『雪の音』

鈴木 優

第1話

       『雪の音』

               鈴木 優


 大晦日の午後、陽はすでに傾きかけていた。

 

 東京郊外の古びたアパートの一室で、隆はひとり、年越しそばの湯を沸かしていた。

 

 テレビもつけず、スマートフォンも伏せたまま。

 部屋の中には、湯の沸く音と、時折、窓の外をかすめる風の音だけがあった。


『今年も、誰にも会わなかったな』


 独り言が、湯気に紛れて消えていく。

 

 去年の大晦日も、たしか同じように過ごした。

 その前の年も、そのまた前の年も。

 

 年を重ねるごとに、誰かと過ごす時間は減っていった。


 気づけば、年末年始は『何もしない日』になっていた。


 ふと、玄関の方で音がした。

 郵便受けに何かが落ちたようだった。

 

 鍋の火を止め、スリッパを引きずって玄関へ向かう。

 ポストには、白い封筒が一通。差出人の名前はなかった。


 中には、短い手紙と、古びた写真が一枚。

 写真には、十年前の大晦日、雪の降る夜に撮った一枚が写っていた。

 

 笑っている自分と、隣に立つ女性。

 彼女の名は、

 緒方 薫

 大学時代、隆が唯一心を許した人だった。


 手紙には、こう書かれていた。



『あの夜のこと、覚えてる?

 雪が降って、駅まで歩いた帰り道。

 あなたが黙って手を握ってくれたこと、今でも忘れられない。

 今年、私は結婚します。

 でも、あなたにだけは伝えておきたかった。

 あの冬の夜が、私の人生でいちばん静かで、あたたかかったって。』


 

隆は、写真を持ったまま、しばらく動けなかった。

 

 あの夜の雪の音が、耳の奥で蘇る。

 何も言えなかった自分。

 何も伝えられなかった自分。

 それでも、彼女の中に、あの夜が残っていたことが、ただ嬉しかった。


 窓の外を見ると、粉雪が舞い始めていた。

 隆は、コートを羽織り、マフラーを巻いた。

 年越しそばは、そのまま冷めていく。

 でも、今夜は外に出ようと思った。

 あの夜と同じように、雪の音を聞きながら、歩いてみたくなった。


 もしかしたら、何かが変わるかもしれない。

 そんな気がしたから。

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『雪の音』 鈴木 優 @Katsumi1209

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