外伝EP07 ありがとうを、言う前

 ※本作は『君を救うために時間を越えた。〜REWIND〜』本編を補完する外伝記録です。

 本エピソードは、本編最終話へ直接接続する構造を持ちます。

 本編読了後にお読みください。



 2031/11/07 〜3週目・サラ視点〜


 ドアが閉まったあとも、私はしばらくその場に立っていた。

 鍵の音が、思ったよりも小さくて、拍子抜けする。


 いつもと同じ。

 本当に、いつもと同じだった。


 サリの体重が、腕の内側に預けられている。

 軽い。けれど、確かに「いる」重さ。


 胸のあたりが、ゆっくり上下しているのを感じるたび、私は呼吸の回数を数えるのをやめた。

 数えなくても、続いている。

 続いているから、数えなくていい。


 リビングに戻ると、朝の光はさっきと同じ場所に落ちていた。

 テーブルの脚の影が、ほんの少しだけ伸びている。


 時間は、ちゃんと進んでいる。


 ソファに腰を下ろし、サリの背中を撫でる。

 叩くでもなく、押すでもなく、ただ指先でなぞる。


 看護師として向き合った動き。

 母親として、繰り返してきた動き。


 どちらも、同じ速さだった。


 サリは一度、小さく身じろぎをして、それきり動かなくなった。

 眠りが深くなった合図。


「……おやすみ」


 返事はない。

 それでいい。


 私は、声を出したかったわけじゃない。

 音を、部屋に残したかっただけだ。


 キッチンに立ち、使い終わったマグカップを流しに置く。

 水は出さない。

 出してしまうと、朝が終わる気がした。


 サリを抱いたまま、窓の方を見る。

 カーテンは半分だけ開いている。


 光が、ちょうどいい。

 強すぎない。

 弱すぎない。


 ――このくらいがいい。


 そう思ってしまう自分を、私は責めなかった。

 今日は、責めない日だ。


 ソファに戻り、サリの額に頬を寄せる。

 ほんのり温かい。

 体温が、ちゃんとある。


 それだけで、胸の奥が少し緩む。


 この子は、まだ何も知らない。

 知らなくていい。


 世界がどれだけ不安定か。

 どれだけ、選択ひとつで壊れるか。


 今は、知らなくていい。


 私は、サリの背中に耳を当てる。

 心音を聞くわけじゃない。

 ただ、音があることを確かめる。


 一定。

 乱れていない。


 ――大丈夫。


 その言葉を、声に出さずに繰り返す。


 時計を見る。

 秒針は、相変わらず一拍遅れて進んでいる。


 不思議と、その遅れが気にならなかった。


 遅れても、戻らなくても、

 それでも時間は、前に進む。


 サリの指が、私の服を掴む。

 さっきより、少しだけ強い。


 無意識の動き。

 でも、私はその力を、ちゃんと受け取った。


「ここにいるよ」


 小さく、そう言う。

 言葉は、サリに向けたものじゃない。


 私自身に、向けたものだった。


 この時間が、いつまで続くかなんて考えない。

 考えないと決めた。


 今日が最後だと分かっていることと、

 今を生きることは、別だから。


 サリの呼吸に合わせて、私も息をする。

 深く吸わない。

 浅く、確実に。


 ――これでいい。


 そう思えたことが、少しだけ怖かった。

 でも、その怖ささえも、今は抱えていられる。


 私は、サリの髪に顔を埋める。

 匂いを、胸いっぱいに吸い込む。


 忘れないためじゃない。

 覚えておくためでもない。


 ただ、今ここにあるものを、

 そのまま受け取るために。


 やがて、玄関の方から、微かな音がした。

 気のせいかもしれない。


 それでも私は、顔を上げなかった。


 この時間は、私とサリだけのものだ。

 誰にも、邪魔させない。


 私は、サリを抱き直し、もう一度ソファに身を預けた。

 午後になる前の、静かな時間。


 胸の奥で、そっと確信する。


 ――ちゃんと、愛せてる。


 それだけで、今日を終わらせられる。



 リビングの音が、ひとつずつ減っていく。


 リクがサリを連れて、浴室の扉が閉まる。

 換気扇が回り始める、低く均された回転音。


 生活の音が、奥へ流れていく。

 その最後の日常を見送る役目を、私は自分で選んだ。


 ——ここまで。


 胸の奥でそう区切った。


 ソファに腰を下ろしたまま、深くは息を吸わない。

 吸えば、まだ余裕があるように見える。

 余裕があると見せた瞬間、この順序は崩れる。


 呼吸は一定で、体温も安定している。

 その「安定」が、今日まで積み上げてきた結果だと、私は知っている。


 視線を上げる。


 ジンは、部屋の中央に立っていた。


 一歩踏み出せば届く距離。

 けれど、踏み出さない。


 この人は、そういう立ち方を選ぶ。

 介入ではなく、判断の余白を残す立ち位置。


(……うん)


