第4話
ダニエルが帰ってこなかった火曜日の朝、レスリーは夫の名前が印刷された黒い封筒を持って警察に行った。
警察は、とりあえず指紋を照会すると言ったが、あまり真剣に取り合わなかった。
「奥さんが帰ったら、今ごろはご主人も家に戻っているかもしれませんよ」
交通事故も夫の車種とナンバーは該当しなかったという。
警察署を出たレスリーはダニエルの携帯に電話をかけた。
つながらなかった。
──なぜ?何処に行ったの?無事に早く帰ってきて!
結婚してから、こんなことは一度もなかった。
初めてダニエルに会ったのは、友人と一緒に行ったライヴハウスのステージで歌う姿を見た時だった。
その姿を見た時は、彼が自分の夫になるとは思ってもいなかった。
彼の安定した歌声はライヴハウスのオーディエンスを一人残らず魅了していた。
そのなめらかで美しい高音域の声は遠く離れた場所に居ても聞こえるような気がした。
二度目に会ったのは街のレストランの前でだった。
お勧めランチメニューが二種類あって、どちらにしようかと考えていた時に隣で声がした。
「本日の日替りランチメニュー…ボンゴレロッソとシーザーサラダのセットにパンとスープ付き…それかチキンのガーリックステーキのトマトソース掛けにサラダに同じくパンとスープ付き…迷うな…」
顔を向けると、ライヴハウスで歌っていた彼だった。
あの日、スポットライトに照らされて優雅に揺れていた、背中まである彼の柔らかいウェーブがかった淡いベージュ色の髪は太陽の光の下でも艶やかで美しいと思った。
メニューが書かれたボードを真剣に見つめていたが、やがて彼は彼女に顔を向けてニッコリ笑った。
「貴女は、どちらがいいと思いますか?」
澄んだ青い目が優しくレスリーを見つめている。
「あ、えっと、私も悩んでいて。ここはトマトを使った料理が美味しくて…何回か来たことあるけど」
──なんだか気さくな人ね。
そう思いながら、メニューと彼を交互に見て答えた。
彼は再びメニューを見つめていた。
「そうなんだ。僕は、この店に入ったことがなくて…うーん…決めた!チキンのガーリックステーキにしよう!貴女は決まりましたか?」
彼女も同じものにしようかと思っていたところだった。
「ええ」
「良かったら一緒に食事しませんか?」
──わ?ナンパ?でも、まさかの出会いだし、ミュージシャンと一緒に同じテーブルで食事するのも楽しいかもしれない。
レスリーは微笑み頷いた。
二人は一緒に店に入った。
彼は自分が歌っていることは自ら言わなかった。
最近、この街に引越してきたばかりで、昼時に美味しい食事が食べられる店を探していた、と話して注文したガーリックステーキの美味しさに感動していた。
以前、彼がステージで歌っていたのを見た彼女は、素晴らしい歌唱力でライヴハウスのオーディエンスを熱狂させた彼が目の前で、今、普通の若者として普通に食事する姿が微笑ましくて好感が持てた。
「差し支えなかったら、また会ってもらえますか?」
遠慮がちに言う彼に、また好感度が上がり、約束して、何回かデートした。
それでもダニエルは自分がバンドのシンガーだとは名乗らなかった。
大抵は一緒に食事するか、お茶を飲んで話す、というデートだった。
レスリーは、それが楽しかったし、彼がバンドのことを言わないのは音楽活動と切り離して自分と付き合いたいのかもしれない、と思っていた。
「最初に見かけた時に、素敵な女性だと思って…一緒に食事できたらと思い切って声をかけたんだ。思った以上に貴女は、素敵な女性で…」
初めて一緒に朝を迎えた日にダニエルは、はにかんで微笑み、彼女の唇にキスしながら言った。
レスリーは、彼が素晴らしい歌唱力で観客を魅了した人が、普通にメニュー選びで迷っていたのが微笑ましかった、と言った。
「え?じゃあ、僕が歌っていることを知っていたんだ」
ダニエルは恥ずかしそうに目を伏せた。
「そしたら、また聴きにきてくれる?その、何回か言おうと思っていたんだけど…招待するから」
結婚する前の夫との思い出が脳裏を過る。
結婚してからはバンドの活動は順調で海外にツアーで行くことも少なくなかった。
長い間、家を留守にしていてもダニエルは必ず、まめに電話をしてくれた。
娘を授かった時、とても喜び、レスリーを労り、娘も大切にしてくれた優しいダニエル。
涙が流れた。
──お願い。無事でいるなら、連絡して。
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