第10話 条約という枷

昭和八年~九年(1933―1934年)


一、見えない天井


昭和八年初夏。

高城中佐は、海軍省の一室で一枚の紙を眺めていた。


「建艦制限一覧表」


そこに並ぶ数字は、すでに彼の頭に焼き付いている。


戦艦・空母・巡洋艦――

すべてが「枠」で管理され、超えれば国際問題になる。


ワシントン、ロンドン。

二つの海軍条約は、日本海軍にとって“理性”の名を借りた枷だった。


「……この枷がある限り、準備は半分しかできない」


高城はそう呟いた。


問題は、条約そのものではない。

問題は、条約が未来の戦争を想定していないことだった。


航空機の発達。

量産と修理の速度。

工業力による消耗戦。


それらは、条文のどこにも存在しない。


二、会議室の空気


軍令部主催の建艦方針会議。

名目は「条約下における最適戦力の研究」。


だが実際には、

「いつ、どうやって条約を捨てるか」を測る場だった。


戦艦派の将官が言う。


「条約は不平等だが、破れば国際的孤立を招く」


別の者が続ける。


「今は耐えるべき時期だ。技術研究に集中すればよい」


高城は、黙って聞いていた。


やがて、山本五十六が視線を向ける。


「高城君。君はどう見る?」


高城は、立ち上がった。


「条約を守ったまま勝つ方法はあります」


一瞬、会議室が静まる。


「ただし――

 条約を信じないことが前提です」


ざわめきが起きる。


三、条約の抜け道


高城は、淡々と説明を始めた。


「条約が制限しているのは“艦の種類と排水量”です。

 造船能力、修理能力、部品生産能力は制限されていません」


図面が配られる。


そこには、奇妙な計画が並んでいた。


・民間造船所の拡張

・大型ドックの増設

・護衛艦、補助艦の大量建造

・空母設計の事前準備


「条約下では、準備だけを徹底します」


「条約を脱退した瞬間、

 同時に複数の艦が起工できる体制を作る」


それは、明確な“裏建艦”構想だった。


四、沈黙の承認


当然、反発はあった。


「国際問題になる」

「外交への影響が大きすぎる」


だが、誰も決定的な反論はできなかった。


なぜなら、高城の計画は条文違反ではなかったからだ。


山本が、ゆっくりと口を開く。


「……条約は、我々の意思を縛るものではない」


その言葉は、実質的な承認だった。


会議は、公式には何も決めずに終わった。


だがその夜から、

水面下で動きが加速する。


五、造船所という武器


昭和八年末から昭和九年にかけて、

全国で“民間向け設備投資”が始まった。


横浜・鶴見。

神戸・川崎。

長崎・三菱。

瀬戸内の中小造船所。


名目は商船建造能力の向上。

実態は、戦時転用前提の造船網整備だった。


高城は各地を飛び回り、

設計基準を統一していく。


「このクレーンは、空母のブロックを吊れるように」

「ドック幅は、巡洋艦二隻同時を想定してください」


民間側は驚いたが、

海軍からの資金と仕事は魅力的だった。


「戦争にならなければ、商船が増えるだけです」


高城の言葉は、

誰も否定できない合理性を持っていた。


六、ドック回転率という思想


同時期、高城が特に力を入れたのが「ドック回転率」だった。


従来、日本海軍の大型ドックは、


・一隻を長期間占有

・修理も建造も同時進行不可


という致命的欠陥を抱えていた。


「これは、戦争向きではありません」


高城は、横須賀工廠で言い切った。


「ドックは、艦を寝かせる場所ではない。

 艦を次へ送り出す装置です」


その思想に基づき、


・分割修理

・簡易修理用副ドック

・前線修理拠点


が計画されていく。


これは後に、

「90日以内戦線復帰体制」へと繋がる。


七、条約脱退へのカウントダウン


昭和九年初頭。

日本政府は、ワシントン・ロンドン体制への不満を公然と示し始める。


新聞には、


「不平等条約」

「国防上の制約」


といった言葉が踊った。


高城は、それを静かに眺めていた。


――いよいよだ。


彼の計画では、

条約脱退から三年以内に、


・正規空母の量産開始

・巡洋艦・駆逐艦の同時建造

・補助艦艇の爆発的増加


が可能になる。


それは、史実よりも明らかに早い。


八、翔鶴型の胎動


この頃、翔鶴型空母の基本設計が、

すでに机上で完成していた。


まだ「正式計画」ではない。

だが、図面は存在する。


高速。

防御。

航空運用効率。


そして、量産を前提とした構造。


高城は、その図面を見つめながら思う。


「この艦が、戦争の顔になる」


九、米内光政という後ろ盾


昭和九年、米内光政が政治的に影響力を持ち始める。


彼は、高城の計画を理解した数少ない人物だった。


「君の計画は派手さはないが、

 戦争を終わらせる力がある」


米内は、そう言って背中を押した。


舞鶴への超大型乾ドック新設。

それは、正式に承認される。


この瞬間、日本海軍は“同時建造能力”という

新しい段階に足を踏み入れた。


十、枷が外れる音


昭和九年末。

日本は、ついに海軍軍縮条約からの脱退を表明する。


世界は驚き、非難し、警戒した。


だが高城は、静かに笑った。


「遅すぎるくらいです」


条約という枷は外れた。


だが重要なのは、

外れる前から準備が終わっていたことだ。


十一、次の戦争へ


高城は、造船計画表に新たな線を引いた。


空母。

巡洋艦。

駆逐艦。

補助艦艇。


それらが、同時に増えていく未来。


砲ではなく、

空と生産力で戦う戦争。


その準備は、

すでに終わりつつあった。

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