第二話:春野さんと新しいプロジェクト
「……ということで新しくうちのプロジェクトに参加することになった春野さんです。色々サポートしてあげてください」
俺はプロジェクトマネージャーとして朝会の場で春野さんをチームメンバーに紹介した。ぱちぱちと小さな拍手の雨が降り注ぐ中、やや間をおいて彼女がぺこりと頭を下げる。春野さんが頭を下げる程度の常識を備えていたことに、俺はほっと胸を撫で下ろす。
朝会を終えて自席に向かう春野さんの小さな背中を目で追いながら、俺は先日の 1on1 での彼女の言葉を思い出す。
”わたしを、たくさん褒めてください”
言葉の真意を確かめる前に次の利用者が会議室の扉を開けてしまい、とりあえず「任せろ!」と漫画主人公ばりの無条件承諾を宣言してあの場は解散となった。
ゆえになぜ褒められたいのか、どう褒められたいのか、といった情報は皆無だ。部屋に引きこもる子どもに突然「Youtuber になりたい」とゴールだけ宣告された父親の如く俺は困惑している。
だがそれでもこれは壮絶な 1on1 の果てに得た貴重な情報であることには変わりない。可愛い後輩の願いを叶えるためにトライアンドエラーで色々試す他あるまい。
俺は新しいパソコンの電源を入れていた春野さんの横の空席に移動してそっと腰を下ろす。そして桃色のボブカットから覗く横顔を垣間見る。
彼女の表情は凛としており、冗談一つ許さないような揺るぎない真面目さが伺える。そして真っ直ぐに背を伸ばし正面を見据え続けるその佇まい。彼女の在り様はまさに聖騎士。己の信念を貫き、逆風に負けず、人々を導く高貴な存在。
後光すら見えそうなその美しさに見惚れそうになりつつも俺は思考を現実に戻し、まずは小手試しとばかりに軽いジャブを放つ。
「春野さん、さっきはちゃんとお辞儀できて偉かったね。知らない人ばっかりの場所で緊張しただろうに。春野さんは出来る子だなあ」
口にしてから、これではまるで小学生に対するかのような褒め言葉じゃないかと己の愚に気づく。とても光差す騎士様に手向ける言葉ではない。仮にも彼女は社会人。もっと知的で語彙豊かな褒め言葉でなければきっと満足しないだろう。文豪の言葉を引用するとか三十一文字にするとか韻を踏むとか、もっと格式高い言葉にしなくては。
別の言葉をチョイスしてやり直そうと頭を振ってから春野さんを見ると、その頬に僅かな朱が差していた。
「……えへ」
前言撤回。供給は需要に一致していたようだ。
先程までの凛とした表情が崩れている訳では無い。その鋭い眼光は未だパソコンの画面を射抜き続けている。しかしその頬は少し赤らみ、口角が僅かに上がっている。それはまるで、湧き上がる嬉しさを民衆に悟られまいと堪える聖女様のよう。
だが俺の言葉が彼女にこの変化をもたらしたのか、という点にはまだ疑念が残る。もしかしたら嬉しいメールを開いたとか、休暇申請が通ったとか、他の原因がトリガーとなって引き起こされた事象かも知れない。
俺はアイアンメイデン様の微笑みの因果律を研究するため、黄金の英雄王さながら無限の武器庫から取り出した様々な言葉の剣を彼女に向かって放つ。
「さっきのお辞儀の角度、あれは完全な15度だったね。紛うことなき完璧な『会釈』だったよ。社会人として TPO を理解していることを示す最高のバロメータを初っ端から見せつけてくれるとは、いやはや恐れ入った」
「……え、えへ」
「窓から差し込む朝の光を背に受けた春野さんのお辞儀が作った一つの小さな影。それは小さくも黒く、確かな存在感を周囲の人に与えた。闇を背景にしてこそ一層の美が生まれると言ったのは谷崎だったか。君の一礼にはまさしく陰翳礼讃の精神が宿っていた。朝会で闇の余韻を感じさせられるのは後にも先も今日だけだろう」
「ほ、褒めすぎ……です」
「あさおきて、かいしゃにきて、あさかいにでて、しゅごい。てんさい」
「ふふ、そんな……でも、そうかも……ふふふ」
言葉を重ねる度に彼女の口元は緩み、頬は赤らみ、次第に瞳もとろりと蕩けていった。アイアンメイデン様はどこへやら、いまや彼女の『にやにや』は最高潮に高まっていた。うん、言葉のチョイスは何でも良いようだ。
