第8話 銃声の中で回り続ける歯車

昭和七年(1932年)


一、五月十五日という日


五月の東京は、梅雨にはまだ早いはずだったが、空気は重く湿っていた。

高城中佐は海軍省の廊下を歩きながら、その重さが単なる気候のものではないと直感していた。軍靴の音が妙に響き、すれ違う将校たちの視線が鋭い。誰もが口を閉ざし、必要以上の会話を避けている。


執務室に入ろうとしたその時、背後から呼び止められた。


「高城中佐」


振り返ると、軍令部の若い参謀が立っていた。顔色は悪く、声はかすれている。


「今朝未明、首相官邸において……青年将校らが――」


「わかった」


高城はそれ以上聞かなかった。

犬養毅暗殺。五・一五事件。


それは、彼にとって“予測されていた未来”の一つだった。

だが、知っていることと、現実として起きることの重さはまるで違う。


執務机に座ると、すでに数通の電報が置かれていた。どれも簡潔だが、国の進路を左右するには十分すぎる内容だった。


高城は深く息を吐いた。


「……ここからだな」


二、改革が最初に殺される


五・一五事件が意味するものは、単なる政変ではない。

政治の弱体化、軍部の発言力増大、そして合理より精神を尊ぶ風潮の加速。


高城が最も警戒していたのは、その流れの中で「改革」が真っ先に切り捨てられることだった。


溶接構造。

艦艇設計の規格化。

地方造船所の活用。

量産と修理を前提とした艦隊運用。


どれも、数字と効率を重視する思想だ。

それは「一撃必殺」「精神力」「大艦巨砲」といった言葉とは相性が悪い。


事実、その日の午後には、すでに噂が流れ始めていた。


「技術研究費の一部凍結」

「不急不要事業の見直し」


高城は造船計画書を手に取り、静かに机を叩いた。


「止めさせる気か……」


三、記録に残らない会合


その日の夕刻、山本五十六の名で非公式の会合が招集された。

場所は海軍省地下の小会議室。議事録は作られず、出席者も最小限。


山本五十六、米内光政、高城中佐、そして造船・航空関係の将校数名。


山本は全員が揃ったのを確認すると、低い声で言った。


「……陸は血を流した。次は思想だ。

 海はどうする?」


沈黙が落ちる。


高城は、ためらいなく口を開いた。


「計画は続行します」


その一言に、空気が張り詰めた。


「今は危険だぞ、高城君」

米内が腕を組んだまま言う。「政治は不安定だ。余計なことをすれば、目を付けられる」


「承知しています」


高城は一礼し、続けた。


「だから、正面からはやりません。名前を変え、名目を変えます。改革ではなく、研究です」


造船官の一人が眉をひそめる。


「欺瞞ではないか」


「生き残るための方法です」


高城は静かに、だがはっきりと答えた。


「戦争は、正直者が勝つとは限りません」


山本はしばらく黙り込み、やがて小さく笑った。


「……君は軍人というより、経営者だな」


「戦争は経営です。

 負ければ、すべてが破綻します」


誰も否定できなかった。


四、名前を変えた計画


翌週から、計画は“姿を変えて”動き出した。


護衛艦計画は「沿岸警備用特務艇研究」となり、

工作艦は「港湾支援船試験」、

溶接構造は「商船技術転用研究」として扱われた。


予算は分割され、複数の項目に散らされた。

表向きは、ただの地味な技術研究。


だが実際には、戦時量産体制の骨格が着実に組み上げられていく。


瀬戸内の造船所では、二隻目、三隻目の実験艦が同時に起工された。

地方造船所にも、同じ図面が送られる。


現場では戸惑いがあったが、同時に変化も生まれていた。


「同じ部材ばかりだな」

「覚えれば、誰でもできる」


それは、熟練工だけに依存しない造船への第一歩だった。


五、溶接の火花


高城は、週に一度は造船所を訪れた。

溶接工たちの作業を黙って見守り、問題があればその場で修正する。


若い職工が言った。


「中佐、このやり方なら……数は造れますね」


高城は頷いた。


「それでいい。

 一隻を芸術品にするより、十隻を戦場に出す」


試験航海の結果は良好だった。


軽い。

整備しやすい。

被弾時の修理も早い。


数字が、それを証明していた。


六、軍内部の変化


五・一五事件後、軍内部では人事の再編が進んだ。

過激思想を持つ将校が表に出る一方で、技術・兵站畑は「地味すぎる」として後景に退く。


それが、高城には都合がよかった。


彼は前線指揮官ではない。

砲を撃つ英雄でもない。


「造船と兵站の専門家」


その肩書きが、彼を政治の嵐から守った。


だが同時に、高城は理解していた。


――この国は、危うい方向へ進んでいる。


だからこそ、止まれない。


七、静かに噛み合う歯車


昭和七年の終わり、横須賀で新たな実験艦が進水した。

外見は簡素だが、内部は徹底して合理的だった。


完全規格化部材。

溶接主体の船体。

修理前提の配置。


祝賀会はなかった。

だが、技術者たちは確信していた。


――これは戦える。


高城は、その艦を見ながら思う。


銃声が国を揺らしても、

歯車は止まらない。


むしろ、静かに、確実に噛み合い始めている。


八、未来への布石


この年、目立たぬ形で始まった研究がいくつかあった。


航空機部材の共通化。

発動機整備のライン化。

電波を用いた探知の理論研究。


どれも、まだ名前すらない技術だ。


だが高城は確信していた。


「十年後、これが勝敗を分ける」


五・一五事件は、日本を変えた。

だが同時に、変えられないものもある。


鋼は、今日も繋がれている。

火花を散らしながら、次の戦争へ向けて。

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