蚊帳ノ外
白銀 白亜
蚊帳ノ外
理科準備室は、いつも少しだけ湿っている。水槽のふたがずれているせいか、アルコールの匂いが床に染みているせいか。窓は曇って、白い光がただ置かれているだけみたいに見える。そこに高橋先生がいると、光が温度を持つ。
「三浦、これ、次の小テスト範囲。覚えとけよ」
プリントの角が指先に当たる。紙は乾いていて、私の掌だけが熱い。先生は机に肘をつき、ペンのキャップを無意識に付けたり外したりしている。教師のそういう癖って、見つけた瞬間から、私だけのものみたいな錯覚が生まれる。
「ありがとうございます」
声が、やけに素直に出る。嫌になるほど。
クラスの男子たちは、今日も廊下でふざけている。ワックスの匂いと汗の匂いと、聞きたくない笑い声。共学というだけで、世界は勝手ににぎやかになる。でもそのにぎやかさは、私の方へは来ない。私はそれを、助かると思う時と、救われないと思う時がある。
授業中、先生は私を名字で当てる。名字で当てるのが当たり前なのに、私はそれだけで特別扱いされた気になる。三浦、と呼ばれた瞬間、クラスの空気の中に私の輪郭が立つからだ。男子が「はいはい優等生〜」と笑っても、先生は気にしない。私はその無視が好きだ。私を守ってくれているみたいで。
解剖の授業があった日、私は一匹だけ残ったカエルの腹を切れずに固まっていた。隣の席の男子は「キモ」と呟いて笑った。先生はその声を聞いたはずなのに、何も言わない代わりに、私の手元に手袋を新しいのに替えて置いた。
「無理なら、見てるだけでいい。」
先生の声は、温度の低い優しさだ。熱くないから、逃げたくならない。私は頷いて、見ているふりをした。カエルの内臓より、先生の指の動きの方がずっと怖かった。怖いのに、目を逸らしたくなかった。
放課後、片づけを手伝うふりをして準備室に入る。先生は「手伝わなくていい」と一度は言う。でも、私が手を止めないと、最後には「じゃあスポンジ洗って」と役割をくれる。役割があると、私は居ていい理由ができる。
「どうした、眠いのか」
「寝てます」
「嘘つけ。目が死んでる」
笑うところなのに、私は笑えない。先生が私の目を見て「死んでる」と言う時だけ、死んでいない気がする。視線が刺さるのではなく、置かれる。私の居場所が、そこにできる。
準備室の隣の理科室では、誰かが顕微鏡を片づける音がしている。金属の脚が机に当たる、乾いた音。校内放送のチャイムが鳴って、また鳴って、午後がゆっくく擦れていく。
「――白川先生、今日も忙しそうだな」
高橋先生が、ふと窓の外を見る。私はその瞬間に、胸が小さく縮む。縮んで、元に戻れないまま、次の言葉を待つ。
「普通科って行事多いですよね」
私はなるべく平坦に返す。平坦に、平坦に。そうしないと、声の下から何かが漏れ出る。
「いや、そうじゃなくてさ。ほら、文化祭の脚本とか。あの人、全部背負い込むタイプだろ」
あの人、と言った時の先生の口元が柔らかい。私はその柔らかさを、自分に向けられたものだと勘違いしそうになって、咳払いをするふりをした。
「白川先生って、そんなにすごいんですか」
自分でも驚くほど、湿った質問になった。先生は気づかない。気づけない。気づかないでいてくれるのが、たまに嬉しい。
「すごいよ。文章、めちゃくちゃ上手いし。生徒のこと見てるし。俺、国語は苦手だからさ、助けてもらってる」
助けてもらってる。
その言葉が、私の中のどこかを押しつぶす。先生が助けてもらっているのは、私じゃない。私が助けているのは、先生でもない。準備室の空気が少しだけ薄くなって、息が浅くなる。
ある日、準備室のドアがノックされた。先生が「どうぞ」と言う前に、ドアは開いて、白川先生が入ってきた。黒板消しの粉と、紙の匂い。国語の人は、匂いまで違う気がした。
「高橋先生、昨日の――あ、ごめん、生徒いた」
白川先生は私を見る。目が合う。先生の目は、私を「女の子」としてではなく「そこにいる人」として見る。妙に正しくて、恥ずかしい。私は立ち上がって「失礼します」と言った。
「いいのよ、話してて。三浦さんだっけ」
