卵焼きの味
ろくろわ
父の卵焼き
父は昔ながらの人で、幼少期の頃は母も私も苦労したものだった。そんな父と母に育てられた私は、ごく普通に学校に行くことが出来、卒業後は地元の小さな会社に就職し、結婚してかわいい男の子を授かった。
父と母は、ようやく私の子育てを終え、今から私の父と母の役割から孫のお爺ちゃんとお婆ちゃんの役割に変わり、好きなことをなんでも出来るはずだったのに。父が脳の病気で倒れたのは私が子供を生んで一年が過ぎた時だった。幸い、父が倒れてから発見が早かったので命は助かったが、身体の自由が奪われた。
右腕はずっと力が入り、くの字型に固まり拳は強く握りしめられていた。まっすぐ立つことが出来ず、歩く時には右足が突っ張っていた。
物忘れというか、注意力も散漫になりやすく、水を出しっぱなしにしたり、冷蔵庫を開けっぱなしにしたり、火をつけっぱなしにしたりすることが増えた。
そんな父の介護を母一人に任せるわけにもいかず、私は仕事を辞め、自分の子育てと父の介護をするようになった。
その頃からだった。父が唐突に卵焼きを作ると言い出したのは。ただ、身体の自由が聞かないことと、注意力の無い父が料理を作ると言うのは本人だけでなく、周りも大変なものだった。片手じゃ上手く殻を割れず、卵を溶きほぐす時に何度も食器を落とし、火加減のとれないフライパンはいつも焦げてしまった。さらに、そんな父に手伝いを申し出ると、決まって「俺がやる」と怒りだし、手がつけられなくなった。だから私はいつしか、散らかった台所を片付けることだけをするようになった。
あれは、息子が夜中から高熱を出し、朝から駆け回っていた時だった。そんな時に限って急に父が「卵焼きを作るのを見てほしい」と言ってきた。普段、見られることも嫌がっていた父が、そんなことを言うなんて、忙しい時に珍しいこともあるもんだと複雑な気持ちだったのを覚えている。
父は唯一動かせる左手で冷蔵庫から卵を取り出し、片手でボールに卵を割った。ボールを腹で支え、沢山の殻が入りぐちゃぐちゃになった黄身を一生懸命に溶いていた。調味料のコントロールは上手く出来ない。フライパンを火にかけているが、既に白い煙が出ている。流し込んだ溶き卵はジュッという音ともに固まり、すぐに不揃いな形となった。もちろん、上手く巻くことなど出来ない。そうして、ようやく卵焼きを作り上げ、私の前に出し「食べていいよ」といった父の卵焼きは、殻がザクザクと口の中に刺さり、塩辛くお世辞にも美味しいとは言えなかった。
私は熱を出す息子のことや、そんな状況を気にせず卵焼きを作り酷く汚くなったキッチン。満足げに、にっこりと笑う父。そんな全ての様子に余裕がなく、ドロッとした感情がまとわりついていた。そしてその感情は父の「どうだ?うまいか」の一言で溢れ出した。
「子供が熱を出して大変な時に、キッチンを汚して美味しくないものを作ってなにしてんの?」
今まで溜めていたものが言葉に出てしまうと、後は止まらない。私は思いのままを父にぶつけた。父はただ黙って寂しそうに「そうか」とだけ呟いていた。
それから父は卵焼きを作らなくなった。そしてそのまま数ヵ月後に風邪を拗らせ、あっさり死んでしまった。
父の卵焼きが最期の夢だと知ったのは、父の遺品整理をしていた時だ。中身の無い薄い財布から幼い頃、父の晩酌の卵焼きを食べる私の写真が出てきた。
子供にとって、寝るために布団に入った後に、こっそりと晩酌する父のお酒のおつまみは魅力的だった。とりわけ、何の変哲もない父の作る卵焼きが何より美味しかった。
そうだ。私はあの卵焼きが好きだった。
父は介助をしないといけなくなった私。子育てに大変な私。酷く疲れていく私に少しでも元気になってほしいと、好物だった卵焼きを作ってくれていたのだ。それなのに私は。
何故だろう。
あんなに好きだった卵焼きを思い出せない。思い出せるのは口に残る濃い塩の味とジャリついた殻の食感。そしてその殻がノドを通り、チクリと胸に刺さる痛みだけだった。
了
卵焼きの味 ろくろわ @sakiyomiroku
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