どんなアプローチでも良いならこれならどうかと、俺は立ち上がって一歩踏み込み、彼女の桃色の髪の毛に手を伸ばす。
後輩の頭を撫でて喜ばせてやろうと伸びた俺の手。それが彼女に触れるや否やという距離に近づいたその刹那、雷に打たれたような衝撃が走った。見れば俺の指はあらぬ方向に曲がっている。視線を彼女に戻せば、パソコンを見据えた彼女の背からは明らかな怒気が立ち昇っていた。
「わたしに、触らないでください」
ーー春雷。
俺はごめんなさいと頭を下げる。調子に乗りすぎた。物理的な接触は厳禁だ。
◇◇◇
それからある程度時間をかけて、俺は彼女にチームが取り組んでいる仕事について説明した。今進行しているのは通販サイト向けのシステム開発を目的としたプロジェクトだ。春野さんに担ってもらうのはその中のサブ機能のプログラム作成である。簡単とは言えないが難しいとも言えない。3年目のエンジニアに担ってもらう仕事としてはちょうど良い難易度のタスクだ。
「プロジェクトの現状と春野さんのタスクについて大体こんな感じかな。何か質問はある?」
当然のように返事はない。褒め言葉のラッシュで気を許してくれたかと思ったが、あの春雷でプラスマイナス0の地点まで揺り戻ってしまったらしい。口惜しい。
俺の説明や質問を背景に、春野さんはパソコンの画面に表示された作業手順書をじっと見つめ続けている。コミュニケーションが苦手な人には何人も出会ってきたが、ここまで徹底しているのは30年の人生の中でも春野さんが初めてだなと思う。
「じゃあまずは開発環境の構築からだね。これは今日一日かかると思う。分からないことがあったら俺にでも、周りの人にでも聞きながら進めてみて。夕方、また進捗を確認しに来るよ」
そう言って視線の合わないアイアンメイデン様を残して俺は席を立った。見送りや感謝の言葉は無いが、それで腐るような俺ではない。
春野さんの席は島の一番端で、俺の席は対面側の中央席だ。直接話しかけられる位置ではないが、春野さんの様子を伺うことは出来る。
俺は自分の仕事に意識を向け始めながらも、彼女がどのように作業を進めるのか今日はあまり口を出さずに見守ろうと思った。
自分の仕事と春野さんの観察という2タスクを頭にインストールし、俺はその日の仕事に取り組み始めた。
ーー 10時。誰とも口を開かず黙々とパソコンを叩く春野さん。
ーー 12時。お昼休憩に小さなおにぎり二つを食べ、持ち込み枕で眠りにつく春野さん。
ーー 14時。誰とも口を開かず黙々とパソコンを叩く春野さん。
ーー 15時。誰とも口を開かず黙々とパソコンを叩く春野さん。
ーー 16時。思考停止したかのように微動だにしなくなった春野さん。
そろそろ定時という頃、それまで淀み無く動いていた春野さんの指が止まった。緩やかに停止に向かうのではなく、突然ぴたりと静止してしまった。何か問題でも発生したのだろうか。だが周りのメンバーに何かを質問するような素振りは見えない。
ここで静観するのは上司として失格である。自分の仕事に一区切りを付けてから、俺は彼女の席を訪れる。
「や、春野さん。お疲れ様。進捗はどう?上手く出来そう?」
「……」
彼女の可憐で小さな口は、一片の空気も漏らさないぞという意思すら見えるほどきつく結ばれている。
よほどの問題にぶつかったのかななどと思いながらも、一応は今朝と同様に鉄面を崩すためのジャブをいれてみる。
「毎日8時間も働くって、動物として超反自然だよね。今日も辛いお仕事に耐えて、春野さん、とっても偉い」
「……えへ」
思ったよりも容易に鉄面は崩れた。春野さんの口元だけが柔らかに緩み、真面目な顔なのににやにやしているという奇跡のような可愛い表情が再び現前する。そうしてから春野さんはくるっと椅子の向きを変えて俺の方を見てくれた。
なるほど、春野さんは褒められて初めて視線を合わせてくれるらしい。え、もしかして会話の度に褒める必要がある? 俺の負荷、ひどくヘビーでは?
