。


「今日は200mlお願いしようかな。前は最大量採血させてもらったから今回は少なめ」

「……ありがとうございます」

「楽にしててね。針を刺す時だけ少し我慢して」

「はい」


 ここからは横になっているだけで全てが終わる。担当が美也子になってから、光希は採血時の痛みを感じた事は無い。そして今回の採血量はいつもより少ない。ふわふわする眩暈もいつもよりは軽く済みそうだ。


––––これが、誰かの役に立ってたら良いな。


 いつも優しかった母親の姿を思い出しながら、光希は腕に刺さった針から細いチューブを通る血を見つめる。


––––終わったら、少し休んでラウンジに行こう


 忙しくも穏やかな日常を送っていた光希。その日常が驚く程の速さで変わっていく事を、この時の光希はまだ知らなかった。

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鏡の向こうは妖の星––忘却の花嫁–– 蒼空光 @Blue-skyship

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