 この距離でいい。

 近すぎれば、感情が先に壊れる。

 遠すぎれば、順序が伝わらない。


 私は、声の高さを落とした。


「……ここまで、だったんだ」


 説明の声ではない。

 お願いの声でもない。


 ただ、事実を置くための声。


 ジンは、返事をしない。

 聞いていないわけではない。

 今は、言葉を選ばない段階だ。


 私は続ける。


「私が……未来を知ってること」


 言葉を短く切る。

 長くすれば、概念になる。


「全部じゃないけど」


 指先が、わずかに震えた。

 それを見られないように、膝の上で手を重ねる。


「2030年の11月」


 その数字を出した瞬間、空気の密度が変わる。


 ——境界。


 私の中では、もう名前が付いている。


「そこから先、世界は……」


 言いかけて、止めた。


 “世界”という言葉は大きすぎる。

 この人のロジックは、スケールが大きい話ほど処理が速い。

 速すぎて、個人が置き去りになる。


「……火事みたいに、広がる」


 代わりに、そう言った。


 火。

 連鎖。

 制御不能。


 ジンの視線が、ほんのわずかに動く。

 それで十分だった。


「人によって、違う形で」


「早い人もいれば、遅い人もいる」


 一拍置く。


「私は……一番、近かった」


 “特別”とは言わない。

 “選ばれた”とも言わない。


 それは、物語の言葉だ。


「見えるの」


 淡々と告げる。


「感情も、選択も、結果も」


「だから、干渉はできない」


 ここで、ほんの少し間を取った。


 ジンの眉が、わずかに動く。

 理解ではない。

 違和感だ。


「でも」


 私は、視線を上げる。


「“見る力”は、渡せる」


 逃がさない。

 この言葉だけは。


「……もう、渡してる」


 言い直すように、続けた。


「一度、渡した」


 脳裏に浮かぶ光景。

 2周目の世界。

 見えていたのに、意味に辿り着けなかった背中。


「見えるようには、なった」


「でも、意味までは届かなかった」


 否定ではない。

 失敗でもない。


「順序が、違っただけ」


 私は、静かに言った。


「今度は、順序を揃えた」


「戻ってすぐ、渡した」


「迷う前に」


 それが、3周目だった。


 2030年11月以降、火は広がる。

 でも私は、広がる前の「小さな芽」を見つけられた。


 数字でもグラフでもない。

 息の浅さ。返事の一拍。笑うはずの場所で笑えない瞬間。

 そういうものを、先に拾えた。


 それらを、先に拾えた。


「だから……抑えられた」


 抑制薬。

 早期実証。


「一気には、来なかった」


「負荷が、分散された」


 寿命、とは言わない。

 延びた、とも言わない。


 それを口にした瞬間、取引になる。


「……間に合った」


 その成果が、今、腕の中で眠っている。


 それで、十分だった。


 ジンは、まだ何も言わない。


 目は開いている。

 呼吸も、安定している。


 けれど——


(……入ってない)


 はっきりと分かった。


 言葉は届いている。

 意味は、届いていない。


 それでいい。


 今日、この場で理解される必要はない。


「最後に」


 声を、さらに落とす。


「これは、お願いじゃない」


「選択の共有」


 背もたれに、体を預ける。


「私は、このまま行く」


「境目は、11月7日」


「そこを越えたら、戻れない」


 ジンの肩が、ほんのわずかに強張る。

 感情ではない。

 反射だ。


「でも、それで終わらせる」


「最後のフェーズは、私が引き受ける」


 静かだった。

 驚くほど、静かだった。


「だから」


 一拍。


「ジンさんは、生きて」


「続けて」


「間違え続けて」


 わずかに、笑う。


「正しいことだけじゃ、世界は残らないから」


 その瞬間。


 ——フェーズが、消えた。


 理由は説明しない。

 説明できない。


 ただ、空気が軽くなった。


(……ここまで)


