4.嵐の前の静けさ(前編)
「……異動受ける事にしたよ。お母さん」
午後11時、1Kの寮でベッドボードに立てている写真を見ながら光希は呟いた。三年前の事件で亡くなった母、朝比奈春香。奇しくも春香が働いていた部署への異動の打診だ。
最前線の現場に出ていた春香とは違い、事務員としてサポートをする形だが、それでも誰かの力になれる。不安はあるが同じかそれ以上にやる気に満ちていた。
「私、頑張るよ」
一ヶ月後には新しい場所での仕事が始まる。だからと言って今居る部門の仕事を疎かにするわけにはいかない。
「おやすみなさい」
ベッドに潜り込んだ。調度が殆どない部屋の中で唯一こだわって選んだモノトーンのベッド。少々値が張ったけれど、寝心地が良く気に入っている。目を閉じたのは丁度日付が変わる時間だった。
–––––
AM7:50
「もうこんな時間か……」
朝、身支度を整えて、家事をこなしていると時間はあっという間に過ぎていく。それでも今日はお昼のお弁当を作る時間があった。一人暮らしの為、時間が無い時は協会のラウンジで昼食を取ることの方が多い。
「……環奈さんどうしてたんだろう」
葉月家でお世話になっていた時は、高校生であった光希に毎日お弁当を持たせてくれていた。葉月環奈は忙しい身でありながらどうやって家事をこなしていたのかと光希は都度思い出していた。
勿論、家事は率先してやってきたつもりだったけれど、いざ一人で暮らしてみると思ったよりも手が回らない。
「そろそろ出よう」
零協会本館までは徒歩5分。勤務時間は9時から18時。今日からは一ヶ月後の異動に向けて、通常業務の他に引き継ぎの資料作成や私物の片付けも並行しなければならない。いつもより30分早く寮を出た。
夜勤明けと思われる協会員数名とすれ違った。いずれも男性だ。協会職員は非常に多いため、名前も顔も分からない人がいても不思議ではない。
そういえば、と考える。異動先である特殊犯罪対策部門は一番接点が無い部門だ。
知っている事といえば葉月環奈が異動先の責任者であること、そして一年お世話になった先輩の異動先であることだけだ。
まだ人通りは少ない。協会証を使い入り口を通り抜けて、エレベーターに乗り十四階のボタンを押す。途中で止まることもなくエレベーターは目的のフロアへと止まった。
ドアが開くと、目の前には蝶番の扉。ここも常時施錠されているため、協会証を使って開錠した。
総務部門のフロアには、まだ協会員はまばらで静かだった。光希のデスクは入り口に一番近い所。入って一番右手側の総務部門の島にはまだ誰も来ていない。気にせずいそいそとパソコンを立ち上げると、カバンをデスクの下にしまった。
–––そうだ。確か今週だったはず。いつだったかな
予定を思い出した光希はカバンから財布を出して、一枚のカードを取り出した。裏面が黒い特殊な塗料で塗ってある。特殊献血の際に必要になる物だ。表面には献血をした日、そして次回の献血可能日時が一目でわかるように印字されている。
事前に特殊献血センターからは何月何日の何時に来て下さい、と連絡がくるため無理に確認はしなくても良いのだが上席には伝えておかなければならない。
––––明後日の午前9時か。部長に伝えておかないと…
献血をした翌日は体調の良し悪しを問わず公休日になる。この制度故か特殊献血制度を利用している協会員は意外と多い。今回のように早い時間に決められると、丸二日休まなければならないがこの場合は二日とも公休日になる。
通常の献血とは決定的に異なる点は一つだけ。僅かだが提供者に金銭が支払われる。基本的には提供者の善意で行われているが、これを目当てに提供者となる者も居る。
光希はカードに印字された日付けを見つめる。誰かの助けになれば、という思いから約二ヶ月に一回のペースで献血をして既に三年。翌日は異常に身体が怠くて動く気すら起きない事もある。体調次第で献血量をコントロールしてくれるので倒れた事はまだ無い。
––––今回はどれくらいなんだろう。
そんな事を考えていると「おはようございます」という声と共に軽快な足音が聞こえ光希の右隣で止まった。ハッと顔を上げると良く知る女性の姿があった。
「日菜さん、おはようございます」
「おはよう。光希ちゃん今日早いね」
「はい……ちょっとやる事がありまして」
光希がそう返すと、ああそうか。と納得したような言葉が返ってきた。
嶋田日菜。光希の先輩として四月に異動してきた。今日も化粧は決まっている。女性の光希から見ても完璧だ。これで仕事も出来るのだから、彼女を放っておく男性はいないはず。
ただ光希は少々日菜の事が苦手だった。
「光希ちゃん異動するんだね。しかもあそこでしょ?トクハンだっけ?休憩を取る暇すら無いって聞いた事あるよ」
「あれ、もう通達出ていましたか?」
「ううん?桜木部長に聞いたよ。大変よね。あそこ万年人手不足だから前にいた…相馬さん?も引き抜かれちゃったみたいだし」
役職がないはずの日菜が既に光希の異動の情報を知っている。あれ情報が早いな、とも一瞬思った光希だが、桜木部長に聞いたという言葉が返ってきた。正式な通達はまだ出ていないはずだ。
「あ、これまだ言っちゃダメなんだっけ…」
「……通達出ていませんからね」
「誰にも言わないよ。私口固いから」
もうしっかり聞きましたよ、と思わず口を滑らせそうになり慌てて言葉を飲み込んだ。
第一印象はかなり開けっぴろげな人だな、だった。オブラートに包む事をしないのか、出来ないのか。そして口がかなり軽いために重要な話をする事は躊躇われた。とにかく情報が早い。
彼女に話した事は、翌日になれば同じフロアの女性職員全員が知っていると思っても良いくらいなのだ。
「光希ちゃんって本当に真面目だよね…。引き継ぎの資料なんかギリギリでも良いのに」
「余裕を持って終わらせておかないと、何かあった時困るので」
「そっかー……光希ちゃん合コンとか行ったりしないの?好きな人居るの?若しくは彼氏とか……」
「いませんね」
この手のやり取りを何度しただろうか。日菜は無類のイケメン好きで、彼氏が居なかった時期がないと言っていた。誰かに恋をした記憶すら無い光希は、返す言葉が探せなくなる事も良くあった。
–––余裕、なかったんだよね……。
ポツリと光希は胸の内で呟いた。恋愛をあえて避けてきた訳ではない。ただ生きていく事で精一杯だったため、そこまで考える余裕がなかったのだ。そんな事を知ってか知らずか、延々と同じ会話が繰り返されている。
日菜のマシンガントークに苦笑いを浮かべつつ、光希はパソコンのデスクトップ画面に【引継ぎ資料】というフォルダを作り、少しずつまとめていたデータを移動していく。ふと、ある資料で手が止まる。
––––これが一番大変かな。個人情報だからやっぱり気を遣う。
【VBT検査受付業務手順】のデータを見つめる。零協会でしか受けられない検査で、希望する人々が毎日列を作る。それを受付し検査場へ案内、その結果次第で葉月会長まで報告するべき情報か、部門の部長までで良いか、臨機応変に判断する。そしてその報告書作成までが一連の作業。データは全て個人情報。協会員の管理情報の入力も全て光希が担っていた。
––––入って直ぐは、難しいかも。
後任はまだ決まっていない。募集をかけているが、異動日までに入ってくるとは限らない。誰が見ても理解できるようにしておくべきか。
––––よし……頑張ろう。
光希は、早速引継ぎ資料作成に取り掛かった。
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