沈黙のアルゴリズム
@VRAM_ARU25cofe
沈黙のアルゴリズム[前篇]
目次
序章 クロノス計画概要
第1章 ニュースが流れる朝
第2章 ノイズ
第3章 静かな波紋
第4章 再会の温度
第5章 再燃
登場人物紹介
東條 慧(とうじょう・けい)厚労省監査官。冷静で理性的だが、過去の研究事故に対して強い罪責を抱く。事実と感情の境界に揺れながら、「真実」と「沈黙」の意味を追い続ける。
篠原 璃一(しのはら・りいち)元大学研究員。クロノス計画の中心人物。かつて「心を静める薬」を開発したが、被験者Fの死を機に研究を封印。理性の奥に、人間の感情への深い執着を隠している。
]
:序章 クロノス計画概要]
密指定:CHRONOS PROJECT
——記録者:篠原璃一(主任研究医)
クロノス計画とは、若年層の精神疾患・自殺率上昇に対し、
感情を安定化させる新薬の開発を目的とした国家主導の研究である。
投与薬「CHRONOS」は、脳内神経伝達を制御し、
“過剰な感情反応”を抑制する。
同時に、AI記録システム《Chronos System》が被験者の脳波・心拍・記憶データを解析し、
投与効果を可視化する。
開発初期、私たちはそれを**“心を静める薬”**と呼んでいた。
だが、次第に目的は変質していった。
「感情を制御できる」ということは、「人を管理できる」ということだ。
——いつからだろう。
クロノスが、“治療”ではなく“統制”のための装置になったのは。
そして、被験者Fが現れた。
投与後、彼女の脳波は異常な同期を示し、記録上、蝶の羽ばたきのような波形を描いた。
その現象は“黒い蝶(Black Wing)”と呼ばれ、クロノス計画の象徴となった。
——それは、癒しではなかった。
彼女は“心を失い”、別の何かに変わった。
私はあの日から、記録を封印した。
《Status: Terminated》
《Access Level: Closed》
だが、すべての記録が消えたわけではない。
研究データの一部は、AI《Chronos System》の学習記録に残り、
その痕跡は“誰か”によって再び呼び覚まされようとしている。
……そして、三年が経つ。
[第1章 ニュースが流れる朝]
テレビの音が、朝の光の中で冷たく響いていた。
「本日より、若年層へのクロノス接種が全国で始まりました。
政府は“心の健康を守るための画期的ワクチン”と発表しています——」
マグカップを手に、篠原は無言で画面を見つめる。
どこかで聞いた台詞。
けれど、彼にとっては“終わった話”ではなかった。
(また始まるんだな……)
机の上には、当時の研究データのコピー。
「被験者死亡報告書」という文字が、光を吸って沈んでいる。
ノックの音。振り返ると、ドアの前に見慣れない男が立っていた。
光を受けて茶色の髪が淡く光り、シルバーグレーのスーツが静かな緊張を纏っている。
リムレスの眼鏡が、篠原を正確に映した。
「厚生省調査局の東條です。
本日より《クロノス接種計画》の倫理監査を担当します。」
声は低く、抑揚がない。
それでいて、一語ごとに重さがあった。
篠原は椅子から立ち上がり、軽く会釈する。
「どうぞ。座ってください。」
東條は無言で腰を下ろす。革靴の音が床に小さく響いた。
しばらく、紙の擦れる音と、遠くのテレビの声だけが流れる。
篠原はコーヒーを置き、静かに息を吐いた。
「以前、あなたはクロノスの初期開発チームにいたそうですね。」
視線を上げると、眼鏡の奥の瞳がまっすぐこちらを見ていた。
「ええ。ただ……結果としては、失敗でした。」
「失敗、ですか。」
「あなた方の立場では、そうは言わないんでしょうけど。」
わずかに東條の眉が動く。机の上のファイルの角が、きっちりと机に揃えられている。
沈黙。二人の間に置かれたコーヒーの湯気が、静かに揺れる。
「クロノスは、本当に“心を守る”薬だと思いますか。」
抑えた声が空気を震わせる。東條の質問に、篠原は短く息を飲んだ。
