仕事納め

 結局、近所のコンビニで惣菜パンを買って、そのまま会社に戻った。まだ昼休みは終わっていなかったが、エクセルのデータをチェックしながらほおばる。

 なんだか数値がおかしいな。……ああ、やっぱり。セルの数式が壊れている。

「何、弁当やめたの?」

 給湯室から戻ってきた同僚が、デスクにカップ麺を置いて話しかけてきた。たぶん、数式を壊したのはこいつだなと思ったが、黙って打ち直した。

「あっ、いや……」

「ははーん。さては、カノジョと別れたか?」

「そんな……居たことないっすよ、恋人なんて」

「ごめんごめん。クリスマスも、残業させちゃったもんなあ」

「はは……いいですよ。定時で上がっても行くとこないですし。残業代もらえる分、会社に居たほうがマシっていうか」

 クリスマスの残業は、この同僚のデートのために引き受けたものだった。クリスマスにプロポーズして、年末の帰省で両親に紹介する計画だと言っていたが、うまくいったのだろう。

「年末は? 実家帰るの?」

「いや……。新幹線代、もったいないですし。帰っても、グチグチ言われるだけなんで」

「あ~、分かる分かる。イトコの誰それは結婚したのに、お前はいつまで独り身なんだ~ってやつね」

「まあ……そっすね」

 さすが、言われない側に回った余裕がにじみ出ている。相槌を打つのも面倒になって適当に返事をすると、彼はスマホをいじり始めた。やがて三分のアラームが鳴り、カップ麺のフタが開く。ずずっと麺をすする音を横に聞きながら、データチェックを続けた。

 このまま彼女と結婚して家庭を持ったら、いつものカップ麺が愛妻弁当に変わったりするのだろうか。保温ボトルの麦茶を喉に流し込みながら、何となく、そんなことを考えた。



「……」

 なんとか定時で仕事を納めた後、俺はふたたび、あの路地の前に居た。

 普段なら歩道にあふれかえっているスーツ姿の人影は、今日はまばらだった。みんな、今ごろイルミネーションを見に行っているのだろう。……いや、その時期はもう終わったな。じゃあ、新幹線に乗って、実家に帰る途中か。

 この通りは、ここ数か月間、毎日のように訪れていた。会社で自炊弁当をチンして、近所の公園で食べる。それが近頃のルーティンで、ここは公園へ向かう通り道だったのだ。とはいえ、通りのビルの隙間のさらにその奥など、一度も気にしたことはなかった。

 あの昼間の出来事は、夢だったのだろうか? もちろん、普通に考えれば夢に決まってる。でも……。ちらと見た保冷バッグの中に、今朝入れたはずのタッパーがない。それは事実だった。

「きっと、待ってるって……言ってた、んだよな」

 ここで待っているから、また来てくれ。あの少年の地面を指さすジェスチャーをそう解釈するのは、自意識過剰なのだろうか。

 ともかくだ。人通りが少ないとはいえ、こんなところでずっと立ち止まっていては、変な目で見られるかもしれない。一応周囲をうかがい、誰も俺のことなど気に留めていないのを確認した後、ビルの隙間に入っていく。

 細い路地を進み、右に曲がると、果たして――あの穴は、まだ平然とそこにあった。

「あるんだ」

 と思わず口に出た。やっぱり無かった、夢だった、自意識過剰だった、ははは……とかつぶやきながら、スーパーで適当に買い物をして帰るつもりだったのに。普通にあるのかよ。

「……」

 いや、しかし、あったとしてもだ。こんな怪しげな穴に入ろうだなんて、どうかしてる。

 穴を遠巻きに眺めて、向こう側を観察した。この、ヨーロッパ風の路地裏は、いったいどこにあるのだろう? 東京じゃないのは確かだ。地球上かどうかも分からない。いわゆる、異世界ってやつかもしれない。

 そりゃ、異世界だなんて非科学的だとは思う。でも、じゃあ目の前の現象を科学で説明できるかと言われれば、少なくとも俺はお手上げだ。

 もし、安易に向こう側に入り、帰る前に穴がなくなったりしたら、どうするんだ? 一大事じゃないか。

 ……いや、そうだろうか? と思い直した。まあ、俺自身は大変だろうけど。きっと俺が居なくたって、会社も、街も、地球も、何事もなかったかのように回っていくだろう。

 でも、もしかしたら。あの少年はあの場所で、俺を待っているかもしれない。東京よりずっと寒いあの街の、風が吹きすさぶ路地で、カラのタッパーを抱えて、冷たい石畳に座っているかもしれないのだ。

 じっと穴を見つめた。これがアニメなら、異世界に通じる門……みたいなものは、向こう側が揺らいで見えたり、形が不安定だったりするのがお決まりだろう。入った主人公たちは退路を断たれ、異世界を冒険し、世界を救ったりすることになる。

 もしこの穴がそういう類のものだとしたら、俺は安易に踏み込んだが最後、二度と帰ってこられない可能性もあった。

 でもこの穴は、百年前からここにあって、百年後もここにあります、とでも言わんばかりの存在感で、そこにあった。うまく言い表せないが、たとえるなら、山の頂上に鎮座する、ご神体の巨大岩みたいな。とても、今日明日のうちに無くなってしまうようには思えない。

 だいたいだ、俺が異世界に行ったとして、アニメみたいな大活躍なんかできるわけもない。俺は、生粋のモブ人間だ。村人Aのセリフさえ貰えない人生で、いまさら、物語の主人公になんかなれるわけがない。

「……まあ、居ないかもしれないしな」

 自分に言い聞かせるようにつぶやいた。とりあえず、昼間にあの少年が居た場所まで行ってみよう。もし誰も居なければ、予定通り、スーパーに寄って買い物をして、アパートに帰ればいいだけだ。

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