第8話
「私は…」
女性はそれ以上は言おうとしなかった。
ダニエルにとっては、もう、どうでも良かった。
家に帰してさえくれれば。
「いや、もういい。貴女が誰なのかとか知りたくもない。私を帰らせて欲しい」
女性の目が潤んだ。
「…そうですか。それでは、お願いがあります。こちらに来てください」
女性は立ち上がり部屋のドアを開けて廊下に出た。
ダニエルは、またしても女性が言う通りに動くことしかできなかった。
薄暗いグレーの廊下は壁に蝋燭で灯すランプがポツリポツリと掛けてあった。
廊下は果てしなく何処までも続いているようだった。
「お願いだ、家に、妻に連絡させて欲しい」
彼の三歩ほど先を歩いている女性に声をかけた。
振り返った女性の目が鋭く光った。
怒っているようだ。
──冗談じゃない。怒りたいのは、怒っているのは、こっちだ。
ダニエルも、女性に鋭い視線を投げた。
「繋がるのなら、どうぞ」
女性は彼に睨まれてもビクともせず感情のない、冷たい声色で言った。
ダニエルは体の強張りを解いてポケットに入れているスマホを取り出した。
だが、圏外になっていた。
「繋がらない。外に出たい」
なんとか怒りを圧し殺して、彼は女性に言った。
「どうぞ」
抑揚のない声で女性が言った。
──だけど、どうすれば外に出られるんだろう。
「こちらへ、ついてきてください」
女性は言うと踵を返してスタスタと薄暗い長い廊下を歩き始めた。
ダニエルは、ついて行くしかなかった。
玄関のドア──ここを通ったのか?彼には見覚えがなかった。
女性が大きな木製のドアを鉄の閂を外してドアを、ゆっくり開けた。
ギイィー。錆びた蝶番が軋んだ。
開いたドアの向こうは真っ暗闇だった。
空には星ひとつ見えない。
──暗闇に目が慣れれば、少しは何か見えるはず。
三十秒くらいダニエルは目を凝らしたが何も見えてこなかった。
とりあえず玄関を出て一歩、二歩、歩いた。
スマホの充電は、まだまだ余裕だったけど、それでも圏外だった。
もう二歩、三歩。
ジャリッジャリッと敷き詰めた砂利の音が闇に吸い込まれていく。
思い切って、小走りに走ってみた。
だが圏外なのは変わらない。彼は後ろを振り返った。
ドアの輪郭の薄暗いグレーの長方形に女性の人形が闇のように黒かった。
もっと、もっと先に行ってみたら繋がるのでは?
このまま逃げることが出来たら!
ダニエルは走って走って走った。
女性が追いかけてくる気配はない。
──逃げよう!逃げる!逃げるんだ!何が目的なのか、全く解らない。薄気味の悪い女だ。
彼は走りながら、時々、携帯を見た。
だが、走っても走っても圏外のままだった。
どのくらい走り続けただろうか?
ダニエルは暗闇の中を何かに、つまづくこともなく走り続けた。
やがて、息切れし、立ち止まり前屈みになって息を整えた。
背後を振り返ってみたが真っ暗闇で何も見えなかった。
かなり長い時間を暗闇の中にいたはずなのに、目は闇に慣れることはなく、夜なのに空には月も星も何も見えない。
恐怖が彼の全身を包み込んだ。
だが、女性は追いかけてこない。
──このまま、歩き続けていれば、やがて夜が明けて周りが見えるだろう。
ここが何処なのか、自分の車が何処にあるのか解らないけど、とにかく今は、あの女性から逃げることが最優先だ。
不意に、ガシッと身体が何かに掴まれたような感じがした。
その瞬間、彼は勢いよく後ろに引き戻された。
ドオッと、背中から床に倒れた。
「痛…」
呻きながら、なんとか立ち上がろうと身体を起こすと、コツンと靴音が響いた。
ダニエルが居たのは、元の薄暗い廊下で、あの女性が彼の傍に立っていた。
「おかえりなさい。奥様と、お話は出来まして?まぁ…ずいぶんと汗だくじゃあありませんか…今夜は、遅いですからシャワーを浴びて、もうおやすみください。私のお願いは、明日にいたしましょう」
女性は嘲りをたっぷり含んだ笑顔で彼を見おろしてニッコリ笑い、背中を向けて、廊下を歩き始めた。
ダニエルの身体は自分の意思とは正反対に立ち上がり、足は勝手に歩き、自分に与えられている客間に戻ってシャワーを浴びた。
涙がシャワーに混ざって流れていった。
──この屋敷から、かなり走って離れたはずなのに…何故…?
あの女性は何者なのだろうか…何か、お願いがあると言っていた。私に出来ることだろうか?それを叶えることが出来たら帰らせてくれるのだろうか?だが、何故、身体が言うことをきかない?私は、ここから逃げたいのに。しかも自由に話すことすら出来ない。何か、魔法にかかったようだ。
魔法?そんな物が本当にあるのか?だが、私の、この状況は、おかしい。
考えてみたところで何も解らない。
ここは、女性が言う「お願い」を聞いて、出来ることなら叶えて機嫌をとって早く解放されることだ。
無事に帰らせてくれるのならば警察には黙っていると約束しよう。
ダニエルはベッドに横たわり目を閉じた。
眠れない、と思っていたけど…眠りに落ちていく意識の中で、そう思いながらも彼は眠った。
「ママ、支度できた?」
午後四時になった。
まだまだ日は高い時間だった。
エイミーがドアをノックした。
「入っていいわよ」
という返事に勢いよく入ってきた。
「支度って言っても、ね」
レスリーは両手を広げて見せた。ジーンズに黒いTシャツ姿だった。
「お店、見つかるといいね」
娘は母親に上着を羽織らせて、ポンと軽く背中を押した。
契約 玉櫛さつき @satuk1-tor1suk1
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