第6小節 歓喜は、森の奥で鳴っていた

 イヴォナの背中が森に溶けるのを見届けてから、坼音はしばらくその場を動けなかった。


 追いかけなかったことを後悔しているのか、

 追いかけなかった自分に安堵しているのか、

 そのどちらでもないような、奇妙な感覚だった。


「……戻ろ」


 そう呟いて歩き出したものの、すぐに気づく。


 来た道が、分からない。


 木々はどれも同じ形をしていて、

 さっき踏んだはずの小石も、目印にした枝も、どこにもない。


「……あれ?」


 一歩、進む。


 二歩、進む。


 足元の土は湿っていて、靴の裏にぬめりつく。

 森の奥に行くほど、空気が冷たくなっていく気がした。


「……やばいかも」


 声に出してみると、やけに遠くで反響した。


 携帯は、寮に置いたままだ。

 時間も、分からない。


 風が、葉を揺らす。


 ざわり、と。


 その音に混じって——

 かすかな旋律が、聞こえた。


「……え?」


 耳を澄ます。


 最初は気のせいかと思った。

 でも、確かにそこには音がある。


 重く、深く、

 それでいて、胸の奥を震わせる音。


「……第九?」


 無意識に、そう呟いていた。


 阿保路音学園に入る前から、何度も耳にしてきた旋律。

 父が好きだった曲。

 どこか遠く、手の届かない場所にあるはずの音楽。


 なのに。


 今は、確かにここで鳴っている。


 坼音は、音のする方へ歩き出した。


 道なき道を進むたび、旋律は少しずつ大きくなる。

 不思議と恐怖はなかった。


 むしろ、胸がざわつく。


 ——知っている。

 ——でも、知らない。


 そんな感覚。


 やがて、木々の合間に、

 古い石造りの建物が姿を現した。


「……教会?」


 森の中には不釣り合いなほど、静かで、厳かな建物。


 色あせた尖塔。

 苔むした壁。

 重そうな木の扉。


 そして、扉の向こうから——

 第九が、はっきりと聞こえてくる。


 坼音は、しばらく立ち尽くしていた。


 入っていいのか、分からない。

 戻ったほうがいい気もする。


 でも。


(……ここまで来て、引き返すのもなぁ)


 へぼへぼな決断だった。


 意を決して、扉に手をかける。


 ぎぃ、と低い音を立てて、扉が開いた。


 中は、薄暗かった。


 ステンドグラス越しの光が、床に淡く色を落としている。

 奥には、巨大なパイプオルガン。


 ——奏者はいない。


 なのに、音楽は鳴り続けている。


「……夢?」


 そう呟いた瞬間、

 膝から力が抜けた。


 視界が、ゆっくりと傾く。


 床に倒れる寸前、

 最後に聞こえたのは——


 歓喜の旋律。


 そして。


 誰かが、こちらを見下ろしている気配。


 ——そこで、坼音の意識は途切れた。

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