異世界弁当タッパー亭

アオイ

異世界への門

「……なんだ、これ?」

 年末、仕事納めの日の昼休み、会社近くの薄汚い路地裏に、俺はひとり立ち尽くしていた。

 ビル同士の狭間を少し入って、右に曲がったところに、はあった。

 書き割りをカッターで縦に裂いて、無理やり広げたような、楕円形の穴だった。大きさは、身をかがめればどうにか通れそうなほど。ぱっと見は、姿見が置かれているようにも見える。

 だが、その向こう側に見えるのは、冴えないアラサー会社員男性のくたびれたスーツ姿でも、薄汚れたビルの路地裏でもなかった。どう見ても日本とは思えない、ヨーロッパ風の建物の、しかしやっぱり薄汚い路地裏があった。

「……すっ、ぐすっ……」

 穴の向こう側から、途切れ途切れに、すすり泣くような声が聞こえる。

 どう考えても異様な光景だった。マトモな判断力があれば、さっさと立ち去っていたはずだ。だけど、たぶん、年末進行で疲れきっていたんだろう。気づけば泣き声を追って、自然と一歩足を踏み出していた。

 正直、いくら子どもの泣き声がするからって、この得体のしれない穴に入ってみようと思った自分は、お人よしを通り越してバカだったと思う。

 ――でも、結局は。そのバカさが、俺の人生を変えたのだ。



「ぐすっ、ぐすっ……」

 向こう側に一歩踏み出した瞬間、空気が変わったのが分かった。明らかに、東京の冬の寒さじゃない。雪は降っていなかったが、おもわず足先で地面が凍っていないか確かめた。凍っていなかったので、そのまま歩き出した。

 風に乗り流れてくる声を追って、狭い路地を進んでいった。何度か角を曲がると、子どもがひとりでうずくまっている。

 歳は、たぶん小学校高学年くらい。今では日本でもそう珍しくない、褐色肌の男の子だった。迷子になって泣いているのだろうか? あるいは、ほかの子どもにいじめられて、この路地に逃げ込んできたのかもしれない。近くに人影は見あたらなかった。

「どうしたの? 大丈夫?」

 話しかけると、少年は初めてこちらに気づいたらしく、ギョッとして顔を上げた。区の安全情報メールに『小学生に声掛けをする不審人物にご注意ください。身長170センチメートル前後、やせ形、30~40代男性』と掲載される未来が脳裏をよぎる。

「いやっ、俺は怪しい者じゃなくて……泣き声が聞こえたから……いや、普通に怪しいか……」

「○○?」

「え?」

 少年が発したのはごく短い言葉だったが、まったく聞き取れなかった。こちらが理解していないとみるや、彼はゆっくりと、もう一度同じ言葉を口にした。でも、やっぱり聞き取れない。

 少なくとも、日本語や英語ではないのは明らかだった。外見から連想すると、スペイン語とか、ポルトガル語とかなのかもしれないが、どちらにしても、あるいはそれ以外だとしても、完全にお手上げだ。

「えっと……交番……ポリス。ポリス、アンダスタン?」

 日本語は無理でも、英語なら少しは通じるんじゃないかと、なけなしの語学力を振り絞って話しかけたが、残念ながら、こちらもまったく通じている様子はない。

 そもそも俺は、日本語で喋るのだって怪しいのだ。「だからさあ。つまり、キミは何が言いたいわけ?」を上司の口癖にしたのは俺だった。なのに俺は今、言葉も通じない異国の少年を相手にしている。完全に、この手に余る案件だ。

「どうしよう……」

 その時、ぐうっと気の抜けた音がした。少年が、恥ずかしそうに腹を押さえる。

「ああ、おなか空いてるの? 弁当あるけど、食べる?」

 保冷バッグからタッパーを取りだして、目の前に差しだした。彼は受け取って、フタを開ける。さっき会社のレンジでチンしたのでまだ温かく、ふわりと湯気が立った。

 続いて百均の割り箸も渡したが、少年は割らずにそのまま照り焼きチキンに突き刺そうとする。箸を使ったことがないのかもしれない。

 一度返してもらった割り箸を割って、簡単に使いかたを実演した。箸遣いは、異国の少年には難しいかもしれないと思ったが、彼は二本の箸をどうにか操り、ぎこちなく照り焼きチキンをつかみ上げた。

「○○○○! ○○○○! ○○○○!」

 言葉は分からなかったが、口いっぱいにチキンをほおばる様子から、気に入ったのだろうということは分かった。まあ、食べているのは節約自炊タッパー弁当なのだが、空腹は最高のスパイスだって言うからな。

「ゆっくり食べな」

 たしなめたが、少年は聞く耳を持たず、夢中で食べ続けた。タッパーはすぐにカラになった。

「○○、○○○○○?」

「え、何?」

 少年はもどかしそうに、カラになったタッパーを指さした。不思議と、手振りだけで「これは何なのか」と聞きたいのだと分かった。言葉の通じない土地で暮らす子どもには、自然とそういうスキルが身につくのかもしれない。

「弁当」

 と言った。言ってしまってから、もっと具体的な料理名を答えるべきだったのではないかと後悔したが、訂正する間もなく、彼は俺の言葉を繰り返す。

「ベントー?」

「えっと……うん」

「ベントー、○○○○! ○○○○○!」

 たぶん、「ありがとう」とか言っているのだろう。言葉は分からなかったが、嬉しかった。

 だいたい、手料理を他人に食べてもらうこと自体、初めてだったのだ。それを、こんなにおいしそうに食べてくれて、御礼まで言われたら、そりゃあ悪い気はしない。

「気に入った? なら、よかった」

「ベントー○○○、○○○。○○○、○○○!」

 少年は、タッパーのフタを閉じて立ち上がった。俺の袖を引いて、どこかへ連れて行こうとする。

「ああいや……俺、行けないよ。会社に戻らないと」

「○○○○?」

「それ、返して」

 俺がタッパーを指さし、続いて手を差しだすと、彼は手元のタッパーをまじまじと見た。ひっくり返したり、光に透かしたりして観察した後、こちらへ視線を戻して口を開いた。

「○○○○○、○○。○○○、○○○○。○○○○」

「えっ……何?」

 少年は念押しするように何度も地面を指さし、何か言っている。それから、タッパーを持ったまま、背を向けて駆けだした。

「ええっ!? ちょっと!」

 彼の姿はすぐに見えなくなった。追いかけようかとも思ったが、……まあ、百均で買った、使い古しのタッパーだしな。わざわざ走って取り返すほどのものじゃない。

 来た道を歩いて戻ると、穴はさっきと同じようにそこにあり、向こうに薄汚い路地裏が見えていた。身をかがめてくぐると、向こう側より暖かかったはずの東京の冬が、なんだか妙に冷たく感じた。

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