外伝EP06 それでも、託す

 ※本作は『君を救うために時間を越えた。〜REWIND〜』本編を補完する外伝記録です。

 本エピソードは、本編の重要構造・伏線・人物理解に深く関与します。

 本編未読での読了は、推奨されません。



 〜3週目・サラ視点〜


 目が覚めた瞬間、最初に確認したのは呼吸だった。

 肺が動いている。胸が上下する。心臓が、ちゃんと打っている。


 天井の白が、昨日と同じ顔をしていた。


 ——世界が、まだある。


 それだけで泣きそうになるのに、泣かない。

 泣いたら「今日」を始められなくなる気がした。


 枕元のスマホに触れる。

 画面が点くまでの一瞬が、いつもより長い。


 2030/04/07


 数字は、ただの数字のはずなのに。

 この日付だけは、心臓の内側を指でなぞられるみたいに痛い。


 自分が経験したことは、全部「非現実」だ。

 それでも、現実の形で残っている。


 あの日。

 あの夜。

 お願いして、託して、落ちていった背中。


 “戻せた”と理解したのは後だった。

 理解より先に、喪失のほうが来る。

 サラはそれを何度も繰り返してきた。


 洗面所の鏡に映る自分の顔は、いつも通りだ。

 看護師の顔。

 人に「大丈夫ですよ」を渡すための顔。


 でも、目の奥だけが違う。


(大丈夫じゃないのは、私のほうなのに)


 口に出したら崩れる。

 だから、出さない。

 代わりに、髪を整えて、服を選んで、歯を磨く。


 「いつも通り」を積み上げる。

 いつも通りの上に、今日の異常を置くために。



 ——秘密基地。


 そう呼んでしまえば、少しだけ楽だった。

 本当は、ただの高台。

 ただの風が抜ける場所。

 ただの、空白がある場所。


 でもサラにとってそこは、“戻る地点”だ。

 世界が分岐して、誰かが落ちて、誰かが救われる地点。


 時計を見る。

 時間は、知っている。

 分単位で、身体も知っている。


(向かうだけ。迎えに行くだけ)


 迎えに行く。

 この言葉だけは、どうしても感情が滲む。


 ジンは、迎えに行かれるタイプの人じゃない。

 自分で立って、自分で判断して、自分で全部抱えていく人だ。


 なのに。


(今日は、迎えに行かせて)


 サラはドアを閉め、階段を下りた。

 春の朝は薄い。光が軽い。風が主張しない。


 世界が、優しすぎる。


 優しすぎる世界が、いちばん怖い。

 いつ壊れてもおかしくない顔をして、普通に続いてしまうから。


 歩きながら、胸の奥を確かめる。

 怯えている。

 期待もしている。

 それが混ざったまま、きれいに分離できない。


 だって、あり得ない。

 戻るとか、繰り返すとか、見えるとか——

 病棟のどの教科書にも載ってない。


 それでも私は、知ってしまった。

 知ってしまった以上、やることは一つしかない。


(“知る力”は、私に残る)


 知るだけの人間。

 分かっているだけの人間。

 何もできない人間。


 それがサラの役割だと、嫌でも理解した。


 なら——


(“見る力”は、ジンさんに渡す)


 見る人。

 切る人。

 進める人。


 あの人のロジックは、正直、腹が立つくらいブレない。

 “そんな簡単に受け入れる?”って思う。

 心が追いついてないのは、こっちなのに。


 私だけが揺れているみたいで、悔しい。

 でも同時に、救われてもいる。



 高台へ向かう坂道の途中で、サラは一度だけ足を止めた。

 息を吸って、吐く。

 肺が動く。世界が、まだ続いている。


 その確認を、何回しても足りない。


 そして歩き出す。

 風が頬を撫でる。

 怖いのに、寒くない。


 高台に着く。

 朝の光が影を作らない。

 景色が、余白みたいに広がっている。


 ——いた。


 背中。

 立ち方。

 空を見上げる角度。


 そこにいるのに、どこにもいないみたいな姿勢。


(……ジンさん)


