第8話
「先輩!!!」
声が、思った以上に大きく響いた。
パソコン室の壁にぶつかって、少し遅れて自分の耳に返ってくる。
「どういうことですか!!!部長……橘愛由美さん、亡くなっているって!!
……私を、騙してたんですか!?」
パソコン室の奥で、先輩はゆっくりと振り返った。
驚いた様子はなかった。
それどころか、ほんの一瞬…肩の力が抜けたような、安堵に近い表情が浮かんだ気がした。
「やぁ、君かい」
そう言って、先輩は机の上に、一冊の冊子を置いた。
表紙は簡素で、派手さはない。
「よく来たね。……部誌が完成したんだ」
指先で軽く押し出す。
「一冊、どうぞ?」
「いやいやいや!!」
私は反射的に、その冊子を突き返すように叫んだ。
「ですから!!私の質問に答えてくださいッ!!!」
言葉が、空気を切る。
そのまま、しばらく沈黙が落ちた。
先輩は椅子に腰を下ろし、何も言わずに部誌の角を指でなぞっている。
紙の端を撫でるその動きが、妙に丁寧だった。
「……青春ごっこさ」
ぽつりと、先輩が言った。その言葉は、以前に聞いたときよりも、ずっと重く響いた。
「私が、代わりに送っているだけだよ。
青春を知らない彼女の、代わりにな」
「……」
「病室で過ごす彼女のために、私が作品を発表したいだけさ」
「……嘘だっっ!!」
声が、わずかに震えた。
「それなら!!こんな部活動をする必要、ないじゃないですか!!!」
先輩は、私を見た。視線を逸らさない。
言い逃れもしない目だった。
「言っただろ?」
静かに、しかしはっきりと。
「……青春ごっこだと」
そして、ほんの少しだけ、口元を緩めた。
「代わりに、青春を送っているんだよ。
私が…橘愛由美だったら、どうするか」
言葉を選ぶように、一拍置く。
「それを実行しているに、過ぎない」
胸の奥が、ひやりと冷えた。
私は、部誌ではなく、先輩の顔を見た。
「部長から送られてきたメール……
違和感があるんです……あれは」
先輩は、あっさりと頷いた。
「あぁ。昨年、私宛に送られてきたものを、
君に転送しただけだからね」
まるで、昨日の天気の話でもするような口調だった。
「おかげで、季節感がズレてしまったが」
「……」
桜。六月。退院。最高の青春。
それらはすべて、彼女が生きていた時間の中にあった言葉だ。
「……それを」
私は、言葉を探しながら続ける。
「……私に、読ませていたんですね」
先輩は否定しなかった。
「……なぁ、後輩くん」
先輩は、部誌から目を離さないまま言った。
ページの上に落ちた視線が、どこか遠い場所を見ているように思えた。
「手紙って、天国に届くと思うかい?」
「はぁ……?」
思わず、素っ頓狂な声が出た。
この流れで、そんな質問が来るとは思っていなかった。
「届かないんじゃないですか?
切手を貼って、ポストに入れても……届かないでしょう」
言いながら、自分でも少し冷たい答えだと思った。
先輩は、くすりと笑った。笑い声は小さく、けれどどこか、安心したようでもあった。
「現実的だね、君は」
そう言ってから、ほんのわずかな沈黙を挟む。
言葉を、今度は慎重に選んでいるのが分かった。
「では、質問を変えよう」
部誌のページを、そっと押さえたまま。
「……天国は、どこにあると思う?」
「さぁ……」
私は少し考えてから、ありきたりな答えを口にする。
「雲の上、とかじゃないですか?」
そう言って、なんとなく天井を指さした。
蛍光灯の白い光が、やけに現実的だった。
先輩は、それを見て目を細める。
馬鹿にした笑いではない。
むしろ、少し懐かしむような表情だった。
「ふふふ……ならば、こう考えるのはどうだろう」
声が、ほんの少しだけ柔らぐ。
「羽のように軽いものならば……天国に、届くと」
「……どういうことですか?」
私は、正直に聞いた。
先輩は、しばらく黙り、視線を紙の束に落とす。
指先が、無意識に紙の端をなぞっている。
「人というのは、面白いものでね……」
ゆっくりと、言葉を置くように話し始めた。
「書けば書くほど、忘れていくのさ……いや、違うな」
自分でそう言って、小さく首を振る。
「言葉にして、吐き出すたびに……
彼女の生きた輪郭が、自分の中に染み込んでいくようだった」
机の上の紙の束に、そっと手を置く。
まるで、確かめるように。
「彼女に向けて書いているのか、それとも、自分に向けて書いているのか……
分からなくなるくらいにはね」
「……」
私は、何も言えなかった。
「彼女の死は、非常に…悲しい出来事だった」
先輩の声は、淡々としている。
感情を押し殺しているわけではない。
もう、暴れなくなった感情の声だった。
「最初は、消化するために書き出した手紙だったんだ」
「……」
「だが、それが溜まっていくたびに……
不思議と、心が軽くなっていってね」
先輩は、紙の束を軽く持ち上げる。
持ち上げたはずなのに、その重さは、ほとんど感じられないようだった。
「……だから、天国に届くかなぁ、とね。
この軽さなら」
「……」
「ラブレターは、一通じゃ足りない」
少し照れたように、先輩は笑った。
「天国に届けるには……
この紙の束を重ねて、束ねて、封をする」
指先で、冊子の背を軽く叩く。
「……一冊の、ラブレターってところかな?」
私は、何も言えずに部誌を開いた。
ページをめくる。
文字が、そこにある。
確かに、そこにある。
静かで、過剰な感情はなくて、
それでも執拗に「存在」を主張する文章。
「……ラブレター、ですね」
気づいたら、小さくそう呟いていた。
先輩は、少し驚いたような顔をしてから、ゆっくりと頷いた。
「橘 愛由美はね…もう、ペンすら持てなかった」
「……」
「だから、私が代わりに書いたんだよ」
静かに、淡々と続ける。
「彼女が書いたのか。私が書いたのか
……そんなこと、どっちでもいい」
「……」
「好きな人を思って書いたら、それはもう、ラブレターになってしまう」
先輩は、困ったように肩をすくめた。
「あぁ、困った、困った」
私は、部誌を閉じた。紙の擦れる音が、やけに大きく響いた。
そして、はっきりと言った。
「……一冊のラブレターなら」
先輩が、こちらを見る。
「天国に、きっと届きますよ」
その言葉を聞いて、先輩は何も言わなかった。
ただ長い間、重たいものを抱えていた人が、それを下ろした直後のような…そんな、軽い顔をしていた。
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