4.祭のあとさき


 見ていると、人々はポイで器用にをすくっては、おもむろに椀を口へ運んでそれを呑み込んでいる。桃色やレモン色、水色や翡翠色に仄めく光が、彼らの青白い喉を透かし下るのを、少女は驚きながら魅入った。

 やってみたい、と思ったのではない。これは何だろうという気持ちが、彼女をそこに長居させた。

 この夜祭で、いかに対価が支払われているかを知ったのはその時だ。

 新しく来た客が店主に一言二言声をかけて、店主が無造作に片手を差し出す。客が巾着袋から取って店主の手のひらへ載せた物は、どう見ても、血を滴らせる人間の眼球だった。

「びっくりして悲鳴あげた。そりゃそうでしょ。でもその瞬間、急に世界が止まったの」

 空気が凍ったようだった。底知れぬ静寂。

 遠近おちこちとあった心地よいざわめきは絶え、人々は今初めて異常を悟ったように沈黙していた。目玉よりも、突然の静止こそが少女を真に恐怖させた。提灯の赤い灯りだけがゆうらり無音で揺れる中、顔のない人々は針に似た凝視の気配を少女に注いだ。

 ぞおっと悪寒が背を駆け抜けて、わけのわからぬまま彼女は後ずさりに逃げ出した。

「でも逃げるっても、どこ行けばいいの? わかんないから走って走って、いつのまにか上り坂になってて。息が切れてやっと止まったらあたし、よく知った場所に出てた」

 苔むした石段。両側が杉の小暗おぐらい森の、鬱蒼とした参道。彼女の秘密の避難場所、長く親しんできた裏山の神社へ続く道。

「自然に足を向けてたよ。相変わらず静かで不気味だったけど、頂上で振り返ったら星のない夜空に花火が上がってた。でも不思議なんだよね、音がしないの。ただ色のない花火が、大きくきらきら開いて、綺麗で——しばらくして振り向いたら、うしろに人が三人立ってた」

 ほんの十歩の距離の三人は、気配もなくそこにいた。

 全員が古めかしい白装束、奇妙な形の黒い帽子。面前には白い布を垂らしていて、だから顔は見えなかった。強い香りだけが印象的だった。

 甘いような、芳しい、確かに知っているその香りは――

 思い出すより早く、左端の一人が一歩を進み出る。一歩と思ったが、次の瞬間、目の前にいた。そして、

「おまえは川俣かわまたの家の残った上の娘」

 言うやいなや指をかざし、彼女の額を鋭く弾いた。

「目が覚めたら集中治療室。事故ったの、あたし。これはそのときの傷。五時間くらい手術して、死ななかったのは奇跡だって。でも医者も余計なことしてくれたよね。その手術代、うちが払えると思ってんの?」

 払えるわけないと吐き捨てる少女へ、唯は大変だったねと囁くしかなかった。

 その声は届いておらず、少女は自嘲気味に口を歪めて語り続ける。彼女はいつしか唯の存在を忘れ、己の追憶に埋没しているようだった。

「おかげで両親は決裂。顔を合わせれば怒鳴りあうし、あたしは毎日母親に罵られる。父親は絶対にあたしの顔を見ない。でもしょうがないよね、あたしだけまだ生きてるんだから。妹を川遊びに連れてったのはあたし。目を離したのもあたし。あの子が死んだのはあたしのせい。

 だから本当に余計なことしたのは、医者じゃなくて神様だった。あのままいさせてくれてよかったのにさ、世界のうしろ側に。あの世ってやつ? わかんないけど。

 ね、あっちの住人になるにはどうしたらいいのかな。あの夜祭じゃ目玉で払ってたし、支払えば住民票的なの貰えると思わない? 指とか、一本くらいなくても問題ないでしょ」

 ふいに同意を求められて、唯は答えに窮した。

 恐る恐る彼女の両手を確認し、煙草を持つ指が揃っているのに安堵する。しかし、なおも唯は違和感を拭えなかった。

 いつしか周囲を漂う蛍が増えている。

 その光だと思ったのだ——少女の持つ煙草の火が、青緑に仄めいて見えたのは。

「あの鳥居」

 青緑の火が、闇に浮かぶ鳥居を指す。

「うちの裏の神社の鳥居。あんたも見たでしょ? ご神木の三本大楠さんぼんおおぐすくすのきって、独特の良い匂いがするんだよね。そこの縁日祭りがちょっと前にあってさ――知ってた? 縁日って、神様と縁を結ぶ日なんだって」

 異常なほどに蛍が飛びかう。今では唯も気づいていた。朧な光の中心に、あるべき虫の形が見えないこと。

 鬼火は慕うように少女を巻いては山へ向かって案内しかけ、少女が付いてこないとみるや焦れるように舞い戻る。

「吉日を待てって言われてたんだ。やっと今夜……」

 意味不明に独り呟いてから、唐突に少女がいた。

「あんたも来る?」

「ううん……」

「ほらね。臆病で賢いとこ、妹に似てる。——あんたはここにいるべきじゃない。電話、お母さんからずっと掛かってきてんでしょ? 早く帰ったほうがいいよ」

「どうして……」知っているの。

 唯の疑問など意に介さず、少女は微笑の気配を残して立ち上がった。

 踵を返す直前、ただ一言、

「じゃね、バイバイ」

 少女の指先でm吸い殻があおく燃え尽きる。

 山から涼風が吹いてきた。その風に、唯は確かに人声めいたざわめきと、笛か鉦の音を聞いたと思った。そして風は歩み去る少女の前髪を吹き流し、一瞬だけ肩越しに振り向いた彼女の隠れた左目を露わにした。

 少女の行く手、闇にそびえるおぼろな大鳥居の下に、あるはずのない縁日祭りの赤灯が滲む。

 左の眼窩に虚ろな穴を空けた少女が消えた後も、しばらく唯は金縛りにあったようにその場から動けなかった。

 背後で誘蛾灯がバチンと鳴った。驚いて振り返った唯の目に、一枚のチラシが飛び込んでくる。

 行方不明者。写真に写った少女は、あの子。

 稲田の虫の大合唱が、まるで懐かしいもののように一気に耳に蘇った。唯は茫然と姿勢を戻す。田舎の自然の騒音は、今までどこへ消えていたのだろう……。

 リュックを手探りし、唯は携帯電話を取り出した。

 震える指で電源を入れ、パッと電子の灯が点ると同時に、それは力強く鳴動する。着信バナーは母の番号。唯は表示をじっと見つめた。

 ひとつ息を吐いてバナーに触れ、唯は端末をそっと耳に当てた。

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うしろの縁日 鷹羽 玖洋 @gunblue

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