外伝EP06 それでも、託す
※本作は『君を救うために時間を越えた。〜REWIND〜』本編を補完する外伝記録です。
本エピソードは、本編の重要構造・伏線・人物理解に深く関与します。
本編未読での読了は、推奨されません。
⸻
〜3週目・サラ視点〜
目が覚めた瞬間、最初に確認したのは呼吸だった。
肺が動いている。胸が上下する。心臓が、ちゃんと打っている。
天井の白が、昨日と同じ顔をしていた。
——世界が、まだある。
それだけで泣きそうになるのに、泣かない。
泣いたら「今日」を始められなくなる気がした。
枕元のスマホに触れる。
画面が点くまでの一瞬が、いつもより長い。
2030/04/07
数字は、ただの数字のはずなのに。
この日付だけは、心臓の内側を指でなぞられるみたいに痛い。
自分が経験したことは、全部「非現実」だ。
それでも、現実の形で残っている。
あの日。
あの夜。
お願いして、託して、落ちていった背中。
“戻せた”と理解したのは後だった。
理解より先に、喪失のほうが来る。
サラはそれを何度も繰り返してきた。
洗面所の鏡に映る自分の顔は、いつも通りだ。
看護師の顔。
人に「大丈夫ですよ」を渡すための顔。
でも、目の奥だけが違う。
(大丈夫じゃないのは、私のほうなのに)
口に出したら崩れる。
だから、出さない。
代わりに、髪を整えて、服を選んで、歯を磨く。
「いつも通り」を積み上げる。
いつも通りの上に、今日の異常を置くために。
——秘密基地。
そう呼んでしまえば、少しだけ楽だった。
本当は、ただの高台。
ただの風が抜ける場所。
ただの、空白がある場所。
でもサラにとってそこは、“戻る地点”だ。
世界が分岐して、誰かが落ちて、誰かが救われる地点。
時計を見る。
時間は、知っている。
分単位で、身体も知っている。
(向かうだけ。迎えに行くだけ)
迎えに行く。
この言葉だけは、どうしても感情が滲む。
ジンは、迎えに行かれるタイプの人じゃない。
自分で立って、自分で判断して、自分で全部抱えていく人だ。
なのに。
(今日は、迎えに行かせて)
サラはドアを閉め、階段を下りた。
春の朝は薄い。光が軽い。風が主張しない。
世界が、優しすぎる。
優しすぎる世界が、いちばん怖い。
いつ壊れてもおかしくない顔をして、普通に続いてしまうから。
歩きながら、胸の奥を確かめる。
怯えている。
期待もしている。
それが混ざったまま、きれいに分離できない。
だって、あり得ない。
戻るとか、繰り返すとか、見えるとか——
病棟のどの教科書にも載ってない。
それでも私は、知ってしまった。
知ってしまった以上、やることは一つしかない。
(“知る力”は、私に残る)
知るだけの人間。
分かっているだけの人間。
何もできない人間。
それがサラの役割だと、嫌でも理解した。
なら——
(“見る力”は、ジンさんに渡す)
見る人。
切る人。
進める人。
あの人のロジックは、正直、腹が立つくらいブレない。
“そんな簡単に受け入れる?”って思う。
心が追いついてないのは、こっちなのに。
私だけが揺れているみたいで、悔しい。
でも同時に、救われてもいる。
高台へ向かう坂道の途中で、サラは一度だけ足を止めた。
息を吸って、吐く。
肺が動く。世界が、まだ続いている。
その確認を、何回しても足りない。
そして歩き出す。
風が頬を撫でる。
怖いのに、寒くない。
高台に着く。
朝の光が影を作らない。
景色が、余白みたいに広がっている。
——いた。
背中。
立ち方。
空を見上げる角度。
そこにいるのに、どこにもいないみたいな姿勢。
(……ジンさん)
名前を心の中で呼んだ瞬間、喉が詰まった。
叫びたいのに、叫べない。
抱きつきたいのに、抱きつけない。
ここは“偶然”の顔をした場所じゃない。
ここは、最初から「戻る」場所だ。
だからこそ、サラは声の温度を落とした。
感情で近づいたら、全部が崩れる気がした。
サラは、息を整えてから言った。