ぽこぽこと胸中に湧いたそんな動揺を抑えつつ、この機会は逃せないぞと俺は春野さんに質問を繰り返す。
「環境構築はどうかな? 順調?」
「……言われた仕事は、終えました」
おや、と思う。どうやらタスクで悩んでいたわけではないらしい。
ちょっと失礼と断り春野さんのパソコンを覗きこんでみる。見れば今日やってほしかったタスクは確かに全て終わっており、何ならプラスアルファで進行すらしている。
「え、すごいね。誰にも聞いてなさそうだったからてっきり何か困りごとにぶつかっているんだと思ってたよ」
「……ふふ」
その仕事ぶりに素直に感心して、俺の口からは自然と褒め言葉がこぼれた。
春野さんの顔を見ると、さっきよりも口元の『にやにや』専有面積が大きくなっている。この褒めポイントは逃がせない、と思い俺はジャブに繋げるようにコンボを叩き込む。
「初日からこんなに進める人、なかなかいないよ。いやすごい」
「んふふ」
「それに開発環境の立ち上げって開発自体よりも難しい所あるのにさ、3年目でつっかえずに進めるのって、才能? やっぱり秀才なの?」
「え、えへへ…… や、やればできる子なので……す」
「それに本来のタスク以上のところまで進んでるよね。そこで止めることもできたのに更に進めるっていう、そのスタンスがもう素晴らしいよ。社会人の鏡?」
「うふふ…… せんぱいに褒めてもらえるかなって、思って、頑張っちゃい、ました」
いつの間にか春野さんの蕩けた笑みはかなりの高まりを見せていた。あふれんばかりの微笑みをこぼすまいと口を引き結んでいるが、ところどころから嬉しさが溢れている。可愛い。
加えて褒める度に春野さんの口数が増えていくのに気付いた。これも面白可愛い。
会話の度に褒めるのは大変かもしれないと思ったが、この可愛い表情と反応を報酬に貰えるならそう悪い条件ではないかも知れないな、なんて俺は心の中で思う。
しかしこれだけ順調ならば、途中パソコンの前で固まっていたのは何だったのだろう。そう思って尋ねてみると、彼女は少しだけ俯いた。
「……今日すべきことと、出来ることは終わったので、次に何をしようかなって考えていたんです。でも思いつかなくて、止まっちゃいました」
なるほど、と俺は頷いた。
自分の価値観からしたら、プラスアルファで仕事をするために人に尋ねるなんて誇らしさはあれど恥ずかしさはないのになと思う。が、春野さんにとっては違うのだろう。人それぞれ考え方も価値観も違うのだから、早急に春野さんの在り方を理解しなければならない。
「おけおけ。やるべきことは終わっているからもう100点なんだけれども、もし余裕があったら今度は俺に相談してもらってもいいかな? そしたらすぐ……褒めてあげられるからさ」
「……! わかり、ました!」
しっぽが付いていたらフリフリと振りだしそうな喜びの滲む声。
今朝までの無愛想の煮凝りのような彼女と、鉄面の隙間からにやにやと音を立てるように笑顔を漏らす彼女。その同一人物とは思えないようなテンションの高低差。これには流石の俺も戸惑う。俺でなければ恋に落ちているぞ。危ない子だ、全く。……。
そんなことを考えながら俺は立ち上がり、「終業間際にごめんね、明日もよろしく」と言い残して席を離れようとした。そんな俺の背で、春野さんが言葉を紡ぐ。
「……なんか、せんぱいって」
「うん?」
「凄く、話しやすい、です」
「それはよかった」
「なんだか……」
そう言うと頬を赤らめ視線を泳がせ、もじもじと膝の上で手を弄る春野さん。
そのあまりにラブコメ的な所作に、俺はあーはいはいこの展開ね何度もゲームで見ましたよなどと思いながら、余裕の精神を体中に張り巡らせると身を硬くしてその場で石像のように立ち尽くす。
ややあって、彼女は少し潤みを含ませた瞳で、神の天啓を待つかのように硬直していた俺を見上げた。
「なんだか、人間じゃないみたいです」
目元をほころばせ、今日初めての純粋な笑顔を浮かべた春野さん。
と、そんな花の咲いたような魅力的で素敵な笑顔の先で非人間認定された俺。が向き合う。これは何? お礼? それとも虐め?
どう反応するべきか散々迷って、結局俺は春野さんに無言でにっこりと微笑みを返した。そんな俺を見て、春野さんもまた微笑みながらゆっくり頷く。
あ、今のは君の言葉への肯定じゃないです。私は人間です。
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