第5小節 森の中

森の中は、思った以上に暗かった。


 イヴォナが飛び出していってから、そう時間は経っていないはずなのに、足元の土は湿っていて、木々はやけに密集している。


「……ま、迷ったかも」


 坼音は、立ち止まって周囲を見回した。


 同じような木。

 同じような影。

 同じような静けさ。


「いや、でも……さっき、こっちだった気が……」


 自信は、まるでない。


 それでも、進む。


 共史と白音に「また逃げられたらヤバいかもな」と言われたのが、妙に頭に残っていた。


(……逃げられた、よな)


 正直、あの場でどうするのが正解だったのか、今も分からない。


 いじったのは、確かに共史と白音だ。

 でも、イヴォナが傷ついたのも、確かだ。


「……あ」


 木々の向こうに、金色が見えた。


 ポニーテール。

 背中。


「イ、イヴォナさん……!」


 呼びかけた瞬間、声が裏返った。


 最悪だ。


 イヴォナは立ち止まり、ゆっくりと振り返る。


 その目は、冷たい。


「……来るな」


「え、あ、うん、でも……」


 坼音は一歩踏み出し、すぐに止まる。


 距離の測り方が分からない。


「その……さっきのこと、あれ、えっと……」


 言葉が出てこない。


 イヴォナは腕を組み、睨みつける。


「何。説教?」


「ち、違う!」


 即答だった。


「そ、そんな上手いこと言えないし……」


 自分でも何を言っているのか分からない。


 イヴォナは、わずかに眉をひそめた。


「……じゃあ何しに来た」


 正論だった。


 坼音は、口を開いて、閉じて、また開いた。


「……逃げたまま、嫌だったから」


 それだけ。


 言い切りでもなく、主張でもない。


 ただの本音。


「……は?」


 イヴォナの声が低くなる。


「意味わかんない」


「うん……ごめん」


「謝ればいいと思ってる?」


「思ってない」


 首を振る。


 勢いもない。


「ただ……戻らなくてもいいけど、一人で消えるのは……その……」


 言葉に詰まる。


 イヴォナは一歩、近づいた。


「何? 可哀想だと思った?」


「ちが……」


 否定しようとして、止まる。


 嘘になる気がした。


「……たぶん、少しは」


 正直すぎた。


 イヴォナは、短く笑った。


 冷たい笑い。


「やっぱり」


 背を向ける。


「そういうの、一番嫌い」


「……うん」


 否定しない。


 追いすがらない。


 坼音は、その場に立ち尽くした。


「……じゃあ」


 イヴォナが歩き出す。


「もう来ないで」


「……分かった」


 すぐに返事が出た。


 イヴォナの足が、ほんの一瞬、止まる。


 振り返らないまま、低く言った。


「……簡単に引くんだな」


「……たぶん」


 坼音は、困ったように笑った。


「引かないでほしいなら、引かないけど……今は、嫌そうだったから」


 沈黙。


 風が、木々を揺らす。


「……変なやつ」


 それだけ言い残して、イヴォナは森の奥へ消えた。


 坼音は、その背中を見送ったあと、へたりと腰を落とした。


「……はぁ」


 大きく息を吐く。


「全然、うまくいかないな……」


 でも。


 胸の奥に、不思議な感触が残っていた。


 怒鳴られた。

 拒絶された。

 何も解決していない。


 それでも。


(……嫌われた、だけじゃない気がする)


 理由は分からない。


 分からないけど。


 それでいい気がした。

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