第7話
「労働者の汗と涙を犠牲にし、ブルジョワの腐敗と強欲にまみれた資本主義社会と違い、ソヴォク国民は階級の上下などなく、皆等しく自らの幸福を追求することができるのだ」
と、社会主義国家ソヴォクの優位性を誇り、喧伝していたソヴォクだが、数多くの人間がひしめき合って暮らしている以上、あちらこちらで犯罪が起きていたのは西側諸国と同じだった。窃盗や暴力は勿論、ごく稀にではあったが殺人だって存在していたのだ。
しかし、そのような「人間的な悪徳」は許容していたソヴォクでも、あってはならないことが一つだけあった。
それは、自らの意志で行方をくらますこと。
ソヴォク国民には全員、居住許可証を所持することが義務づけられ、居住地から移動する場合は当局に移動の許可を申請する必要がある。そして、移動する際移動記録は当局に記録され、常に移動許可証と共に住民登録されている居住地の居住許可証を携帯していなければならない。また、移動先にて、NKVDの職員に許可証の提示を求められたら、何を置いてもこれらをすぐに出すことが重要だった。ぐずぐずしていると怪しまれてしょっ引かれる場合があったからだ。つまり、どこに居ようと国に自分の居場所を把握されるわけで、この国に隠れる場所はどこにもなかった。また、この国から逃れる道も。
国はこの七面倒臭い手続きについて、「ソヴォク国民の安全のため」と言い訳していたが、監視が目的なのは勘が良い人間であれば誰もが知っていた。国外へは勿論、ソヴォク国内であっても移動の自由が制限されているのは、社会主義の理想を掲げた現実が惨めな結果に終わっていることを、無垢な市民に知られたくないからだった。
それでも外の世界を目指す人間はいて、思想的な考えを持った者から単に今の生活から自由になりたい若者まで、危険を顧みずに移動を試みた。しかし、その無謀な冒険はまず成功することはなく、反逆者は残らずグラーグ送りにされていた。そして、グラーグに送られたが最後、生きて出てくることも稀だった。
自分が下した決断の先に、そんな未来が待っていることは重々承知している。失敗したら間違いなく地獄行きだ。そう、かつて親友が味わったような地獄の中に、自分も落とされるに決まっている。かといって万が一成功したところで、夢に見たような薔薇色の世界が広がっている保証があるわけでもなかった。
それでも、ほんの見えるか見えないかという一筋の光でも変化の兆しが見えている今、何もせずじっと待っていることの方がオリガには耐え難い。動くなら今しかないと思った。
四月十七日夜十時二十七分、オリガはペトロザヴォツカ行きのエレクトリーチカの中にいた。
夜の遅い時間でもあり、乗客はまばらだったが、仕事の疲れもあるのか、北方の辺鄙なこの辺りではあまり見ることがない、上品な装いの女に注意を向ける者は誰もいなかった。それでもオリガは周囲の目を惹くことがないよう、カチーフを目深に被り直した。そして、社内の頼りない照明の下、手にした紙切れに書かれているものを何度も何度も読み返す。
ペトロザヴォツカ駅に着くまで、あと十数分。エレクトリーチカを降りたら、これに書かれていることが羅針盤となり、世界に行くためのチケットになる。だから、この紙を紛失してははならないが、万が一なくしても大丈夫なように、一つ残らず覚えておくことは大事だ。
この日は月曜日、普段であれば大学での勤めを終えて帰宅し、夕食や入浴も済ませて気が抜けたように過ごしている時間だが、今日だけは違った。いや、そうではない。今朝までは「亡き指導者の赤い皇女」として生きてきた。しかし、今日からそんな気楽で悠長な暮らしとは無縁になる。
明日になれば、自分の人生のすべてが変わる。自分自身の手で、足で、すべてを変える。
オリガは、今日を限りにソヴォクと訣別すると決めていた。
狂おしい棘 尾崎ふみ緒 @fantasize_fumi0
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