3.祭の最中

 自分の家族が最初から壊れていたわけではない、と少女は言った。

 両親は二人とも地元出身。同窓会か何かで再会して付き合い始め、とんとん拍子で結婚に至った。子供は娘が二人。姉である彼女が九つの時まではそれなりの家庭だったが、ある時を境に喧嘩が絶えなくなったという。

「母親のヒステリーが始まると、もうどうしようもないわけ。家中の物は壊れるし、割れたガラス踏んで血が出るし。父親は完全に腑抜けで、そうなると家出て何日も帰らない。ま、いたところでこっちを完全無視なんだけどさ。最後に目が合ったの、いつだったっけ?」

 家にいれば、母親の愚痴と暴力に曝される。彼女が長い時間を外で過ごすようになるのは必然だった。

 学校の保健室から屋上へ、友達の家から町の廃店前へ。けれど田舎には、都会と違って遊べる場所が少ない。仲間との関係にも紆余曲折があって、いつしか彼女はただ独りで時を過ごすようになった。

「だいたいは、山のお社にいたんだよね。見えるでしょ? あの鳥居をまっすぐ行って、坂道登ったとこの古い神社。建物は朽ちかけだけど、横にでっかいくすのきが生えててさ。地元じゃ三本大楠さんぼんおおぐすって呼ばれてる。根元近くから太い枝分かれが三本あるから。その一本がさ、登って座るのにちょうどいい折れ曲がり方してるんだよね」

 枝に登ると眺望が開け、世界から少しだけ身を離せる気がした。たまの地元の参拝客も、彼女には誰も気づかない。人は己の目線以上の高さには意識を向けないらしく、それも彼女を楽しませ、あるいは安堵させた。

 そしてある日、母親がまた悪鬼のように暴れた日。樹上から、彼女は曲がりくねって町から抜ける田舎道の先を眺め、行ける限り遠くまで行ってみようと思い立ったのだ。

「電車とバスを乗り継いで、金がなくなったらヒッチハイク。三日目あたりに、ここよりずっとド田舎の山ん中で真夜中になっちゃって。自転車チャリがあったら借りようと思って、道路脇の家を覗いたんだ。そしたら自転車はなかったけど、鍵挿しっぱなしの原付があってさ」

 運転の経験はなかったが、友達に二人乗りさせてもらったことはある。だから彼女は難なくバイクのエンジンをかけると、深夜の山道を軽快に走り始めた。

「いくらかカーブを曲がった後かな、あたしすっごい楽しくなってて。けっこう速度は上がってた。メーター見てなかったけど、ずっと下りだったから。で、次のカーブがかなりヘアピンでさ。直前に曲がり切れるかなってちょっと思ったけど、わりあいハンドルがすいっと動いてあたしはちゃんと曲がれてた」

 だが、その直後のこと。車体がふっと宙に浮き、手の中をハンドルがすり抜けていく奇妙な感覚があった。乗り手のない原付バイクは前方へと自走してゆき、置いて行かれた彼女はただ路上に佇んでいた。

「あれ、とは思ったけどさ。やっちゃったとは思ったけど、自分の原チャじゃないし」

 特に怪我もなかったので、彼女は不思議なほど落ち着いていた。原付バイクのテールランプはガードレールを破ったのでも、崖を落ちていったのでもなかった。鬱金色がかった濃霧に吞まれて消えたのだった。

「山の中じゃなかった。いつのまにか綺麗に均した土の上に立ってて。周りは全部霧。明るい気もしたし、暗い気もしたな。変だったけど、とりあえず歩いてたら、前からざわめきが聞こえてきたの」

 最初は無数の人声や音楽がないまぜになった、さざなみめいた音に思えた。だがいくら近寄ってもざわめきは一向に明瞭にならず、周囲の様相だけ少し変わった。

 霧ごしに樹影が現れ、足元は気付けば切石を敷いた道に。それから前方に光が湧いた。青緑めいた朧な気配。次第にぽつぽつと蛍火の群れ。

 その奥に、二列に並んだ赤い提灯が滲むように現れると、いきなり彼女は雑踏のさなかに紛れこんでいた。

「でもさ、やっぱり変なんだよね。みんな人だとはわかるんだけど、誰もかも顔がはっきりしないの。背が高い人もいたし子供もいた。それから言葉。すれ違う人たちの会話とか、どうしても聞き取れない。波みたいにざわざわ、ざわざわ——みんな楽しんでるのは感じるけど、何かが普通じゃなかった」

 それでも別段、恐れは抱かなかった。人ごみのまにまに道の両側へ並ぶ屋台を覗き見れば、どうやらどこかの縁日祭りに迷い込んだとわかったからだ。しかも店々は目を瞠るほど珍しく、面白いものばかりを売っている。次第に夢中になって、彼女は屋台見物を楽しんだ。

 定番の焼きもろこしや、たこ焼き屋が香ばしい匂いを振りまく横で、かき氷屋が水晶のごとき巨大氷を小刀でしゃりしゃり削っている。貝の小皿に品よく盛られた氷は、色とりどりのシロップを掛けられて客の手から手へ。

 隣の店では大きな椀型の中、サイズや形の様々な独楽が自転し続けていた。客の一人が黒地に朱の縞模様の独楽をさっと回し入れると、白地に金縞の独楽が弾き出されて見物客がわっと沸く。

 植木屋は真珠色の枝に銀鈴の生る植木鉢を叩き売りし、絵本屋の広げた古巻物の紙面では、墨描きの兎や蛙が滑稽な相撲を取っていた。

 射的の景品は色硝子いろがらす破片かけ、極彩色の鳥の羽、青く仄めく木蓮の花枝かし。美麗な着物の大道芸師が朗々と謡いながら踊り跳ねる向かいで、飴細工師は黙々と黒鉄のはさみで精緻な龍を象っている。

 人形芝居が呼ばわり、蜜色の冷やし飴が結露するガラスの杯に注がれていた。生姜の香りが爽やかに鼻腔をくすぐり、お面屋には目玉がぎょろめく面が並び、古着屋が鮮やかな朝顔あさがお柄のTシャツと浴衣を衣桁に掛け直している。遠くからあるいは近くから、笛と鉦と鼓のような絶え間ない祭囃子。

 彼女はつと足を止めた。あまり手応えのない人垣を分けて屋台を覗くと、そこは金魚すくいだった。

 ただし暗い水を泳ぐのは金魚ではない。胸びれや背びれがなく、尾びれだけが優雅に長い。丸っこく透けた身体の中に、燐光を宿すだった。

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