 名前を心の中で呼んだ瞬間、喉が詰まった。

 叫びたいのに、叫べない。

 抱きつきたいのに、抱きつけない。


 ここは“偶然”の顔をした場所じゃない。

 ここは、最初から「戻る」場所だ。

 だからこそ、サラは声の温度を落とした。


 感情で近づいたら、全部が崩れる気がした。


 サラは、息を整えてから言った。


「おかえりなさい、ジンさん」


 言えた。

 言えたのに、胸の奥が震える。


 振り向いたジンの顔は、予想通りだった。

 驚きが薄い。

 混乱が薄い。

 その代わり、計算だけが濃い。


「あぁ……久しぶり……で、合ってるか?」


 この人、本当に。

 この状況で“時間の定義”から確認するんだ。


(非現実なのになー……)


 笑いそうになって、笑ってしまった。

 泣きじゃない笑い。

 呆れに近い笑い。


「あなたが戻ってくるのは、分かっていました」


 断言すると、心が少しだけ落ち着く。

 曖昧にしたら、私が崩れる。


 ジンは、短く頷く。

 その頷きが、怖いくらい合理的で、同時にありがたい。


(そう、それ……“さすが”って思っちゃうんだよね)


 私は、心が先に走る。

 怖い、嬉しい、苦しい、助けたい。

 全部が一緒に来る。


 でもジンさんは違う。

 来ないわけじゃない。

 来る順番を、強制的に並べ替えてしまう。


 たぶん、それがこの人の生存方法だ。


 ジンが言う。


「……知っている範囲を、言えるか」


 感情が抜け落ちた問い。

 でも、サラはそれに救われた。


 今ここで、感情を説明したって意味がない。

 世界は「言えば変わる」タイプじゃない。


 だから、私は宣言する。


「私は“知っているだけ”。でも、何もできない」


 言った瞬間、胸の奥が少しだけ痛んだ。

 言い切ることで、逃げ道を潰したから。


 ジンは言う。


「……そうか」


 その一言で、私は確信する。

 この人は、受け取る。

 受け取って、進む。


 だからこそ、次を置ける。


「ただ、一つだけ。

 ジンさんにしか出来ないことがあります」


 言いながら、心の中で祈る。

 お願いじゃない。

 祈りに見せかけた“設計”だ。


 ジンが答える。


「歪みの可視化のことか」


 ——やっぱり。

 この人は、核心に最短で触れる。


 思わず言ってしまう。


「さすが」


 悔しいくらいに、さすが。


 私の中では、まだ“信じたくない”と“信じなきゃ”が殴り合ってる。

 なのにこの人は、もう受け取って、使う準備をしている。


 ジンがふと、こちらを見る。

 その視線の平坦さが、逆に怖い。


「あっさりしてるか?」


 サラは一拍遅れて、笑う。


「うーん。あっさり、というより……処理してる、って感じかな」


 ほんとに。

 この人、ロジックの生き物だ。


 でも私は、そこに救われる。

 私が揺れても、ジンは揺れない。

 揺れる余白を、私が持てる。


「でも、ジンさんだから」


 そう言いながら、一歩近づく。

 距離が詰まっても、空気は変わらない。

 変わるのは、境目だけだ。


 私はそこに立って、震えている。

 ジンはそこに立って、計算している。


(……感情は、人間のほうに残る)


 その現実を、私は受け入れたかった。


 サラは、胸の奥に沈めていたものを取り出す。

 言葉として取り出す。


「名前、つけました」


「……何の」


「見える力のほう」


 息を吸う。


「フェーズアイって。

 フェーズの歪みが見えるから、フェーズアイ」


 名付けるのは、儀式だ。

 怖いものに名前をつけて、扱える形にする。


 私は知っているだけの人間。

 でも、名前だけは付けられる。

 祈りだけは、形にできる。


 ジンは表情を変えず、受け取る。


「フェーズアイ。……この力が、また動いている。そういうことだな」


 その言い方が、やっぱり腹立たしいくらい冷静で。

 でも、心の底から「助かる」と思ってしまう。


「そうです」


 サラは、視線を外さない。

 外したら、崩れる気がした。


「ごめんなさい。さっき言った通り……

 私は“知っているだけ”。何もできないんです」


 だから、託す。


「ジンさんにしかできないこと。

 分かってる通り、抑制薬を早期に開発してください」


 声が震えそうになって、震えないように抑える。

 看護師の声にする。

 現実の声にする。


 そして、最後に、心の中でだけ付け足す。


(フェーズアイは、フェーズを目で見れる力)


(ジンさん。あなたは——アイ……愛も見れるようになる)


 その言葉は、今は口に出さない。

 まだ早い。

 でも、この一歩が、いつか必ず繋がると信じている。


 “知る”を私に残して、

 “見る”をジンに託す。


 それが私にできる、最大の行為だった。


 怖い。

 それでも、託す。


 世界が続くように。

 リクが壊れないように。

 そして、ジンが、人を救えるように。



 3人での食事。


 3人で食事をする、という形が、

 週1回のペースになっていた。


 その「当たり前」が、怖いくらい嬉しい。


 店内は、少しだけざわついていた。

 昼と夜の境目。仕事帰りの人と、まだ外が明るいことに安心している家族連れが、同じ空間に混ざっている。


 サラはグラスの水を一口飲んでから、視線を自然に流した。


 ――いた。


 奥の席。

 子ども用の椅子と、小さな背中。

 その隣に座る母親は、姿勢がきれいだ。


(……やっぱり)


 笑顔はある。

 声も出ている。

 けれど、返事のタイミングが、ほんの一拍だけ遅れる。


 サラはその「遅れ」を、何度も見てきた。


 知識としてではない。

 感覚として。


 席を立つ理由は、いつもと同じだ。


「ちょっと追加、頼んでくるね。あと、お手洗い」


「行ってらっしゃいです」


 リクの返事は軽い。

 ジンは何も言わない。


 その無言が、今のサラには少しだけ可笑しかった。


(……分かってるくせに)


 ユアの遅れも、私の手順も。



 通路を歩く足取りは、意図的に一定。

 速すぎず、遅すぎず。


 子ども用の椅子の横を通る、その瞬間。


 ほんの少し、肩を寄せる。


 カラン、と氷が鳴った。


「あっ、ごめんなさい!」


 声は抑えめ。

 周囲の会話を邪魔しない音量。


 優しくしすぎると、今度は私が踏み込みすぎる。


 母親――ユアが、慌てて立ち上がる。


「いえ、こちらこそ……!」


「大丈夫ですか?服、濡れてません?」


 しゃがんで、女の子と目線を合わせる。


「……ママ?」


「大丈夫だよ」


 女の子の声は小さいが、はっきりしている。


「びっくりしたよね。ごめんね」


 ペーパーナプキンで手早く拭く。

 被害は最小限。


「ありがとうございます……」


 ユアの声は優しい。

 でも、温度が遅れて届く。


 リオの小さな手が、母親の服をぎゅっと掴む。


 サラはナプキンで手早く拭きながら、言葉を選んだ。


「お名前、聞いてもいい?」


「リオ!」


 胸を張る声。


「リオちゃん、えらいね」


「えへへ」


 その笑顔を、ユアが少し遅れて追揭る。


 ――ここ。


 この「遅れ」を、ジンは見ているはずだった。


 視線を上げなくても分かる。

 今、あの人は「見ない」選択をしている。


(……ほんとに、ロジック人間)


 でも、それが嫌じゃない。


 むしろ――


(分かってて、知らないフリしてるの、ちょっと面白い)


 サラは立ち上がり、軽く頭を下げた。


「すみませんでした」


「いえ……こちらこそ」


 ユアの返事は丁寧だった。

 丁寧すぎるくらいに。


 席に戻る途中、サラは一瞬だけ視線を横に送った。


 ジンは、水を一口飲んでいる。

 表情は、いつも通り。


 でも。


(……今、判断した)


 そう感じた。

 目に見えたわけじゃない。

 でも、ジンさんの“何も言わない”には、いつも結論が入っている。


 私が踏み込みすぎないように、

 それでも外さないように。

 その幅を、あの人は一瞬で決める。


「ごめんね、お待たせ」


「全然です」


 リクの笑顔は、何も知らないままだ。


 それでいい。


 サラはグラスに口をつけながら、胸の奥でそっと息を吐いた。


(救える)


 前の世界では、救えなかった。

 でも、今回は違う。


 ジンがいる。

 知っていて、知らないフリをしながら、側にいる。


 その事実だけで、世界の形が変わる。


 サラは、ほんの少しだけ笑った。


 ――これなら、大丈夫。


 そう思える「偶然」が、ちゃんと成立していた。



 アイスを買おう、と言い出したのはサラだった。


「ちょっと寄ってもいい?」


 何気ない声。

 仕事帰りに、よくある提案みたいな調子。


「アイス?」


 リクが即座に反応する。

 こういうところは本当に分かりやすい。


「いいね。暑いし」


 そう言いながら、もうコンビニの方向を見ている。

 ジンは何も言わない。

 言わないけれど、歩幅がわずかに変わった。


(……うん)


 その小さな変化に、サラは内心で息を吐く。


 今日は“寄り道”が必要だった。

 理由を説明するつもりはない。

 説明した瞬間に、これは“意図”になる。


 コンビニの冷凍ケースの前で、リクはしばらく悩んだ。


「どっちがいいと思う?」


「好きなほう」


「それが一番困るやつなんですけど」


 サラは小さく笑って、適当に一本取った。


「じゃあ、これ」


「え、即決?」


「直感」


「ずるい……じゃあ、俺も直感で」


 結局、予定より多く買っている。

 それも、いつも通り。


 レジを出たところで、サラは歩道の先を見る。

 まっすぐ行けば駅。

 でも、ほんの少しだけ角を曲がれば、公園だ。


 何かを決めた、というほどの間はない。

 ただ、視線がそちらに流れただけだった。


 リクが、袋を持ち替える。

 アイスが傾かないように、無意識に角度を直す。


「……で、どこ行くんでしたっけ」


 歩きながらの、なんでもない声。


「アイス、溶ける」


 サラの声は短い。


「公園?」


「うん」


 それだけで進路が決まる。

 相談も、確認もない。


 ジンは何も言わない。

 言わないまま、歩調だけを合わせる。


 歩道の角を曲がると、音の密度が変わった。


 笑い声。

 砂を蹴る音。

 金属が擦れる、遊具の音。


 日曜の午後が、そのまま形になったみたいな場所。


 ベンチを探そうとして、

 その前に——


 リクの足が、止まった。


「あ」


 すべり台の列。

 その中に、小さな背中があった。


 順番待ちの間、体を揺らしている。

 待つこと自体が退屈だと言わんばかりに。


 その後ろに、母親が立っていた。


 姿勢は崩れていない。

 目線も外していない。

 ただ、表情だけが、少し遅れている。


 サラは、短く息を吸った。


 リオが振り返った。


「あ!」


 声が跳ねる。

 指が、まっすぐ伸びる。


「このまえのひと!」


「そう、それ俺」


 リクが反射で手を振る。


「こんにちはー!」


 母親――ユアが、少し遅れて会釈する。


「この前は……ありがとうございました」


「いえいえ。こっちこそ」


 サラも会釈する。

 距離は、前と同じまま。


 リオは小走りで近づいてきて、途中で止まる。

 一度だけ、後ろを振り返る。


 ユアが、静かに頷いた。


 それを見て、リオは笑った。


 サラが、ユアの隣に立つ。

 距離は近づけない。並ぶだけ。


 それ以上近づいたら、壊れる気がした。

 距離を詰めた瞬間、これは「介入」になる。

 今はまだ、“偶然の延長”でなければならない。


 視界の端では、リクがすべり台の階段を上っている。

 大人の体には少し小さくて、少し高い。

 それでも、笑いながら付き合っている。


 ――前の世界では、ここに辿り着けなかった。


 サラは、そう思ってしまう自分を抑えた。

 比べるな。

 今は、“今”を見る。


「……元気ですね」


 ユアが言う。

 声は柔らかい。

 けれど、ほんの一拍、遅れている。


「ええ」


 サラは短く答える。

 声の温度を一定に保つ。

 感情を乗せすぎない。


 それから、一度だけユアを見る。

 視線は短く。

 長く見たら、伝わってしまう。


「この前は、バタバタしてて。ちゃんと挨拶できてなかったですね」


 言いながら、サラは自分の呼吸を数える。

 深く吸って、浅く吐く。


 息を整える。これ以上、声を震わせないために。


 ユアが、少し驚いたように瞬きをする。


「……あ、いえ」


 その反応に、サラは安心する。

 警戒されていない。

 まだ、扉は閉じていない。


「私、サラっていいます。看護師です」


 言い切りすぎない声。

 肩書きを名乗る時の、慣れた距離感。

 近すぎず、遠すぎない。


 “助ける人”ではなく、

 “仕事として関わる人”。


 ユアの呼吸が、ほんの少しだけ整うのが分かる。


「彼はジン。研究のほうをやってます」


 ユアの視線が、ジンに移る。


 ――来る。


 サラは、心の中でそう思った。

 ここは、分岐点だ。


「……研究?」


「医療系です」


 ジンが短く補足する。

 余計な説明はしない。

 いつも通り、必要な分だけ。


「サラの勤めている◯◯病院とも、共同で」


 その言葉に、ユアの表情がわずかに変わる。

