第三章:『畜肉供犠の飼育』
三十五階「調理場(キッチン)」の空気は、獣の脂と、それを焼く芳醇な香りに満ちている。だが、その香りを嗅いで腹を空かせる者はここにはいない。
「マルク、次の給餌だ。上層の『聖歌祭』までに、その豚を完璧な脂に仕上げろ」
監督官の声に、マルクは力なく頷いた。彼の目の前には、白く肥え太った豚が鎮座している。それは百階で星になるための資源ではない。80階以上の支配層が、その舌を悦ばせるためだけに要求する、この塔で唯一の「本物の肉」だ。
この階層において、家畜は人間よりも高い資産として管理される。マルクの仕事は、家畜の品質を上げるために、自らの「緑」の光を文字通り分け与えることだった。
彼は使い古された注射器を自分の腕に刺し、栄養に満ちた血液を抜き取ると、それを豚の特製飼料に混ぜ込んだ。さらに、自身の「緑」の光を掌から放ち、豚の皮膚を撫でて肉質を柔らかく整える。マルクが痩せ細れば細るほど、豚の肉は真珠のような光沢を帯びていく。
「いい子だ……お前が美味くなれば、俺の資産も増える。そうすれば、俺もいつか収穫されて、空の星になれるんだ……」
マルクは家畜を愛していた。いつか自分を「星」へと押し上げてくれるチケットだと信じていたからだ。
ある日、マルクが心血を注いで育てた豚が、最高の嗜好品として「出荷」の時を迎えた。 豚は屠殺され、美しい肉塊となって上層へと運び去られた。その瞬間、マルクの台帳には報酬として多額の資産が振り込まれた。しかし、同時に過酷な警告音が鳴り響く。
長期間にわたり大量の「緑」を家畜に注ぎ込み続けた代償として、彼の生命維持コストが跳ね上がったのだ。台帳の数値は、報酬が加算される端から、欠損した身体機能を補うための「緊急延命費」として凄まじい勢いで削られていった。
結局、振り込まれたはずの資産は一瞬で底をつき、数値は死の「0.00」に達した。彼は歓喜に震え、100階へ昇る光の渦を待った。
しかし、足元に現れたのは転送ゲートではなく、ただの「廃棄用シュート」だった。
叫ぶマルクに、冷徹な通知音が響く。 『警告:個体識別番号31-092。長期間の供犠による「緑」の著しい欠損を確認。資源としての純度が規定値を下回ったため、星核としての採用を見送ります』
聖歌隊にとって、マルクはもはや「人間」ではなかった。最高級の肉を育てるための、ただの有機的な「肥料」であり、使い古されたボロ布に過ぎなかったのだ。
マルクは100階の星空を一度も見ることなく、自分が育てた豚の脂を焼くための「燃料」として、地下の焼却炉へと吸い込まれていった。 彼が捧げた命は、上層の食卓で一瞬の嬌声に変わるだけだった。
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実験棟ヴィサヴァーン :全十章と起源の物語 @Falxtan
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