第12小節 帰ってきたよ
森の出口は、拍子抜けするほど唐突だった。
鬱蒼とした枝葉が途切れ、視界が一気に開ける。
湿った土と苔の匂いが、乾いた風に押し流されていく。
符楽森坼音は、足を止めた。
——静かだ。
耳が、妙に落ち着かない。
さっきまで、確かに“音”があった気がするのに。
胸の奥で、低く、遠く、うねるような響き。
言葉にできない旋律の残響が、まだ消えきらずに残っている。
石畳。
高い天井。
光に満ちた広場。
人の形をした“音”。
——ハルモニア。
その世界を思い出した瞬間、現実の風が頬を撫でた。
木々のざわめき。
鳥の声。
ここは、阿保路音学園の森だ。
夢だった、と片づけるには、感触が生々しすぎる。
けれど、確かめる術もない。
「……」
坼音は、胸元を無意識に押さえた。
そこに何かが“残っている”気がして。
しかしそれと同時に、安堵もする。
——帰れる。
森の外に出たというだけで、胸の内側に溜まっていた緊張が少しだけほどけた。
あとは、寮に戻って、共史に笑われて、白音にからかわれて……。
そんな想像が、かすかに現実味を帯びた瞬間。
「……っ」
正面から、誰かが走ってきた。
草を踏む音が乱れる。
息が切れているのが分かるほど荒い呼吸。
風に煽られた金髪が揺れ、汗で額に張り付く。
イヴォナだった。
青い瞳が、一直線に坼音を射抜く。
睨んでいるようで、焦っているようで、どこか震えてもいる。
彼女は、坼音の目の前で止まった。
胸が上下し、喉の奥から何か言葉が出かけた気配がある。
——言え。
そう言ってやりたくなる。
でも、坼音は何も言えない。驚きと、まだ森の余韻が身体に残っていた。
「……イヴォナさん」
ようやく出た声は、情けないほど弱かった。
イヴォナは一瞬だけ、視線を坼音の顔の中央に留めた。
ほんの一拍、何かを確かめるように。
そして――
ふっと、表情が落ちた。
さっきまでの涙目が、嘘みたいに消える。
頬の強張りが戻り、口元がきゅっと結ばれる。
「……」
何も言わないまま、踵を返す。
「え、ちょ……!」
坼音が半歩前に出るより先に、イヴォナは歩き出していた。
歩くというより、速い。森から逃げるように、言葉から逃げるように。
背中だけが遠ざかる。
金髪のポニーテールが、風に揺れて、すぐに見えなくなる。
坼音はその場に立ち尽くし、喉の奥に残った言葉を飲み込んだ。
——探してくれてた?
そんな都合のいい想像をするのが恥ずかしくて、
でも、彼女がここにいた理由はそれ以外に思いつかなくて、
頭の中が、もやもやと熱を帯びた。
坼音は結局、イヴォナの後を追って歩き出した。
*
パッション寮は、夕暮れの森の縁にへばりつくように建っている。
蔦の絡まった外壁。
曇った窓。
錆びた柵。
昼に見たときより、夕方の光のせいで余計に“住みたくなさ”が増していた。
玄関に近づくと、扉の向こうから小さな音が聞こえてくる。
布が床を擦る音。
何かを動かす鈍い音。
そして、やけに楽しそうな声。
坼音が扉を押し開けると、埃の匂いがむわっと押し寄せた。
けれど、その中に、少しだけ水と洗剤の匂いが混じっている。
雑巾だ。掃除している。
「お、やっと帰ってきた」
青中共史が、袖をまくった腕で雑巾を絞りながら振り返った。
額に汗。頬にうっすら埃。なぜか妙に様になっている。
「帰ってきたっていうか……ここ、もう掃除始まってんの?」
「始まってんの、じゃない。始めたの」
共史の隣で、鍵宮白音が窓枠を拭いていた。
白い髪。白い肌。白い服。
それなのに動きはやけに軽快で、雑巾を持つ手つきが妙に慣れている。
「こういう家って、埃が“語りかけてくる”からね〜」
「語りかけてこなくていいんだよ」
共史は即座に突っ込む。
その時、廊下の向こうで靴音がした。
イヴォナだった。
坼音より少しだけ先に戻っていたらしい。
玄関の端に立ち、掃除中の二人をじっと見ている。
視線は鋭い。
でも、その奥に、微妙な躊躇いが混じっていた。
共史が、悪戯っぽく口角を上げる。
「お、悪魔も帰宅〜」
白音がすかさず続けた。
「さっき森で息切らしてたの、見えたよ〜?」
「……っ」
イヴォナの眉がぴくりと動く。
一瞬、言い返しそうになって、言葉が詰まる。
「……別に」
絞り出すように言って、視線を逸らす。
共史が肩をすくめた。
「……ごめん」
そして、唐突に謝った。
イヴォナが顔を上げる。
謝罪が来ると思っていなかったような目。
「さっきは、悪かった」
共史は雑巾を持ったまま言う。
「掃除、手伝ってよ。」
白音がにこにこしながら頷く。
「うんうん。人手は大事〜」
イヴォナは、何も返さない。
返さないまま、くるりと背を向けた。
床を鳴らす足音が、階段方向へ向かう。
女子部屋へ行ったのだろう。扉が閉まる音が、少しだけ強い。
残った空気が、ふっと軽くなる。
共史が、小さく息を吐いた。
「……ま、そうなるよな」
白音は楽しそうに窓枠を磨き続けている。
「今の、ちょっとだけ可愛かったね〜」
「お前、絶対いま余計なこと考えてるだろ」
「えへへ」
坼音は靴を脱ぎながら、二人を見た。
——この寮、もうすでに落ち着かない。
「で」
共史が、ようやく坼音に視線を向ける。
「逃げんなよ?」
「……え?」
雑巾が、ぽん、と坼音の胸に押しつけられた。
「掃除。お前も住人」
「ちょ、待って、僕、今さっき――」
「森で迷ってた話は後。まず床」
共史の口調は軽いが、有無を言わせない。
白音が肩を叩く。
「連帯責任だね〜」
坼音は、何か言い返そうとして、やめた。
言い返す気力がない。
雑巾を握る手が、まだ微妙に震えているのを誤魔化すように、床にしゃがみこむ。
水を含んだ布が、古い板を滑る。
湿った匂いと、埃が混ざる。
どこか、懐かしいような、嫌なような。
共史は床を拭きながら、ふと独り言みたいに言った。
「……イヴォナ、いいやつなんだな」
坼音は動きを止めた。
森の出口にいた彼女の顔が、どうしても頭から離れない。
胸の奥に、形にならない温度が残っている。
「……そうかもね」
坼音は、曖昧に返事をした。
いつの間にか、共史の向こう側で、床を拭く音がひとつ増えていた。
リズムが、少しだけ違う。
力の入れ方も、歩幅も。
けれど、その音は確かに、同じ床をなぞっていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます