外伝EP08 残された時間の、その先で

 ※本作は『君を救うために時間を越えた。〜REWIND〜』本編を補完する外伝記録です。

 本エピソードは、本編最終話へ直接接続する構造を持ちます。

 本編読了後にお読みください。



 〜3週目・リク視点〜


 朝の光は、手加減を知らない。

 カーテンの隙間から落ちた薄い線が、床の同じ場所を照らしている。


 それが、腹立たしかった。

 昨日も、同じ角度で。

 今日も、同じ角度で。


 世界は、平然と続いている。


 ベビーベッドを覗く。

 サリが、眠ったまま指を曲げた。布を探して、掴んで、離す。


 呼吸。胸の上下。

 それだけで、リクの体が勝手に動く。


 ミルク。

 オムツ。

 タオル。


 手順はもう、身体が覚えてしまっている。

 覚えたくて覚えたわけじゃない。


 シンクの水が落ちる。

 当たり前みたいに、落ちていく。


 落ちる音がある。

 ここにはある。


 ——じゃあ、なんで。


 リクは、キッチンの端に置いたスマホを見た。

 画面は暗い。通知はない。

 暗いのに、そこが一番重く見える。


 通話履歴の一番上。

 同じ名前が並んでいる。


 ジン。


 押して、耳に当てる。

 呼び出し音。

 一定の間隔。

 切れる。


 もう一度。

 呼び出し音。

 一定の間隔。

 切れる。


 音が、世界から拒否されているみたいだった。


 リクはスマホをテーブルに置いた。

 置くとき、力が入った。

 でも音は、思ったより小さい。


 小さすぎて、余計に腹が立つ。


 部屋の隅に、黒いスーツが掛けっぱなしになっていた。

 「その日」から、ずっと。


 クリーニングにも出していない。

 出せなかった、の方が近い。


 葬儀の日のことは、細かく思い出せない。

 思い出すと、体の中が崩れる感覚がある。


 ただ、ひとつだけ。

 はっきり覚えていることがある。


 ——ジンは来なかった。


 来ない理由を考えた。

 事故。

 渋滞。

 体調。

 間違い。


 どれも、薄かった。

 薄いまま時間だけが進んで、最後には「来ない」という事実だけが残った。


 リクは笑いそうになって、笑えなかった。

 代わりに、喉の奥が乾く。


 サリが小さく声を出す。

 泣く前の、短い合図。


「……はいはい。分かってる」


 口に出すと、声が自分のものに戻る。

 リクは哺乳瓶を傾け、サリの口元に運ぶ。


 吸い付く。

 喉が小さく動く。


 それを見てしまうと、リクはもう怒鳴れない。

 怒鳴るための肺が、別の用途に取られている。


 サリの口が離れた。

 少しだけ満足した顔。

 そのまま、眠りに落ちていく。


 リクは抱き直して、背中を軽く叩いた。

 速すぎず、遅すぎず。

 ただ、確実に。


 叩く手が止まった瞬間、部屋が広くなる。


 ——行くか。


 行かなきゃいけない場所があった。

 行きたくない場所でもある。


 会社。


 ジンが「そこ」にいる可能性を、まだ捨てきれていなかった。

 スマホが繋がらなくても、現実は机の上に残る。

 そういう人だった。


 リクはサリを抱っこ紐に収め、金具を鳴らさないように留める。

 不思議だ。

 音を立てたくない理由が、もう分からないのに。


 玄関の鍵を回す。

 カチリ。

 短い音。


 外の空気は冷たかった。

 季節が、ちゃんと進んでいる冷たさ。


 ——ちゃんと進むなよ。


 喉元まで出かけて、飲み込んだ。

 サリの体温が胸に当たる。

 それだけで、言葉が変な形になる。


 会社のドアを開けると、空気が違った。

 同じ場所なのに、違う匂い。


 受付の人が、目を伏せた。

 それが、先に答えだった。


 リクは何も聞かずに、奥へ進む。

 ジンの席。


 整いすぎていた。

 机の上に、余計なものがない。


 「片付けた」じゃない。

 最初から、終わっていた。


 引き出しは空。

 棚も空。

 私物がない。


 その時、背後から上司の声がした。


「リク、これ」


 紙が、1枚だけ。

 白い封筒。

 字は、ジンの字だった。


 短い文。

 必要なことしか書いていない。

 いつもの、ジンの文章。


 退職の痕跡。


 リクの目が、その文字を追う。

 追うのに、意味が入ってこない。


 入ってこないまま、胸の奥だけが先に反応して、熱くなる。


 怒り、っていう形をしていない。

 でも、確実に熱い。


「……なんなんだよ」


 声は小さい。

 小さいのに、部屋の中でやけに響く。


 誰に言ったのか分からない。

 ジンに。

 いないジンに。

 それとも、世界に。


 リクは封筒を握り潰しそうになって、やめた。

 紙は「そこにある」感じがする。

 だから余計に、壊せない。


 その足で、ジンの住まいへ行った。

 チャイムに反応はない。


 管理会社を調べ、連絡をする。

 確認するためじゃない。

 否定してほしかった。


 結果は、淡々と返ってくる。