 ほんの一瞬。

 でも、サラは見逃さない。


「あ……私、そこに通ってます」


 小さな告白。

 言ってから、様子を見る視線。


 ――やっぱり。


 サラは、胸の奥で静かに頷く。

 知っていた。

 前の世界でも、その前でも、同じだった。


「そうなんですね」


 サラは、すぐに踏み込まない。

 確認もしない。

 掘り下げない。


 ここで踏み込めば、ユアは引く。

 それも、何度も見てきた。


「もし、言いにくくなかったら…なんですけど」


 言葉の角を落とす。

 逃げられる幅を、最初から残す。


 ユアは、一度、すべり台のほうを見る。

 リオが、リクに何か言って、笑っている。


 その笑顔が、支えであり、重荷でもあることを、

 サラは知っている。


「……最近、気持ちが急に、わからなくなる?ことがあって。……なんて言えばいいのか」


 言葉を選ぶ間。

 声は低く、振り絞ったみたいに落ちる。


 ――言えた。


 サラの胸が、きゅっと締まる。

 何度聞いても、この瞬間には慣れない。


 サラは、すぐに反応しない。

 頷かない。

 慰めない。


「それ、ちゃんと分かるのがすごいです」


 評価じゃない。

 励ましでもない。

 事実を、そのまま返す。


 ユアの肩が、ほんの少し下がる。


 ――今。


 ジンが、静かに口を開く。


「その症状に近いケースを、今、少しずつ研究しています」


 淡い声。

 正しさを押しつけない音量。


「ちょうど、実証段階に入ったところです」


 ユアが、ゆっくりと瞬きをする。


「……研究、ですか」


「はい。抑制の方向です」


 説明は最低限。

 期待を煽らない。

 希望を盛らない。


 サラは、横で思う。


(……うまい)


 この人は、

 “救える”ことを武器にしない。


「効果は確認されてきていますが、無理に、今決めなくていいです」


 サラが自然に続ける。

 声を、少しだけ柔らかくする。


「病院にきた際、先生の診断を受けて考えてみてください」


 選択肢を渡す。

 正解は渡さない。


 ユアは答えず、すべり台の下を見る。


「リク!もう1回!」


「え、さっき1回って言っただろ!」


「いまのは、れんしゅう!」


「練習ってなんだよ……」


 笑い声。


 その音に、ユアの口角が少し上がる。

 今回は、すぐには戻らない。


 ――戻らない。


 それだけで、サラは息を吐けた。


「結論は急がなくていいですから」


 短く、逃げ道を残す言い方。


 ユアは、ゆっくり頷いた。


「……考えてみます」


 リオが走って戻ってくる。


「ママ!みて!リク、ほんとにこわかった!」


「こわくない!」


「こわかった!」


 笑い声が、続く。


 サラは、その光景を見ながら、

 胸の奥で静かに思った。


(今回は、置いてきてない)


 手は、ちゃんと渡せた。

 掴ませてはいない。

 でも、届く場所には置いた。


 ――それでいい。



 2031/01/21


 リクは、冬が好きだ。

 好きの理由が、軽い。


 軽いまま、ちゃんと生きている。


「白い!息が白い!」


 玄関で跳ねる背中を見て、サラは笑いそうになる。

 笑ったら、今日が「普通の遊び」みたいに見えてしまうから、少しだけ抑える。


(普通でいてほしい)


(普通が、奇跡だから)


 ジンがコートの襟を立てる。


「冬だからだ」


「冬、最高!」


 その会話が、眩しい。


 何度繰り返しても、リクのこういうところは変わらない。


 愛おしい。


 愛おしいのに、守れない時がある。


 その事実が、サラの胸の奥を冷やす。


 改札へ向かう道で、リクが聞く。


「ねえ、サラ。今日、なんで温泉にしたの?」


 サラは一拍置く。


「……寒いから」


 嘘じゃない。

 でも、全部でもない。


(あの夜の続きが欲しかった)


(あの夜みたいに、揺れを外に出したかった)


 “休むのに勇気がいる”って、さっき自分で言った。

 その勇気を、今日は自分に使う日だ。


 旅館に着いて、畳と出汁の匂いが広がる。

 匂いって、記憶を勝手に引っ張り出す。


 サラはスマホを置いて、写真を撮る。


 パシャ。


「今日ここに来たって、あとで思い出せるから」


 言いながら思う。


(思い出せるって何?)