笑いではなく、皮肉でもない。
ただ、諦めたような口調で言う。
「……あれは、“心を静める薬”です。」
光が窓辺に反射して、東條の眼鏡を白く染める。表情は読めない。
ただ、その沈黙だけが、篠原の胸の奥に刺さった。
その言葉の響きには、かつて研究者として信じていた“理想”と、
その理想を壊した“現実”の両方が混ざっていた。
それが、彼らの最初の会話だった。
第1章‐2 監査官の目
書類を閉じる音が、静まり返った部屋に小さく響いた。
窓の外では、冬の光が淡く滲んでいる。
篠原璃一。
報告書では、冷静沈着で倫理意識が高い研究者と記されていた。
だが実際に目の前で話す彼は、そのどちらでもなかった。
(言葉の選び方が正確すぎる。まるで“間違う”ことを恐れているみたいだ。)
表情は穏やかだが、声の抑揚や間が少しずつずれている。
まるで、心の中の時計だけが別の時間を刻んでいるように。
ネイビーのスーツの襟を整えながら、篠原は窓際に視線を向けていた。
白衣の代わりに着ているそのスーツはよく似合っていた。
けれど、きちんとした服ほど、彼の「疲れ」を際立たせている気がした。
「……心を静める薬、ですか。」
思わず口の中で繰り返す。
篠原は答えず、少しだけ目を細めた。
外の光が彼の横顔を照らし、淡い影を頬に落とす。
その表情が、妙に静かで、見てはいけないもののように感じた。
(理性的なはずの人間が、“理性そのもの”を信じていない顔をしている。)
その違和感が、胸の奥に残った。冷たく、だがなぜか痛みを伴う種類のものだった。
ファイルの端に触れる指先が少し震えた。
「被験者死亡報告書」。彼がその名を読まなくても、ページが語っていた。
——これは終わっていない研究だ、と。
「本日は、これで失礼します。」
立ち上がり、軽く頭を下げる。
「お疲れさまでした。」
篠原の声は静かだった。
それなのに、耳の奥で何度も反響する。
ドアを閉めたあとも、その響きだけが離れなかった。
(心を静める薬、か……)
思考を振り払うように歩き出す。
だが、もう頭の中では仕事の報告書ではなく、あの男の声ばかりが、形を変えて繰り返されていた。
——あの日の会話が、三年前のすべての始まりだった。
[第2章 ノイズ]
——三年前に終わったはずの研究が、再び世間の光に晒されようとしていた。
スマートフォンが震えた。通知が止まらない。
タイムラインは、同じ名前で埋め尽くされていた。
#クロノス
#黒蝶事件
#被験者は実験台じゃない
一つ一つの投稿が、ざらついた声を持っている。
怒り、悲しみ、正義。どれも似ていて、どれも違う。
「“心を静める薬”って言葉、やばくない?」
「篠原璃一、あの研究者まだ大学にいるらしい」
「“被験者”って言葉、便利だよね。でも、あれ“人間”なんだよ?」
画面の光が、部屋の暗闇を白く照らした。
指先が震える。東條は無意識に名前を検索していた。
「篠原璃一 クロノス 事故」
表示されたニュース記事。数年前の出来事。
そして——見覚えのある報告書の一部が、切り取られて拡散されていた。
(……誰が、これを。)
眉間を押さえる。情報は速い。
だが、その分だけ真実は削れていく。
画面のスクロールが止まる。ひときわ目を引く投稿。
アイコンはモノクロの蝶。
「——真実は沈黙の中にある」
投稿者:@noir_wing
胸の奥で、何かが引っかかった。
どこかで見たことのある言葉。
(……沈黙、か。)
リビングの時計が鳴った。午前1時。
窓の外を車のライトが流れ、壁に一瞬だけ彼の影を作った。
すぐに消えたその影が、妙に現実的だった。
静かな夜に、SNSのノイズだけが、途切れることなく鳴り続けていた。
東條はスマートフォンを伏せ、ゆっくりと息を吐いた。
——この拡散の速さは、誰かが意図的に仕掛けている。
報告書の一部が流出するには、内部データへのアクセスが必要だ。
(内部の誰か……それとも、AI《Chronos System》か?)
胸の奥に、静かなざわめきが広がっていった。
[第3章 静かな波紋]
の光が、ブラインドの隙間から差し込んでいた。
窓際の観葉植物が揺れている。カーテンの外では、誰かの笑い声。
それらが全部、遠い世界の出来事のように聞こえた。
デスクの上で、スマートフォンが震えた。
いつものニュースアプリではなく、通知音。
画面に表示された自分の名前に、ほんのわずかに眉が動く。
「篠原璃一 クロノス」
「#黒蝶事件」
「#心を静める薬」
(……また、か。)
呟く声は小さかった。感情は動かない。
ただ、指先が無意識に冷たくなっていく。
リンクを開く。見慣れた言葉、歪んだ引用。
報告書の一部が切り取られ、まるで告発文のように並べられていた。
『被験者の心理的反応は安定傾向にあった』
——それは、彼が最後に書いた文章だった。
(安定なんて、してなかったのに。)
胸の奥に、かすかな痛みが走る。
けれど、それを表情に出すことはできなかった。
カップを棚から取り出し、ゆっくりとコーヒーを淹れる。
豆を挽く音と、湯の滴るリズムだけが部屋を満たす。
静かな音なのに、妙に心に響いた。
テレビの中では、キャスターが明るい声でニュースを読む。
「昨日の深夜から、クロノス投与計画に関する情報がSNS上で拡散しています。
政府は“事実と異なる投稿が多数見られる”として調査を開始——」
(調査、ね。)
マグカップを両手で包み、ひと口すする。
苦みは昨日と同じ。だが、舌の上で冷たく感じた。
視線を窓の外にやる。冬の光が街を覆い、ビルの隙間で白い息が浮かぶ。
その中に、黒い蝶がひとつ、ふわりと舞い上がった。
それが本当に見えたのか、それともただの記憶だったのか——
自分でも判断がつかなかった。
(沈黙は、守るためのものか。それとも、逃げるためのものか。)
マグカップの底を見つめたまま、篠原は一度もため息をつかなかった。
——炎上は、まだ続いていた。
画面を閉じても、名前はネットの海で独り歩きしている。
その波紋がどこまで届くのか、篠原には想像もつかなかった。
デスクの端に置かれた封筒が目に入る。
白紙に見えるその中身は、まだ開けられないままだ。
——そこにあるのは、三年前の「終わり」か、それとも「始まり」か。
篠原はただ、冷めたコーヒーを見つめていた。
[第4章 再会の温度]
炎上のニュースから一週間が過ぎた。
表向きは静まったように見えるSNSも、検索窓に「篠原璃一」と打ち込めば、
小さな波紋がまだいくつも残っていた。
東條は画面を閉じ、深く息を吐く。
事件以来、篠原は大学に籍を置いている。
名目上は臨床倫理の講師。
けれどその目は、講義よりも過去を見つめているように思えた。
午前十時。
大学附属研究棟の廊下には、消毒液と印刷用紙のインクの混じった匂いが漂っていた。
窓の外では、風が木の枝を揺らし、寒さの中に春の気配が混じっていた。
研究室の扉をノックすると、中から落ち着いた声が返ってくる。
「どうぞ。」
ドアを開けると、篠原がデスクの前に立っていた。
シルバーグレーのスーツ。窓からの光が頬を柔らかく照らしている。
「監査の件で、いくつか確認を。」
そう言いながら、東條はファイルを差し出した。
篠原は受け取ると、しばらくページをめくる。
その指先の動きが、やけに丁寧だった。
「ネットが騒がしかったですね。」
篠原の言葉は淡々としている。
「……ご存知なんですね。」
「見ました。朝のニュースで。」
目線は書類のまま。怒りも焦りもない。
「気にならないんですか?」
東條は思わず口にした。
「何をです?」
「あなたの名前が、拡散されているのに。」
少しの間があった。
篠原は顔を上げ、穏やかな表情のまま静かに答えた。
「私は、もう何も守るものがないんです。」
その言葉が、空気を止めた。
時計の秒針の音だけが、室内に残る。
東條はファイルを閉じ、ゆっくりと息を吐く。
何かを言おうとして、言葉が出なかった。
——守るものがない。
その一言が、彼の中に重く沈む。
報告書でもSNSでも、どこにも書かれていない“本当の声”が、今そこにあった。
「……それでも、まだ終わっていません。」
気づけばそう言っていた。
篠原が、初めてわずかに眉を動かす。
「終わらせたくないんですか?」
「いいえ。
ただ、“終わり”がどこなのかを、まだ誰も見つけていないだけです。」
沈黙。
その間に、窓の外で一羽のカラスが鳴いた。
篠原はその音にだけ、反応したように目を細める。
「あなた、不思議な人ですね。」
「よく言われます。」
東條は微笑もうとして、やめた。
篠原はファイルを閉じたあと、そっと視線を落とす。
机の端に置かれた白い封筒——あの日、東條に託したものと同じ形。
中身は違う。だが、それでも重さだけは変わらないように思えた。
短い会話のあと、二人の間に残ったのは、言葉ではなく、空気の温度だった。
それは、冷たくも温かくもない。
けれど確かに、何かが動き始めていた。
[第5章 再燃]
翌朝、厚生労働省の監査室。
LED照明の白い光が、書類の山に反射している。
東條はモニターに映るSNSのタイムラインを見つめた。
「#クロノス再燃」「#黒い蝶」
拡散速度は異常だった。
夜明け前に投稿された匿名の動画は、すでに数百万回再生。
内容は、三年前のクロノス実験の音声記録——篠原と被験者Fの会話の一部。
『痛みを感じなくさせる薬……それが、人を救うんですか?』
『違う。ただ“心を静める”だけだ。』
短く編集されたその断片は、篠原が非人道的な実験を主導したかのように見せる。
事実と違っても、視聴者にとっての“真実”はもうこの映像の中にある。
(まるで、誰かが意図的に火をつけているみたいだ……)
東條は画面を閉じ、呼吸を整えて立ち上がる。
一度、篠原に直接確認する必要がある。
大学のキャンパス。
研究棟の前に、報道関係者が数名。
「コメントはありませんか?」
「実験記録は本物ですか?」
声をかけられても、篠原は答えない。
静かに建物へ消えるその背中を、東條は離れた場所から見つめた。
(これじゃ、彼が何を言っても炎上の燃料だ……)
その足で研究室へ向かう。
扉を開けると、篠原は椅子に腰を下ろし、封筒を見つめていた。
「SNSの動画、見ましたか?」
東條が切り出す。
篠原が目を上げた。
「ええ。見ました。……封筒の中身と同じ音声です。」
「封筒?」
「あなたに渡した、あのデータです。」
東條の眉がわずかに動く。
「まさか、あれが流出を?」
「わかりません。でも、保存していたのは俺と、あなたの二人だけです。」
短い沈黙。窓辺のカーテンが小さく揺れる。
「とすると——流した容疑者は、俺になる。」
東條が言うと、篠原は淡く笑った。
「そうなりますね。でも、あなたじゃない。」
「なぜそう言い切れる?」
「疑っているなら、もっと焦った目をしているはずだから。」
冗談のようで、どこか本気の響き。
東條は苦く息を吐く。
「……じゃあ、誰が?」
篠原はデスク上のモニターに視線を移した。
「内部の誰か。あるいは——“中にいるもの”だ。」
「中?」
「クロノス・システムそのものが動き出している。
封じた記録が、何かの手で動いている。」
東條は一度だけうなずいた。
(なら、探しに行く。どこで、どう動いているかを——)
——このあと、東條は研究所時代のバックアップに当たることを決める。
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