「解約の手続き、完了しています」


 リクは、サリの頭に頬を当てた。

 温かい。

 生きている温度。


 その温度がなかったら、今、ここに立っていない。

 立っていない、じゃなく。

 立てない。


 帰り道、風が吹いた。

 頬に当たる冷たい空気。

 それでも、肺には入ってくる。


 世界は、続く。

 続くからこそ、腹が立つ。


 家に戻ると、部屋の灯りは同じだった。

 明るすぎず、暗すぎず。


 サリを寝かせる。

 布団をかける。

 呼吸が整う。


 リクはソファに座ったまま、動けなくなった。

 スマホを持つ。

 画面を見る。

 通知はない。


 「いない」ことだけが、ちゃんとある。


 涙は出なかった。

 出る場所がまだ、決まっていない。


 代わりに、胸の中に重さが溜まっていく。

 重さは言葉にならない。

 言葉にならないから、逃げ場もない。


 リクは、サリの方を見た。

 寝息が一定で、乱れていない。


 その一定が、リクの背中を辛うじて支えた。


「……サラ」


 名前だけが出た。

 そのあとに続く言葉は、どれも嘘になる気がして言えなかった。


 リクは、もう一度スマホを見た。

 呼び出し履歴のいちばん上。

 ジン。


 押さない。

 押せない。


 呼んでも届かないと、分かってしまったからじゃない。

 届かない現実を、これ以上増やしたくなかった。


 リクは、息を吸う。

 浅く。確実に。


 吐く。


 そして、立ち上がった。


 サリのためじゃない。

 サリが、そこにいるから立てる。


 それだけだった。



 サラとジンがいなくなってからも、部屋の空気は変わらなかった。

 正確に言えば、変わったのは空気じゃなく、音の数だった。


 生活の音だけが、当たり前みたいに続いていた。


 哺乳瓶の消毒。

 湯気。

 タオルの擦れる音。

 洗濯機の回転。

 シンクに落ちる水の音。


 音がある。

 ここには、ある。


 それを確かめるみたいに、リクは毎日、同じ手順を繰り返した。


 朝は早い。

 アラームより少し前に目が覚めるのも、もう慣れていた。

 眠りが浅いせいじゃない。

 “泣く前の合図”を、耳が覚えてしまっただけだ。


 サリは、泣き声になる前に、呼吸が変わる。

 胸の上下が少し早くなる。

 指先が布を探して、つかんで、離す。


 それだけで、リクの体は起き上がってしまう。


 抱き上げる。

 首の角度。

 背中の支え。

 腕の内側に預けられる重さ。


 軽い。けれど、確かに「いる」重さ。


 最初の頃は、その重さが怖かった。

 落とすのが怖い、というより、

 自分が“落ちる”気がした。


 でも、サリは落ちなかった。

 泣いて、眠って、飲んで、また泣いて。

 その繰り返しが、世界を固定していく。


 固定されるのは、サリじゃない。

 リクのほうだ。


 ミルクは、適温にするのが難しい。

 熱すぎれば泣く。

 ぬるすぎても泣く。

 泣かせないために調整するのに、泣き声で焦って手が震える。


 リクは何度もやらかした。

 哺乳瓶のフタを閉め忘れて、ミルクをこぼしたこともある。

 おむつを替えたつもりで、替えていなかった日もある。

 抱っこ紐の留め具が、途中で引っかかって外れなくなった日もある。


「……ごめん」


 誰に謝っているのか分からないまま、口が動いた。

 サリは泣く。

 泣いて、泣き止む。

 泣き止んで、眠る。


 その一連の流れが、リクの中の“自己評価”を無視して進む。


 できたかどうか。

 正しかったかどうか。

 そんなことより先に、次の用事が来る。


 洗濯物が溜まる。

 ゴミの日が来る。

 予防接種の日が近づく。

 熱が出る夜が来る。

 寝不足が積もる。


 積もったものは、体に出る。

 肩が固くなる。

 目が乾く。

 指先が荒れる。


 でも、ある日、ふっと気づいた。


 荒れているのに、手が動く。

 眠いのに、手順が崩れない。

 焦っているのに、速度は“間に合う速度”を知っている。


 生活が、体に入ってきている。


 それは救いだった。

 同時に、少しだけ怖かった。


 “いなくても回る”という事実は、

 生き延びるために必要で、

 でも、胸の奥を、ひと撫でするみたいに痛かった。


 夕方。

 サリがようやく寝て、リクがソファに沈む。

 沈んだまま、目だけで天井を見る。


 音が少ない。

 少ないのに、静かすぎない。


 冷蔵庫の低い音。

 時計の針。

 遠くの車の走行音。


 その隙間に、思い出が入ってくる。


 サラの声。

 サラの癖。

 サラの“当たり前”の手つき。


 リクはそれを追い払わない。

 追い払ったら、生活が壊れる気がした。


 壊したくないのは、生活じゃない。

 サリだ。


 抱っこ紐の中の重み。

 胸元に寄る頬。

 眠る呼吸。


 それが、リクを現実に繋ぎ止める。


 ある夜、サリが泣き止まなくて、

 リクは何をしても正解に辿り着けなくて、

 結局、ただ抱いて歩いた。


