第1話
月曜日の朝、夫が帰ってこなかったと、妻が警察に駆け込んだ時、警察は、よくある家出だろうと見なした。
夫、ダニエルは人気があるバンドの優れたシンガーだった。
現在五十一歳。
娘を授かり、その娘も結婚した。
彼の高音から低音まで丁寧に歌いこなすエモーショナルな歌声は定評があった。
ダニエルが所属していたバンドの作詞作曲をメインに手掛けていたギタリストは商業的なウケ狙いを嫌って、あくまでも職人気質な綿密で重厚な音楽を作り上げ、ダニエルの歌声は曲に、とてもマッチしてコアなファンの耳を虜にした。
職人気質なのはヴォーカリストも、同じだった。
各々が素晴らしい演奏技術を持つバンドだった。それでも商業的なウケ狙いの壁を乗り越えなかった為、世界中に名声が響き渡ることはなかったが、そのバンドの音楽と彼の歌声はファンを長い年月、魅了し続けた。
しかし、ダニエルが三十歳半ばを過ぎた頃、往年の高音域が出なくなった。
それでも彼の歌唱力、表現力は安定していて昔、若い頃に高音で歌っていた部分はキーを下げて歌いこなしていた。
高音域が出なくなったが元々の低音域で情熱的かつ表現力豊かな声を活かした歌唱は昔の高音域を期待し続けるファンと一線を引いて一定の評価を得ていた。
その彼の妻、レスリーが、昨晩、夫が車で出かけたまま帰ってこなかった、携帯も通じないと警察に届け出た。
『ちょっと出かけてくる。帰りは遅くなるかもしれないけど、先に寝ていて』
日曜日の午後、ダニエルはレスリーに、そう言って車で出かけて行った。
レスリーは夜十一時を過ぎた頃、先に眠った。
朝になって、ダニエルは、そのまま帰ってこなかったのが判った。。
こんなことは初めてだった。
電話をかけてみたが通じなかった。
ダニエルの部屋に入ってみると、机の上に黒い封筒があった。
──…どうして、こんな黒い封筒が?一体、誰が?
黒い封筒の上に黒い文字で宛名が印刷してあるのが判った。
──なんだか悪趣味だわ!
封筒を窓際で太陽の光に当ててみると、夫の名前だけが印刷されている。
──と、いうことは、直接、うちのポストに入れた、または手渡された、ということ…?薄気味が悪い。
レスリーは迷ったけど、封筒を開けてみた。
封筒は既にダニエルが開封していた。
中身は空だった。
──手紙は入っていたのかしら?わざわざ、こんな黒い封筒に名前を印刷して中身は空で送ってきたり、する?
帰ってこなかったことを警察に届けたが、あまり真剣に取り合ってくれず、
『そのうち帰ってくるかもしれませんよ』
と、言われた。
『昨日の午後に車で出かけたんです。何か事故の知らせとか、ありませんか?』
食い下がるレスリーに警官は、夫の車の車種とナンバーを控えてくれた。
昨夜だけでも五件の交通事故があったという。
照会して一致すれば連絡するとレスリーの携帯番号も控えてくれた。
そして、家に戻ってから、ダニエルの部屋で黒い封筒を見つけたのだった。
──この黒い封筒に何が入っていたのかしら?…まさか、脅迫状?
妻は、勢いよく、かぶりを振った。
夫の歌の上手さは定評がある。
友人も多くて明るい人柄で…脅迫されるような理由は…。
…だけど…もしかしたら、脅迫状だったのかもしれない。
だとしても、何故?
今夜も帰ってこなかったら、明日、この黒い封筒を警察に届けよう。
私が素手でベタベタ触ってしまったけど…でも、この黒い封筒の送り主が直接、ポストに入れたのは間違いないだろう。
夫の名前だけが印刷されているのだから。
夫と私の指紋と…それ以外の指紋が取れたら…。
妻はキッチンからフリーザーバッグを持ってくると封筒を入れてジップを閉めた。
時計が夜中の十二時を告げ火曜日になった。
妻は起きて待っていたが夫は、帰ってこなかった。
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