第13小節 最初の夜

日が沈むと、森は一気に静かになった。


昼間はあれほどざわついていた枝葉も、今は風に身を任せて身じろぎするだけだ。    

古い家の壁に、木の影がゆっくりと伸びていく。


パッション寮の中は、最低限の明かりだけが点いていた。

天井の照明は一つおきに切れていて、台所と廊下の境目には影が溜まっている。


掃除は、いつの間にか終わっていた。


誰が「終わり」と言ったわけでもない。

ただ、雑巾が桶に戻され、バケツの水が流され、床に腰を下ろす音がしただけだ。


「……腹減ったな」


共史が、床に座ったまま天井を見上げて言った。


「さっきからそれしか言ってない」


白音は、鍋の中を覗き込みながら応じる。

コンロの上では、火にかけられた鍋が小さく鳴っていた。


刻んだ野菜と、あり合わせの肉。

調味料は適当で、分量なんて誰も気にしていない。


それでも、湯気の匂いは確かに“ご飯”だった。


坼音は、台所の隅に立ってその様子を眺めていた。


昼から続く疲労と、どこかに置いてきたままの感覚。

身体はここにあるのに、気持ちの端が、まだ森の奥に引っかかっている。


——あの静けさ。


思い出そうとすると、すぐに現実の音が割り込んでくる。


鍋が煮える音。

スプーンが器に当たる音。

共史が棚を開け閉めする、がさつな動き。


「ほら、突っ立ってないで皿出して」


「あ、うん」


言われて初めて、坼音は手を動かした。

棚から取り出した皿は、縁が少し欠けている。


——ここで暮らすんだ。


その実感が、じわりと腹の底に落ちてきた。


その時だった。


床を擦る、静かな音。


視線を向けると、イヴォナがそこにいた。


さっきまで姿を見せなかった彼女が、何事もなかったように雑巾を手にしている。

視線は低く、誰とも目を合わせない。


けれど、その動きは迷いがなく、床を拭く手つきは丁寧だった。


共史が、ちらりと彼女を見て、何も言わずに作業を続ける。

白音も同じだった。


歓迎も、謝罪も、説明もない。


ただ、同じ空間で、同じ時間を使っている。


それだけだった。


「できたよ」


白音の声で、空気が少しだけ緩む。


鍋の中身を皿に分け、簡素な食卓が出来上がる。

机と言うには心もとない木の台を囲み、四人が腰を下ろした。


イヴォナは、少し遅れて席につく。

端のほう。逃げ道のある位置。


誰も、それを指摘しない。


スプーンが動き、咀嚼の音が混じる。

味は、正直言って微妙だった。


「……薄い」


「塩どこだっけ」


「そこ」


そんなやりとりが、ぽつぽつと続く。


坼音は、向かいに座るイヴォナを盗み見る。


表情は硬い。

けれど、食べる手は止まっていない。


——帰ってきた。


そう思った瞬間、胸の奥が少しだけ温かくなった。



食器を洗い終え、明かりを落とすと、寮は一気に夜の顔になる。


床板が、きし、と鳴る。

廊下の先で、誰かの扉が閉まる音。


それぞれが、それぞれの部屋に引き上げていった。


坼音も、自分の部屋に戻り、ベッドに腰を下ろす。

マットレスは柔らかいとは言えず、身体を預けると少しだけ沈んだ。


「……寮食を、寮生が作るって」


思わず、声が漏れた。


「前代未聞じゃないか……」


名門・阿保路音学園。

設備も制度も、無駄に整っているはずの場所で、なぜか自炊。


しかも初日から掃除付き。


思い返すと、少しだけ笑えてくる。

笑える余裕が、ほんのわずかに戻ってきた気がした。


天井を見上げる。


木の染み。

ひび割れ。

知らない部屋。


——でも、もう“知らない場所”ではない。


昼間、森で迷ったこと。

音を辿ったこと。

気づけば意識を失っていたこと。


どれも、夢だと切り捨てるには、妙に生々しい。


胸の奥に残る、説明できない感覚。

音が、まだそこにある気がする。


坼音は、ゆっくりと目を閉じた。


——音楽。


正直、ずっと逃げてきた。

才能があるとか、ないとか。

比べられるとか、比べられないとか。


そういう全部が、面倒だった。


けれど。


今日一日を思い返すと、不思議と、逃げたい気持ちよりも先に、別の感情が浮かんでくる。


イヴォナの、何も言わずに床を拭く背中。

共史の、何気ない一言。

白音の、淡々とした手際。


——この場所で。


——この寮で。


少なくとも、もう一度だけ。


「……ちゃんと、やってみるか」


誰に聞かせるでもなく、坼音は呟いた。


音楽と向き合うこと。

逃げないこと。


大それた決意ではない。

明日を迎えるための、小さな区切り。


森の向こうで、枝が揺れる音がした。


それを子守歌代わりに、坼音はゆっくりと眠りに落ちていった。


パッション寮の最初の夜は、こうして終わる。


まだ何も始まっていない。

けれど、確かに、何かが動き出していた。 

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