さん付け。先生は私を三浦と呼ぶのに、この人は三浦さんと呼ぶ。たったそれだけで、私は自分が小さくなる。高橋先生の隣に座ることが許されていたはずなのに、急にその椅子が借り物になる。
高橋先生は白川先生に、昨日の資料のことを相談し始めた。二人の会話は早い。言葉の端々に、共有してきた時間がくっついている。私は立ったまま、笑う場所も分からずに頷いた。頷くことでしか、そこに居ることを許されないみたいだった。
白川先生が去ったあと、先生は何事もなかったように「悪かったな、急に」と言った。悪いと思っていない声だった。私はそれに救われる。救われて、同時に、傷が増える。
「先生、白川先生のこと好きなんですか」
また聞いてしまった。舌が勝手に動く。言葉が口の外へ出た瞬間、もう戻らない。私の頭の中で、教師にそんなことを聞く私は存在しないはずだったのに。
高橋先生は驚いた顔をしたあと、笑った。軽い笑い。責めない笑い。私を生徒のままにしておける笑い。
「何だそれ。三浦、急にどうした」
「……なんとなく」
「好きっていうか、尊敬ってやつ。白川先生みたいな人、俺には眩しいんだよ」
眩しい。眩しいんだ。
眩しいものは、見上げるものだ。隣にいるものじゃない。私は、そういう当たり前を理解しているふりができるくらいには、もう子どもじゃない。だからこそ、理解したふりが、心に泥を溜める。
「三浦はさ、同級生とか興味ないの」
先生が、話題をずらすように言う。ずらされた先にいるのは、いつも幼い男子たちだ。あの笑い声。あの無邪気。あの、私を見ない目。
「ないです。……子どもっぽい」
「お前も子どもだろ」
「先生だってまだ若いじゃないですか」
言ってしまってから、喉が熱くなる。今のは、何だ。私は、何を言いたかった。
先生はプリントを机の上で揃えながら、何でもないことのように頷いた。
「まあな。だから白川先生みたいな大人を見ると、ちゃんとしてるなって思う」
ちゃんとしてる。大人。白川先生。
私は、手元のプリントを見つめる。文字が滲むわけじゃないのに、読めない。視界の端で、先生の指がペンを回している。その指が好きだと思う。指一本で、私の午後が救われる。救われてしまうのが怖い。
私が先生と話すのは、放課後だけだ。授業中は、先生は先生で、私はその他大勢の一人でいられる。だから耐えられる。放課後の準備室だけが、私にとっての例外で、例外はいつか罰になると、どこかで知っている。
数日後、準備室の空気は少し違っていた。先生が落ち着かない。机の上のプリントを整えては崩し、消しゴムを転がし、スマホを見て、また伏せる。
「何かあったんですか」
「いや、別に」
別に、は嘘の音がする。
「白川先生と、何か……」
言いかけて、自分で止める。言う資格がない。口に出した瞬間、私はまた生徒の輪郭を失う。
先生は、私の言葉の残りを待つみたいに、少しだけ首を傾けた。
「三浦さ。もし、好きな人がいて、でも相手が先輩で、しかも同じ職場で……ってなったら、どうする」
私の背中に冷たい汗が出る。質問の形をしているのに、答えは最初から決まっている。私はそれを知っているのに、知らないふりをするしかない。
「……諦める、かも」
「だよな」
先生は笑った。でもその笑いは、前の軽さとは違って、喉の奥に引っかかっている。
「でもさ、諦めたら終わりじゃん。終わりにしたくない時って、どうすればいいんだろ」
終わりにしたくない。終わりにしたくないのは、先生だ。私じゃない。私は終わりにしたくないことを、終わりにできない側だ。
胸の中に溜まっていた泥が、ふと浮き上がる。言葉になりたがる。私が言えば、先生は楽になる。私はそれを知っている。知っているからこそ、言ってしまう。
「告白すればいいのに」
声が、準備室の湿った空気に落ちる。落ちて、跳ね返らない。先生のペンが止まる。
「……え?」
高橋先生が、私を見る。初めて、何かを本気で見ようとする目をする。私はその目に耐えられなくて、プリントの端を爪で押さえつける。紙が、細く音を立てた。
「だって、先生がずっと白川先生の話するから。……好きなら、言えばいいじゃないですか。先生なら、ちゃんと大人だし」
言い訳みたいに言葉を重ねるほど、私は自分の首を締める。先生が好きなのは白川先生で、私はただ、その恋の話を聞ける場所にいただけだと、自分で宣言している。
高橋先生はしばらく黙っていた。準備室の時計の秒針が、やけにうるさい。
「……三浦、ありがとう」
その「ありがとう」が、私を生徒として撫でる。撫でられた場所が、ひどく痛い。
「お前、そういうの、ちゃんと考えられるんだな」
考えられる。大人みたい。先生は私を褒めている。私は褒められているのに、胃が冷える。褒め言葉は、ここでは毒になる。
先生は立ち上がり、窓を少し開けた。冷たい空気が入ってくる。曇ったガラスが一瞬だけ澄む。外で誰かが笑っている。遠い。
「……言ってみるわ。白川先生に」
その一文が、私の中で何かを切った。音もなく、ただ切れた。私は笑うことができない。笑えば、応援になる。泣けば、恋になる。どちらも選べないまま、私は頷く。
「……はい」
先生は、私の返事を確認するようにもう一度頷き、ドアノブに手をかけた。金属の冷たい音。準備室が、少しだけ広く感じる。
先生が出ていく直前、振り返って言った。
「三浦、また相談乗ってくれよ」
相談。私は、相談相手。そういう役割。そういう場所。
ドアが閉まる。湿った空気だけが残る。私はプリントを胸に抱えたまま、動けなかった。
プリントのインクが、汗で少しだけ匂った。私は机の角に額を当てる。冷たいはずなのに、頬が熱い。準備室の静けさの中で、自分の呼吸だけがうるさい。私はさっき、先生の背中を押した。押したというより、突き落としたのかもしれない。
スポンジを握ってシンクを洗う。泡が立つ。泡はすぐ消える。消えるのが早すぎて、見ているのがつらい。白川先生と先生が話しているところを、私は何度も思い出す。言葉の速さ。笑うタイミング。私には入れないリズム。
廊下に出ると、夕方の光が斜めに差していた。職員室の前で、高橋先生の姿を探す自分に気づいて、足が止まる。私は何を期待しているんだろう。先生が戻ってきて、「やっぱりやめた」と言ってくれること? それとも「うまくいった」と報告してくれること? どちらでも、私は壊れる。
遠くで、女の人の笑い声がした。軽くて、ちゃんと大人の声。振り向くと、職員室の角で白川先生が書類を抱えて立っているのが見えた。次の瞬間、高橋先生がその隣に現れた。二人は並んで歩き出す。肩が触れるほど近くはない。でも、世界が二人用にできているみたいに見える。
私は息を止めた。止めた息が、胸の中で腐る。視界がにじむのに、涙は出ない。泣くほどの権利がないから。
帰りの昇降口で、誰かが「三浦、今日遊ぶ?」と声をかけてきた。私は首を振って、靴ひもを結び直すふりをした。外に出ると、空が薄い青に沈んでいた。青は綺麗なのに、綺麗なものほど私を置いていく。
家に着いて、制服のままベッドに座る。スマホは鳴らない。通知もない。私は画面を伏せて、また表にして、伏せて、表にする。何かが来るはずだと思ってしまう自分が、いちばん惨めだった。
――明日、先生はどんな顔で私を呼ぶんだろう。
それを想像するたび、私の中の準備室が、また少し湿る。
次の日も、高橋先生はいつも通りだった。
生物の授業は滞りなく進み、板書の癖も、少し早口になるところも変わらない。私が答えに詰まると、先生は視線を外して、他の生徒を当てた。それも、前からそうだった。何一つ変わっていないのに、私の方だけが、昨日の続きを生きている。
放課後、準備室のドアが開いていた。
私は立ち止まる。入っていいのか分からない。でも、先生は私に「来るな」と言っていない。言われていない以上、私はここに来ていいはずだ。そう自分に言い聞かせて、ドアを押す。
「三浦、ちょうどよかった」
高橋先生は、顕微鏡のレンズを拭きながら言った。その声は、昨日と同じ温度だった。私はそれが、少し怖かった。
「どうした」
「いえ……」
言葉が続かない。先生は私の沈黙を、いつものように待ってくれる。その「待つ」という態度が、私を勘違いさせる。
「なあ、三浦」
先生はタオルを置いて、私の方を見た。
「昨日の話だけどさ。白川先生と、付き合うことになった」
準備室の空気が、ぴたりと止まる。