「おかえりなさい、ジンさん」
言えた。
言えたのに、胸の奥が震える。
振り向いたジンの顔は、予想通りだった。
驚きが薄い。
混乱が薄い。
その代わり、計算だけが濃い。
「あぁ……久しぶり……で、合ってるか?」
この人、本当に。
この状況で“時間の定義”から確認するんだ。
(非現実なのになー……)
笑いそうになって、笑ってしまった。
泣きじゃない笑い。
呆れに近い笑い。
「あなたが戻ってくるのは、分かっていました」
断言すると、心が少しだけ落ち着く。
曖昧にしたら、私が崩れる。
ジンは、短く頷く。
その頷きが、怖いくらい合理的で、同時にありがたい。
(そう、それ……“さすが”って思っちゃうんだよね)
私は、心が先に走る。
怖い、嬉しい、苦しい、助けたい。
全部が一緒に来る。
でもジンさんは違う。
来ないわけじゃない。
来る順番を、強制的に並べ替えてしまう。
たぶん、それがこの人の生存方法だ。
ジンが言う。
「……知っている範囲を、言えるか」
感情が抜け落ちた問い。
でも、サラはそれに救われた。
今ここで、感情を説明したって意味がない。
世界は「言えば変わる」タイプじゃない。
だから、私は宣言する。
「私は“知っているだけ”。でも、何もできない」
言った瞬間、胸の奥が少しだけ痛んだ。
言い切ることで、逃げ道を潰したから。
ジンは言う。
「……そうか」
その一言で、私は確信する。
この人は、受け取る。
受け取って、進む。
だからこそ、次を置ける。
「ただ、一つだけ。
ジンさんにしか出来ないことがあります」
言いながら、心の中で祈る。
お願いじゃない。
祈りに見せかけた“設計”だ。
ジンが答える。
「歪みの可視化のことか」
——やっぱり。
この人は、核心に最短で触れる。
思わず言ってしまう。
「さすが」
悔しいくらいに、さすが。
私の中では、まだ“信じたくない”と“信じなきゃ”が殴り合ってる。
なのにこの人は、もう受け取って、使う準備をしている。
ジンがふと、こちらを見る。
その視線の平坦さが、逆に怖い。
「あっさりしてるか?」
サラは一拍遅れて、笑う。
「うーん。あっさり、というより……処理してる、って感じかな」
ほんとに。
この人、ロジックの生き物だ。
でも私は、そこに救われる。
私が揺れても、ジンは揺れない。
揺れる余白を、私が持てる。
「でも、ジンさんだから」
そう言いながら、一歩近づく。
距離が詰まっても、空気は変わらない。
変わるのは、境目だけだ。
私はそこに立って、震えている。
ジンはそこに立って、計算している。
(……感情は、人間のほうに残る)
その現実を、私は受け入れたかった。
サラは、胸の奥に沈めていたものを取り出す。
言葉として取り出す。
「名前、つけました」
「……何の」
「見える力のほう」
息を吸う。
「フェーズアイって。
フェーズの歪みが見えるから、フェーズアイ」
名付けるのは、儀式だ。
怖いものに名前をつけて、扱える形にする。
私は知っているだけの人間。
でも、名前だけは付けられる。
祈りだけは、形にできる。
ジンは表情を変えず、受け取る。
「フェーズアイ。……この力が、また動いている。そういうことだな」
その言い方が、やっぱり腹立たしいくらい冷静で。
でも、心の底から「助かる」と思ってしまう。
「そうです」
サラは、視線を外さない。
外したら、崩れる気がした。
「ごめんなさい。さっき言った通り……
私は“知っているだけ”。何もできないんです」
だから、託す。
「ジンさんにしかできないこと。
分かってる通り、抑制薬を早期に開発してください」
声が震えそうになって、震えないように抑える。
看護師の声にする。
現実の声にする。
そして、最後に、心の中でだけ付け足す。
(フェーズアイは、フェーズを目で見れる力)
(ジンさん。あなたは——アイ……愛も見れるようになる)
その言葉は、今は口に出さない。
まだ早い。
でも、この一歩が、いつか必ず繋がると信じている。
“知る”を私に残して、
“見る”をジンに託す。
それが私にできる、最大の行為だった。
怖い。
それでも、託す。
世界が続くように。
リクが壊れないように。
そして、ジンが、人を救えるように。
⸻
3人での食事。
3人で食事をする、という形が、
週1回のペースになっていた。
その「当たり前」が、怖いくらい嬉しい。
店内は、少しだけざわついていた。
昼と夜の境目。仕事帰りの人と、まだ外が明るいことに安心している家族連れが、同じ空間に混ざっている。
サラはグラスの水を一口飲んでから、視線を自然に流した。
――いた。
奥の席。
子ども用の椅子と、小さな背中。
その隣に座る母親は、姿勢がきれいだ。
(……やっぱり)
笑顔はある。
声も出ている。
けれど、返事のタイミングが、ほんの一拍だけ遅れる。
サラはその「遅れ」を、何度も見てきた。
知識としてではない。
感覚として。
席を立つ理由は、いつもと同じだ。
「ちょっと追加、頼んでくるね。あと、お手洗い」
「行ってらっしゃいです」
リクの返事は軽い。
ジンは何も言わない。
その無言が、今のサラには少しだけ可笑しかった。
(……分かってるくせに)
ユアの遅れも、私の手順も。
通路を歩く足取りは、意図的に一定。
速すぎず、遅すぎず。
子ども用の椅子の横を通る、その瞬間。
ほんの少し、肩を寄せる。
カラン、と氷が鳴った。
「あっ、ごめんなさい!」
声は抑えめ。
周囲の会話を邪魔しない音量。
優しくしすぎると、今度は私が踏み込みすぎる。
母親――ユアが、慌てて立ち上がる。
「いえ、こちらこそ……!」
「大丈夫ですか?服、濡れてません?」
しゃがんで、女の子と目線を合わせる。
「……ママ?」
「大丈夫だよ」
女の子の声は小さいが、はっきりしている。
「びっくりしたよね。ごめんね」
ペーパーナプキンで手早く拭く。
被害は最小限。
「ありがとうございます……」
ユアの声は優しい。
でも、温度が遅れて届く。
リオの小さな手が、母親の服をぎゅっと掴む。
サラはナプキンで手早く拭きながら、言葉を選んだ。
「お名前、聞いてもいい?」
「リオ!」
胸を張る声。
「リオちゃん、えらいね」
「えへへ」
その笑顔を、ユアが少し遅れて追揭る。
――ここ。
この「遅れ」を、ジンは見ているはずだった。
視線を上げなくても分かる。
今、あの人は「見ない」選択をしている。
(……ほんとに、ロジック人間)
でも、それが嫌じゃない。
むしろ――
(分かってて、知らないフリしてるの、ちょっと面白い)
サラは立ち上がり、軽く頭を下げた。
「すみませんでした」
「いえ……こちらこそ」
ユアの返事は丁寧だった。
丁寧すぎるくらいに。
席に戻る途中、サラは一瞬だけ視線を横に送った。
ジンは、水を一口飲んでいる。
表情は、いつも通り。
でも。
(……今、判断した)
そう感じた。
目に見えたわけじゃない。
でも、ジンさんの“何も言わない”には、いつも結論が入っている。
私が踏み込みすぎないように、
それでも外さないように。
その幅を、あの人は一瞬で決める。
「ごめんね、お待たせ」
「全然です」
リクの笑顔は、何も知らないままだ。
それでいい。
サラはグラスに口をつけながら、胸の奥でそっと息を吐いた。
(救える)
前の世界では、救えなかった。
でも、今回は違う。
ジンがいる。
知っていて、知らないフリをしながら、側にいる。
その事実だけで、世界の形が変わる。
サラは、ほんの少しだけ笑った。
――これなら、大丈夫。
そう思える「偶然」が、ちゃんと成立していた。
⸻
アイスを買おう、と言い出したのはサラだった。
「ちょっと寄ってもいい?」
何気ない声。
仕事帰りに、よくある提案みたいな調子。
「アイス?」
リクが即座に反応する。
こういうところは本当に分かりやすい。
「いいね。暑いし」
そう言いながら、もうコンビニの方向を見ている。
ジンは何も言わない。
言わないけれど、歩幅がわずかに変わった。