 ジンが、瞬きを忘れている。


「ジンさんも、もう大丈夫だよ」


 そう言って、私は最後に笑顔を送った。


 ゆっくりと立ち上がる。


 選んで、動く。


 振り返らず、寝室へ向かう。


 背中越しに、最後にひとつだけ置いていく。


「……もう、縛るものはない」


「あとは、あなたが選んでいい」


 それは、理解されるための言葉じゃない。


 世界に残すための言葉だった。



 〜3週目・ジン視点〜


 リビングの灯りは、そのままだった。

 明るさも、色も、さっきと変わらない。


 変わったのは、音だけだ。


 浴室から聞こえていた水音が止まり、

 換気扇の回転が、低く一定になった。


 生活は、続いている。

 続いているのに――


 ジンは、動けなかった。


 リビングと寝室の境目。

 数歩で届く距離に、サラはいる。


 見えている。

 ベッドに腰を下ろし、背中を預けた姿勢。

 呼吸の上下。

 乱れていない胸元。


 ――問題はない。


 そう判断できる情報は、揃っていた。


 なのに。


 身体が、判断に従わない。


 足に力が入らないわけじゃない。

 恐怖で凍っているわけでもない。


 ただ、

 「踏み出す」という選択肢が、頭の中から消えていた。


 リクの声が、震えた。


「……サラ?」


 その一音で、

 ジンの内部で何かが、ずれた。


 声の波形。

 呼吸の乱れ。

 言葉になる前の、ためらい。


 今までなら、数値に変換して処理していた。

 感情の揺れとして、距離を取って見ていた。


 ――できない。


 解析が、始まらない。


 代わりに、

 胸の奥に、重さが落ちてきた。


 理由が分からない重さ。

 名前のつかない圧。


 サラの声がする。


「大丈夫だよ」


 いつも通りの音程。

 いつも通りの速度。


 それが、

 どうしてこんなに危うく聞こえるのか、分からない。


 理屈が追いつかない。


 サラが、少しだけ体を寄せる。

 距離を確かめる仕草。


 ――ああ。


 ここで、

 初めてジンは理解した。


 彼女は、

 「選んで」そこに座っている。


 倒れたのではない。

 限界だからでもない。


 自分で、そこを終点にした。


 リクの泣き声が、部屋に満ちる。


 抑えようとして、抑えきれない音。

 整えようとして、崩れていく呼吸。


 それを、

 ジンは止められなかった。


 止めよう、という発想が浮かばなかった。


 助ける、という選択肢が、

 今の自分には存在しないと、分かってしまった。


 胸の奥が、

 じわりと痛む。


 鋭さはない。

 突き刺さるようでもない。


 ただ、

 逃げ場のない鈍痛。


 ――これが。


 思考より先に、身体が答えを出した。


 これが、失うということか。


 誰かがいなくなる、という現象ではない。

 関係が断ち切られる、という意味でもない。


 「もう二度と、同じ世界を見られない」という感覚。


 サラの指先が、シーツに落ちる。


 その音は、ほとんど聞こえなかった。


 なのに、ジンの中では、はっきりと響いた。


「サラ?」


 リクの声が、届かない。


 届かない、という事実を、

 ジンは初めて“理解ではなく感覚”で受け取った。


 胸が、詰まる。


 息が浅くなる。


 論理は、何も解決してくれない。


 正しかった手順も、

 積み上げた成果も、

 この瞬間には、意味を持たなかった。


 ジンは、視線を落とす。


 床に伸びる影が、

 自分の足元で、わずかに揺れている。


 こんなにも、

 世界は脆かったのか。


 こんなにも、

 人は、簡単に置き去りにされるのか。


 ――いや。


 違う。


 置き去りにされたのは、

 自分だ。


 サラは、

 すでに先へ行っている。


 リクも、

 泣きながら、そこに留まっている。


 自分だけが、

 どこにも立てていない。


 このまま、ここにいてはいけない。


 理由は説明できない。

 説明できるほど、整理されていない。


 ただ、

 この場所に留まれば、壊れる。


 感情が。

 判断が。

 そして、

 これまで積み上げてきた「自分」という構造が。


 ジンは、静かに踵を返した。


 音を立てないように。

 誰にも気づかれないように。


 逃げるためじゃない。

 守るためでもない。


 ――考えるため。


 何を失ったのか。

 何が壊れたのか。

 そして、自分は、これから何者になるのか。


 その答えを、

 この場所では、見つけられない。


 リビングの灯りが、背中で揺れる。


 ジンは、振り返らなかった。


 振り返れば、

 もう戻れなくなると、分かっていたから。


 その夜、

 ジンは姿を消した。


 誰にも、理由を告げないまま。

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