第11小節 異端児
玄関の扉が、少し乱暴に開いた。
鍵が回る音より先に、空気が変わる。
「……おかえり」
リビングにいた拆音が、反射的にそう言った。
返事はない。
靴を脱ぐ音が二つ、続けて響く。
いつもなら何か一言飛んでくるはずの共史も、今回は口を閉じたままだった。
イヴォナは視線を上げない。
白音は、珍しく眉間にしわを寄せたまま、無言で歩いている。
その様子に、拆音と共史は同時に気づいた。
——荒れている。
イヴォナは想定内だった。
けれど。
「……白音?」
共史が名前を呼ぶと、白音は一瞬だけ足を止めた。
「なに」
声が硬い。
いつもの、力の抜けた調子じゃない。
「……いや。なんでも」
それ以上、声をかける前に、二人は女子部屋の方へ行ってしまった。
扉が閉まる音が、やけに重く響く。
リビングに残されたのは、男二人。
「……」
「……」
しばらく、どちらも何も言わなかった。
共史が先に、ふう、と息を吐く。
「とりあえずさ」
台所に向かいながら言う。
「飯、作るか」
「……うん」
拆音も立ち上がり、エプロンを手に取る。
冷蔵庫を開けると、野菜と卵と、昨日買ったベーコン。
特別なものはない。
フライパンを火にかけ、包丁がまな板を叩き始める。
その規則正しい音の中で、共史がぽつりと言った。
「……白音がさ」
ベーコンを切りながら。
「今日、ピアノ弾かなかったんだって」
拆音の手が、少し止まる。
「え」
「『弾きません』って言ったらしい」
「……」
驚きが、遅れて胸に落ちてくる。
一緒に暮らしていて麻痺していたが、白音はピアノを弾かない異端児だった、と思い出す。
「イヴォナは?」
「そっちは……まあ、想像通り」
共史は苦笑した。
「楽器、持ってなかったって」
フライパンに油をひく音が、しゅっと響く。
「そっか……」
「詳しいことは話してないけどさ。
でも、あれは……」
共史は一瞬、言葉を探すように間を置く。
「まあ、何にもなしに”持ってません”って訳じゃないよな」
卵を割る音が、ぱちん、と鳴った。
黄身がフライパンに落ちる。
じゅっと立つ音が、今はやけに大きい。
「……じゃあ白音も?」
拆音が聞く。
「白音も、たぶん」
共史は頷いた。
「弾きたいのに、弾かない。これまた何かあるんじゃねぇのかな。」
キッチンに、少し重たい沈黙が落ちる。
「……初日から、濃すぎだろ」
共史が、冗談めかして言った。
でも、笑っていなかった。
「……だね」
拆音も、うまく笑えなかった。
皿を並べ、料理を盛りつける。
その間、二人とも女子部屋の方を何度も気にしていた。
しばらくして。
扉が、静かに開く。
イヴォナと白音が、何事もなかったような顔で出てきた。
「……できた?」
白音が聞く。
「うん」
拆音が答える。
四人で食卓を囲む。
ぎこちないけれど、逃げない距離。
誰も、今日のことを詳しくは聞かなかった。
聞けなかった、のかもしれない。
ただ、同じ釜のものを食べる。
同じ屋根の下で。
音のない一日が、
静かに、夜へと沈んでいった。
Musica*Classica 弘瀬海 @KaiHirose
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