(……うん)
その小さな変化に、サラは内心で息を吐く。
今日は“寄り道”が必要だった。
理由を説明するつもりはない。
説明した瞬間に、これは“意図”になる。
コンビニの冷凍ケースの前で、リクはしばらく悩んだ。
「どっちがいいと思う?」
「好きなほう」
「それが一番困るやつなんですけど」
サラは小さく笑って、適当に一本取った。
「じゃあ、これ」
「え、即決?」
「直感」
「ずるい……じゃあ、俺も直感で」
結局、予定より多く買っている。
それも、いつも通り。
レジを出たところで、サラは歩道の先を見る。
まっすぐ行けば駅。
でも、ほんの少しだけ角を曲がれば、公園だ。
何かを決めた、というほどの間はない。
ただ、視線がそちらに流れただけだった。
リクが、袋を持ち替える。
アイスが傾かないように、無意識に角度を直す。
「……で、どこ行くんでしたっけ」
歩きながらの、なんでもない声。
「アイス、溶ける」
サラの声は短い。
「公園?」
「うん」
それだけで進路が決まる。
相談も、確認もない。
ジンは何も言わない。
言わないまま、歩調だけを合わせる。
歩道の角を曲がると、音の密度が変わった。
笑い声。
砂を蹴る音。
金属が擦れる、遊具の音。
日曜の午後が、そのまま形になったみたいな場所。
ベンチを探そうとして、
その前に——
リクの足が、止まった。
「あ」
すべり台の列。
その中に、小さな背中があった。
順番待ちの間、体を揺らしている。
待つこと自体が退屈だと言わんばかりに。
その後ろに、母親が立っていた。
姿勢は崩れていない。
目線も外していない。
ただ、表情だけが、少し遅れている。
サラは、短く息を吸った。
リオが振り返った。
「あ!」
声が跳ねる。
指が、まっすぐ伸びる。
「このまえのひと!」
「そう、それ俺」
リクが反射で手を振る。
「こんにちはー!」
母親――ユアが、少し遅れて会釈する。
「この前は……ありがとうございました」
「いえいえ。こっちこそ」
サラも会釈する。
距離は、前と同じまま。
リオは小走りで近づいてきて、途中で止まる。
一度だけ、後ろを振り返る。
ユアが、静かに頷いた。
それを見て、リオは笑った。
サラが、ユアの隣に立つ。
距離は近づけない。並ぶだけ。
それ以上近づいたら、壊れる気がした。
距離を詰めた瞬間、これは「介入」になる。
今はまだ、“偶然の延長”でなければならない。
視界の端では、リクがすべり台の階段を上っている。
大人の体には少し小さくて、少し高い。
それでも、笑いながら付き合っている。
――前の世界では、ここに辿り着けなかった。
サラは、そう思ってしまう自分を抑えた。
比べるな。
今は、“今”を見る。
「……元気ですね」
ユアが言う。
声は柔らかい。
けれど、ほんの一拍、遅れている。
「ええ」
サラは短く答える。
声の温度を一定に保つ。
感情を乗せすぎない。
それから、一度だけユアを見る。
視線は短く。
長く見たら、伝わってしまう。
「この前は、バタバタしてて。ちゃんと挨拶できてなかったですね」
言いながら、サラは自分の呼吸を数える。
深く吸って、浅く吐く。
息を整える。これ以上、声を震わせないために。
ユアが、少し驚いたように瞬きをする。
「……あ、いえ」
その反応に、サラは安心する。
警戒されていない。
まだ、扉は閉じていない。
「私、サラっていいます。看護師です」
言い切りすぎない声。
肩書きを名乗る時の、慣れた距離感。
近すぎず、遠すぎない。
“助ける人”ではなく、
“仕事として関わる人”。
ユアの呼吸が、ほんの少しだけ整うのが分かる。
「彼はジン。研究のほうをやってます」
ユアの視線が、ジンに移る。
――来る。
サラは、心の中でそう思った。
ここは、分岐点だ。
「……研究?」
「医療系です」
ジンが短く補足する。
余計な説明はしない。
いつも通り、必要な分だけ。
「サラの勤めている◯◯病院とも、共同で」