でも、それは発表じゃなかった。報告でもない。先生は、他の生徒に向けて言うような声じゃなかった。声を少しだけ落として、私にだけ聞かせる距離で言った。
「三浦には、ちゃんと伝えとこうと思って」
ちゃんと。
その言葉が、私の中で変な音を立てる。
「他の生徒には、言ってないから内緒な」
秘密。
それは、私にとって一番危険な言葉だった。
「……そう、ですか」
私は笑おうとして、失敗する。頬がうまく動かない。
「昨日、背中押してくれただろ。だから、一番に言うべきだと思って」
一番に。
私は、その言葉を胸の奥に落とす。落ちたものが、底に着かずに、ずっと浮いている。沈まないから、ずっと邪魔だ。
「三浦はさ、大人だよな」
先生は、何でもないことのように言う。
「変に騒いだりしないし、ちゃんと距離分かってる」
距離。
分かっているつもりでいた。でも、それを先生の口から言われると、急に自信がなくなる。
「だから、これからも今まで通りでいいから」
今まで通り。
それは、続いているように見える言葉だった。でも、私の中では、すでに終わっている何かを、無理やり延ばしている感じがした。
先生は、準備室の机に寄りかかる。私はその向かいに立ったまま、座らない。座れば、昨日までの場所に戻ってしまう。
「白川先生、いい人だろ」
私は、うなずく。
「……はい」
「俺、ああいう人といると、ちゃんとしなきゃって思うんだよ」
ちゃんと。
私といる時、先生はちゃんとしなくてよかったんだろうか。愚痴を言って、弱音を吐いて、相談をして。私はそれを、特別だと思っていた。でもそれは、先生にとっては“楽な場所”だっただけかもしれない。
「三浦には、そういうのも話せるし」
そういうの。
恋人の話を、恋人じゃない相手にすること。
私は、自分の中で何かがひっくり返るのを感じた。でも、顔には出さない。出せない。私は「大人」だから。
「先生、幸せそうですね」
それは、本心だった。だからこそ、苦しい。
「まあな」
先生は笑う。その笑顔を、私は知っている。私が見てきた笑顔だ。でも、その行き先は、もう私じゃない。
それからも、高橋先生は変わらなかった。
準備室に来れば、普通に話す。授業中も、今まで通り名字で当てる。時々、白川先生の話をする。「今度こんな教材使うらしい」「あの人、忙しいのに無理するんだよな」と。私はそれを聞く。聞けてしまう。
秘密は、私の中だけで膨らむ。
他の生徒は知らない。
でも、私だけは知っている。
その事実が、私を選ばれた気にさせる。
同時に、どこにも行けなくする。
ある日、準備室で二人きりになった時、先生が言った。
「これ、白川先生には内緒な」
冗談みたいな口調で。
それが、冗談じゃないと分かる距離で。
私は笑って、うなずいた。
笑えた自分が、一番怖かった。
私は、恋人でもないのに、恋人の外側に立たされている。蚊帳の外なのに、蚊帳の内側の話を聞かされる。
帰り道、校舎の窓に明かりが点いていた。職員室の一角で、白川先生が誰かと話しているのが見える。隣に、高橋先生はいない。でも、いなくても分かる。あの人は、あの場所に属している。
私は立ち止まらず、歩く。
準備室の鍵は、もう閉まっていた。中は見えない。見えなくても、分かる。そこはもう、私の場所じゃない。
それでも、私は完全に追い出されたわけじゃない。先生は私に優しい。今も。これからも。
それが、一番残酷だった。
選ばれなかったのに、拒絶もされない。
終わったのに、終わらせてもらえない。
家に帰って、制服を脱ぐ。ポケットから、プリントが落ちる。私はそれを拾って、机の上に置いた。捨てない。取っておく理由もない。ただ、捨てられない。
夜、布団に入って目を閉じる。
明日も、私は先生と話すだろう。
今まで通りに。
でももう、その場所に意味はない。
私は、蚊帳の外にいる。
それを知ったまま、そこに立ち続けている。
それが一番、
大人のなり方なのかもしれなかった。
蚊帳ノ外 白銀 白亜 @hakua-96
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます