第2話ジョン・レノンのサッカーアカウント

ニューヨークの喧騒から遠く離れた、ヨーロッパの小国ルクセンブルク。深い緑に囲まれたスタジアムの芝生の上に、ジョンは立っていた。

​かつて数万人の叫喚を浴びたギターの代わりに、今は足元に一球の白黒のボールがある。彼の登録名は、誰もがすぐに忘れてしまうような、平凡で響きの薄い偽名だった。長い髪を短く切り揃え、度のきつい眼鏡をコンタクトレンズに変えた彼を、ジョン・レノンだと見抜く者は一人もいない。ここでは、彼はただの「背番号8」だった。

​ジョンのポジションは、中盤の底。ゲーム全体を見渡し、リズムを刻み、パスを配給するセントラルミッドフィールダーだ。

​「音楽もサッカーも、結局はリズムとスペースの支配なんだ」

​ジョンは心の中でそう呟きながら、迫りくる相手ディフェンダーを軽やかなターンでかわした。ルクセンブルク代表という、決して強豪とは呼べないチームにおいて、ジョンの「ビジョン」は異彩を放っていた。ワールドカップのヨーロッパ予選。相手は誰もが知るサッカー大国のスター選手たちだ。

​激しい肉体の衝突。肺が焼けるような呼吸の苦しさ。そして、一瞬の隙を突いて放たれるキラーパス。音楽の世界では、一度放った言葉や旋律は永遠に固定されてしまうが、ピッチの上ではすべてが流動的で、一秒先の結果さえ予測できない。その「不確かさ」こそが、ジョンが求めていた救いだった。

​スタジアムを埋める観客は、この中盤の選手がかつて「キリストよりも有名だ」と豪語した男であることなど露ほども知らない。負ければ容赦ない罵声が飛び、勝てば地元のパブでささやかな祝杯が上がる。そのシンプルで剥き出しの人間関係が、ジョンの傷ついた心を癒やしていった。

​チャンピオンズリーグの予備予選、冷たい雨に打たれながら泥にまみれる。ワールドカップ予選で強豪に完敗し、ピッチに崩れ落ちる。それでもジョンは、これまでにない充実感を感じていた。ジョン・レノンとして平和を歌うことは義務だったが、この小さな国の代表としてボールを追うことは、彼自身の「意志」だったからだ。

​「想像してごらん、国境なんてないんだと……」

​かつて自ら書いた詞を、彼はピッチの境界線の内側で反芻する。ここでは確かに、有名人も労働者も、思想家も若者も、ただのプレイヤーとして平等に混ざり合っていた。

​試合終了のホイッスルが響く。ジョンはユニフォームの裾で顔の汗を拭い、夜空を見上げた。ニューヨークの病院の天井とは違う、どこまでも続く暗い空。

次の「アカウント」への切り替えまでは、もう少しだけ、この泥の匂いと筋肉の痛みの中に浸っていたかった。

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