その言葉に、ユアの表情がわずかに変わる。
ほんの一瞬。
でも、サラは見逃さない。
「あ……私、そこに通ってます」
小さな告白。
言ってから、様子を見る視線。
――やっぱり。
サラは、胸の奥で静かに頷く。
知っていた。
前の世界でも、その前でも、同じだった。
「そうなんですね」
サラは、すぐに踏み込まない。
確認もしない。
掘り下げない。
ここで踏み込めば、ユアは引く。
それも、何度も見てきた。
「もし、言いにくくなかったら…なんですけど」
言葉の角を落とす。
逃げられる幅を、最初から残す。
ユアは、一度、すべり台のほうを見る。
リオが、リクに何か言って、笑っている。
その笑顔が、支えであり、重荷でもあることを、
サラは知っている。
「……最近、気持ちが急に、わからなくなる?ことがあって。……なんて言えばいいのか」
言葉を選ぶ間。
声は低く、振り絞ったみたいに落ちる。
――言えた。
サラの胸が、きゅっと締まる。
何度聞いても、この瞬間には慣れない。
サラは、すぐに反応しない。
頷かない。
慰めない。
「それ、ちゃんと分かるのがすごいです」
評価じゃない。
励ましでもない。
事実を、そのまま返す。
ユアの肩が、ほんの少し下がる。
――今。
ジンが、静かに口を開く。
「その症状に近いケースを、今、少しずつ研究しています」
淡い声。
正しさを押しつけない音量。
「ちょうど、実証段階に入ったところです」
ユアが、ゆっくりと瞬きをする。
「……研究、ですか」
「はい。抑制の方向です」
説明は最低限。
期待を煽らない。
希望を盛らない。
サラは、横で思う。
(……うまい)
この人は、
“救える”ことを武器にしない。
「効果は確認されてきていますが、無理に、今決めなくていいです」
サラが自然に続ける。
声を、少しだけ柔らかくする。
「病院にきた際、先生の診断を受けて考えてみてください」
選択肢を渡す。
正解は渡さない。
ユアは答えず、すべり台の下を見る。
「リク!もう1回!」
「え、さっき1回って言っただろ!」
「いまのは、れんしゅう!」
「練習ってなんだよ……」
笑い声。
その音に、ユアの口角が少し上がる。
今回は、すぐには戻らない。
――戻らない。
それだけで、サラは息を吐けた。
「結論は急がなくていいですから」
短く、逃げ道を残す言い方。
ユアは、ゆっくり頷いた。
「……考えてみます」
リオが走って戻ってくる。
「ママ!みて!リク、ほんとにこわかった!」
「こわくない!」
「こわかった!」
笑い声が、続く。
サラは、その光景を見ながら、
胸の奥で静かに思った。
(今回は、置いてきてない)
手は、ちゃんと渡せた。
掴ませてはいない。
でも、届く場所には置いた。
――それでいい。
⸻
2031/01/21
リクは、冬が好きだ。
好きの理由が、軽い。
軽いまま、ちゃんと生きている。
「白い!息が白い!」
玄関で跳ねる背中を見て、サラは笑いそうになる。
笑ったら、今日が「普通の遊び」みたいに見えてしまうから、少しだけ抑える。
(普通でいてほしい)
(普通が、奇跡だから)
ジンがコートの襟を立てる。
「冬だからだ」
「冬、最高!」
その会話が、眩しい。
何度繰り返しても、リクのこういうところは変わらない。
愛おしい。
愛おしいのに、守れない時がある。
その事実が、サラの胸の奥を冷やす。
改札へ向かう道で、リクが聞く。
「ねえ、サラ。今日、なんで温泉にしたの?」
サラは一拍置く。
「……寒いから」
嘘じゃない。
でも、全部でもない。
(あの夜の続きが欲しかった)
(あの夜みたいに、揺れを外に出したかった)
“休むのに勇気がいる”って、さっき自分で言った。
その勇気を、今日は自分に使う日だ。
旅館に着いて、畳と出汁の匂いが広がる。
匂いって、記憶を勝手に引っ張り出す。
サラはスマホを置いて、写真を撮る。
パシャ。
「今日ここに来たって、あとで思い出せるから」
言いながら思う。
(思い出せるって何?)