(思い出すのは、私だけ?)


 そういう黒い考えが出てきた瞬間、サラは自分で自分を叱る。


(今を見て)


(今の笑いを、ちゃんと見て)



 男湯の前で、リクが宣言する。


「俺、今日、絶対にのぼせません」


 ジンの返しは短い。


「倒れる前に言え」


 リクが笑う。

 その笑いが、サラの胸を温める。


(リクは、こうやって生きる人だ)


 和室に戻ってきたとき、ジンは窓際の椅子に座っている。

 部屋を見渡せる位置。


 見張りじゃない。

 守りの姿勢だ。


(分かってるくせに)


 サラは少しだけ可笑しくなる。

 可笑しいと思える自分が、嬉しい。


 そして、胸の奥で静かに決める。


(もう繰り返さない)


(この笑いが残る世界線で、終わらせる)


 リクの軽さを、軽いまま残す。

 ジンの正しさを、冷たさで終わらせない。


 自分の役割は「知る」だけだって、何度も思った。


 でも今日だけは、違う。


(私は、託した)


(託したから、ここに居られる)


 湯気の向こうで、リクの笑い声がする。


 サラは、息を吐く。


 泣かない。

 泣かないまま、決める。


(それでも、託す)


(最後まで)



 2031/08/19

 サリがこの世に生を授かった。


 サリを寝かしつけたあとの部屋は、昼とは別の静けさを持っていた。

 物音が消えるというより、音が「丸くなる」感じだ。


 サラはソファに腰を下ろし、胸の前でスマホを持ったまま動かなかった。

 画面には、今日撮った写真が並んでいる。


 水族館の青。

 クラゲの光。

 ベビーカー越しの空。

 リクの笑い方。

 サリの、眠る前のあいまいな顔。


 どれも、特別じゃない。

 特別に加工する必要もない。


(……これで、いい)


 そう思う自分が、少しだけ怖かった。

 「これでいい」と思える日常を、サラは何度も失ってきたからだ。


 リビングの奥で、リクが洗い物をしている。

 水の音が一定で、変わらない。


 その一定さが、胸に沁みる。


 サラはスマホを伏せ、天井を見上げた。

 白い。

 何も書かれていない。


 ——今日は、何も起きなかった。


 それが、どれほど貴重なことかを、サラは知っている。

 「何も起きない日」は、努力して手に入るものじゃない。


 だからこそ、守りたかった。


 サラは、そっとサリのほうを見る。

 小さな胸が上下している。

 呼吸が、ちゃんとある。


(この子は……まだ、知らなくていい)


 世界がどれだけ不安定か。

 どれだけ、選択ひとつで壊れるか。


 今は、知らなくていい。


 キッチンの水音が止まる。

 リクがタオルで手を拭きながら戻ってくる。


「……寝た?」


「うん。さっき」


 声を落とすと、リクも自然に声を落とす。

 この家では、誰も指示しなくてもそうなる。


 リクはサラの隣に座り、少しだけ距離を空けた。

 触れない距離。

 でも、離れてはいない距離。


「今日は、いい日だったね」


 リクが言う。


 サラは、すぐには答えなかった。

 その一言を、胸の中で確かめる。


「……うん」


 短く、でも嘘のない返事。


 サラは、もう一度スマホを開いた。

 最後に撮った写真。

 部屋全体を写した、何でもない一枚。


 光も、影も、ちょうどいい。


(……残せてる)


 その実感が、胸の奥を少しだけ温める。


 過去の自分は、残せなかった。

 怖くて、忙しくて、間に合わなくて。


 でも今は違う。


 今は、ここにいる。

 サリがいて、リクがいて、今日がある。


 それだけで、十分すぎるほどだ。


 サラは、スマホを胸元に抱えた。


(……ジンさん)


 名前を呼ぶ代わりに、息を吐く。


 あの人は、今もどこかで考えているだろう。

 世界を。

 構造を。

 間違えないための順序を。


 それでいい。

 そう思えるだけで、今日は少しだけ呼吸ができた。


 私は、ここにいる。


 見る人。

 残す人。

 そして——信じる人。


 サラは、ゆっくりと目を閉じた。


 明日も、今日と同じとは限らない。

 それでも。


(……光は、まだある)


 そう思える夜が、ここにある。


 それを、サラはただ抱えていた。

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