 部屋の端から端まで。

 同じ距離を、何度も。


 足音を立てないように。

 揺らしすぎないように。


 そうやって歩いているうちに、

 サリの泣き声が、少しだけ小さくなった。


 泣き止む前の、あの合図。


 呼吸が変わる。

 胸の上下がゆっくりになる。

 指先が布を探して、つかんで、離す。


 リクは立ち止まって、息を吐いた。

 吐いた息が、喉の奥を通っていくのが分かった。


「……よし」


 言葉にすると、ちゃんと戻ってこられる。


 戻ってくるのは、時間じゃない。

 自分だ。


 その夜、リクは初めて思った。


 壊れそうなままでも、生きられる。

 泣いたままでも、やることはできる。


 そして、次の日も、朝は来た。

 音は落ちて、当たり前みたいに続いた。


 リクは、父になっていった。



2032/04/07


 春の風は、冷たさを少しだけ残していた。

 刺さるほどじゃない。

 でも、油断すると体温を持っていかれる。


 リクは抱っこ紐の中のサリの背中を、確かめるように撫でた。

 重みは一定で、呼吸も一定。


 風が吹く。

 草の匂いがほどけて、少し甘い土の匂いが混ざる。


 風と共にサラを思い出す。


 それは、思い出そうとして思い出す感じじゃなかった。

 風が、勝手に運んでくる。


 丘の上の石は、そこにある。

 手書きのプレートも、そこにある。


『Sara 2031/11/07』


 リクは花を供え、黙って水を替えた。

 手順はもう迷わない。

 迷わないまま、指先だけが丁寧になる。


 サリは起きていて、目だけで石を見ていた。

 見る、というより、そこにある形を受け取っている目。


「……サラ」


 名前を呼ぶと、風がもう一度吹いた。

 花の包み紙が、カサ、と小さく鳴る。


 リクは息を吸って、吐いた。

 それだけで、春は“ここにある”になった。



2032/07/07


 夏の空気は、重い。

 重いのに、光は軽い。


 向日葵畑が丘の下に広がっていて、

 黄色が、目の奥に残る。


 陽の匂いと共にサラに会いに行く。


 日向の草。

 土の熱。

 汗の塩気。

 日焼け止めの匂い。


 サリは抱っこ紐の中で、眠っていた。

 汗をかくので、首の後ろに薄いガーゼを挟む。

 それを嫌がらなくなったことが、小さな成長だ。


 リクは花を供えた。

 水を替えた。

 石を拭いた。


 手順は、今度は“丁寧”じゃなくて“自然”だった。


「サラ、暑いな」


 言ってから、少しだけ笑う。

 笑っていい、と言われたわけじゃない。

 でも、笑うと体が楽になることを、リクは知っている。


 風は弱い。

 その代わり、陽の匂いがずっと残った。



2032/11/07


 空気が乾いて、吐く息が少し白い。

 葉っぱはほとんど落ちて、枝が細く空へ伸びている。


 命日に愛を胸に秘める。


 胸に秘める、というより、

 胸の奥に“置く”感じだった。


 短く置いて、落とさないように。

 重くしすぎないように。

 でも、軽くもしないように。


 サリは1歳になって、輪郭が少しだけしっかりしていた。

 足が長くなって、靴下のサイズが変わった。


 花が1つ多かった。


 リクはそれを見て、理由を探さない。

 探さなくても、胸のどこかが「そういう日だ」と言う。


 リクは、花の並びを崩さないように、そっと水を替えた。

 指先が冷える。

 その冷えが、秋の現実だった。


「……1年だって」


 言葉は短い。

 短いほど、ちゃんと刺さる。


 サリが、リクのズボンを掴む。

 転びそうになるのを、掴んで止める。


 掴むのが上手い。

 それだけで、世界が少しだけ続く。



2033/01/07


 新年の空は白かった。

 雪が少しだけ積もり、足元が音を吸う。

 世界が静かになる季節。


 リクは手袋越しに、サリの手を握る。

 握る、というより、確かめるみたいに。


 今年もサリと共に寄り添っていく。


 その言葉は、宣言じゃなかった。

 報告だった。


 石の前で、リクは花を供える。

 水を替える。

 布で軽く拭く。


 サリは歩き始めていた。

 まだ危なっかしい。

 でも、立ち上がるのも早い。


 サリが小さなスコップを、石の前に置いた。

 置いて、また拾って、また置く。

 “供える”みたいな動きを、なぜか何度もする。


「……それ、誰に教わったんだろうな」


 リクは笑う。

 笑いながら、喉の奥が少しだけ痛い。


 でも、痛いままでも立てることを、リクは知っている。


 息を吐くと、白くなって消える。

 消えるのに、確かに“あった”。


 寄り添うって、たぶんこういうことだ。


 リクは最後に、石の前で小さく頷いた。

 頷くことで、また日常へ戻れる。


 戻っていく足音は、雪に吸われて静かだった。


 それでも、生活は続いていく。


 年に4回、サラの日も続いていく。

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