(思い出すのは、私だけ?)
そういう黒い考えが出てきた瞬間、サラは自分で自分を叱る。
(今を見て)
(今の笑いを、ちゃんと見て)
男湯の前で、リクが宣言する。
「俺、今日、絶対にのぼせません」
ジンの返しは短い。
「倒れる前に言え」
リクが笑う。
その笑いが、サラの胸を温める。
(リクは、こうやって生きる人だ)
和室に戻ってきたとき、ジンは窓際の椅子に座っている。
部屋を見渡せる位置。
見張りじゃない。
守りの姿勢だ。
(分かってるくせに)
サラは少しだけ可笑しくなる。
可笑しいと思える自分が、嬉しい。
そして、胸の奥で静かに決める。
(もう繰り返さない)
(この笑いが残る世界線で、終わらせる)
リクの軽さを、軽いまま残す。
ジンの正しさを、冷たさで終わらせない。
自分の役割は「知る」だけだって、何度も思った。
でも今日だけは、違う。
(私は、託した)
(託したから、ここに居られる)
湯気の向こうで、リクの笑い声がする。
サラは、息を吐く。
泣かない。
泣かないまま、決める。
(それでも、託す)
(最後まで)
⸻
2031/08/19
サリがこの世に生を授かった。
サリを寝かしつけたあとの部屋は、昼とは別の静けさを持っていた。
物音が消えるというより、音が「丸くなる」感じだ。
サラはソファに腰を下ろし、胸の前でスマホを持ったまま動かなかった。
画面には、今日撮った写真が並んでいる。
水族館の青。
クラゲの光。
ベビーカー越しの空。
リクの笑い方。
サリの、眠る前のあいまいな顔。
どれも、特別じゃない。
特別に加工する必要もない。
(……これで、いい)
そう思う自分が、少しだけ怖かった。
「これでいい」と思える日常を、サラは何度も失ってきたからだ。
リビングの奥で、リクが洗い物をしている。
水の音が一定で、変わらない。
その一定さが、胸に沁みる。
サラはスマホを伏せ、天井を見上げた。
白い。
何も書かれていない。
——今日は、何も起きなかった。
それが、どれほど貴重なことかを、サラは知っている。
「何も起きない日」は、努力して手に入るものじゃない。
だからこそ、守りたかった。
サラは、そっとサリのほうを見る。
小さな胸が上下している。
呼吸が、ちゃんとある。
(この子は……まだ、知らなくていい)
世界がどれだけ不安定か。
どれだけ、選択ひとつで壊れるか。
今は、知らなくていい。
キッチンの水音が止まる。
リクがタオルで手を拭きながら戻ってくる。
「……寝た?」
「うん。さっき」
声を落とすと、リクも自然に声を落とす。
この家では、誰も指示しなくてもそうなる。
リクはサラの隣に座り、少しだけ距離を空けた。
触れない距離。
でも、離れてはいない距離。
「今日は、いい日だったね」
リクが言う。
サラは、すぐには答えなかった。
その一言を、胸の中で確かめる。
「……うん」
短く、でも嘘のない返事。
サラは、もう一度スマホを開いた。
最後に撮った写真。
部屋全体を写した、何でもない一枚。
光も、影も、ちょうどいい。
(……残せてる)
その実感が、胸の奥を少しだけ温める。
過去の自分は、残せなかった。
怖くて、忙しくて、間に合わなくて。
でも今は違う。
今は、ここにいる。
サリがいて、リクがいて、今日がある。
それだけで、十分すぎるほどだ。
サラは、スマホを胸元に抱えた。
(……ジンさん)
名前を呼ぶ代わりに、息を吐く。
あの人は、今もどこかで考えているだろう。
世界を。
構造を。
間違えないための順序を。
それでいい。
そう思えるだけで、今日は少しだけ呼吸ができた。
私は、ここにいる。
見る人。
残す人。
そして——信じる人。
サラは、ゆっくりと目を閉じた。
明日も、今日と同じとは限らない。
それでも。
(……光は、まだある)
そう思える夜が、ここにある。
それを、サラはただ抱えていた。
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