褒めたがりの社畜PMと、褒められたがりのアイアンメイデン~デスマーチを生き抜く、たった一つの生存戦略~

七ツ森 蓮

第一話:春野さんとの1on1


「私を、褒めてください。たくさん、褒めてください」


 椅子から立ち上がった美しい後輩は、その頬を上気させ、目を潤ませ、泣きそうな上目遣いで俺を見ている。

 

 クローズドサークルならぬクローズド会議室の中、俺と、後輩が二人きり。


 この桃色劇場に登らされた俺は余裕を持って次のセリフを紡ぐ……ことができるわけもなく、ただダラダラと汗を垂らした。


 待ってくれ。なぜこんなルートに入ったんだ。どの分岐で、選択を誤ったのか。


 硬直する俺の気も知らず、アイアンメイデンと呼ばれた彼女はまるで餌をねだる雛鳥のように俺の返答を待っている。


 よし、一度ここに至るまでの経緯を振り返ろうじゃないか。

 俺たちがまだ、ただの上司と部下の関係だったはるか昔、そう、25分前までーーー。


◇◇◇


 机を隔てて座る俺と彼女の間の空気は完全に死んでいた。人工呼吸も最早手遅れだろう。脈動の気配がないのだから。

 

 虚ろな目をした彼女。を笑顔で見つめる俺。の耳の裏に、つうと汗が流れる。 

 じわりと湿り気を帯びた手を机の上で握り直して、俺は改めて正面の女性を眺める。


 小動物を思わせる華奢な体つき。陽の光を受けてきらりと輝く桃色のボブカット。髪の間から覗く形の整った美しい耳。学校のクラスであればまず一番か二番に数えられるような可憐な顔立ち。

 全てのパーツが一級品であり、誰が見ても可愛い系の美人と判を押すであろう女性だ。加えて言えば柑橘類の花のような良い香りまで漂っている。

 

 そんな彼女の見た目からは彼女が社内随一の問題児であることなどおよそ伺い知れない。……いや、初対面の上司を前にして全く口を開く素振りを見せず、視線すら合わせてくれないところからは少し伺えるかも知れない。 

 俺はぶるぶると頭を振って脳内をリセットさせ、決して得意ではない笑顔を何とか取り繕う。

 

 そうだ、さっきは聞こえなかったのかも知れない。そうでなければ初対面の相手の言葉を無視するわけがない。緊張して耳が遠くなるなんてよくあることだ。特にラブコメ的物語においては定番と言ってさえ良い。

 そんな自分に都合の良いロジックを構築して、俺は本日二度目の自己紹介の言葉を口にする。

 

「こんにちは、春野さん!新しく君の上司になった水尾です!俺のことは水尾さんでも水尾先輩でも、好きなように呼んでくれて大丈夫!年齢もそんなに離れていないし、いつでも何でも気軽に話してね!」

「……」

 

 努めて明るく出された俺の声が会議室に響いて、しゅんと消える。受け取られなかった言葉は壁に吸い込まれるのだということを俺は今初めて知った。出来れば死ぬまで知りたくなかった。彼女の視線は変わらずテーブルに注がれたままで、俺の視線と交差すらしない。

 

 気まずい沈黙に一石を投じようと咳払いを一つしてみるが、部屋の空気にはさざなみ一つ立たない。防音の会議室に話者一人。まるで世界に俺しか居ないような感覚。歌でも歌えば気を引けるだろうかなどと馬鹿げた考えさえ脳裏に浮かぶほどには非日常だ。

 俺は諦めて、既に何度も目を通した手元の資料に視線を落とす。


 ” 名前:春野はな ”

 ” 年齢:24歳(入社3年目)”

 ” 役職:エンジニア ”

 ” 評価:2(5段階)”

 ” 通り名:アイアンメイデン(本人には言わないでね)”

 ” 前の上司からのコメント:この子の担当をするには私の経験値が足りない。定年間近の私にこんな難しい子は、荷が重い。誰か代わって欲しい ”

 ”etc……”


 ふうと俺はため息を漏らす。何度目を通しても頭の痛くなる社内資料だ。

 3年目なのに評価が低いことはまだいい。新人特有の空回りで評価が得られないことなど往々にしてある。そんなのいくらでもやり直せば良い。


 問題はそれ以外だ。

 仮にも社内の公的資料に、通り名という欄が設けられているとは何事か。しかもアイアンメイデンて。カッコの中の中途半端な優しさもむしろ腹立たしい。秘密にしたいならこんなところに書くな。

 そして定年間近のおじさんが経験不足を理由に仕事を投げ出すな。世の中には長男というだけで全ての困難に立ち向かう人も居るんだぞ。全てのおじさんは全ての困難から逃げずに戦って然るべきだ。

 

 読みすぎて皺の浮いた資料から視線を上げて、俺は改めて春野さんの顔を見つめる。 


 いやはやこんな美人をアイアンメイデンなどと呼ぶのは不適切だろう。

 たしかに会議室に入ってきてから微動だにしないその表情はまるで鉄面のようだとは微塵も思わないし、話しかけても全く反応しないその冷たい鉄のような態度は全身を鉄鎧で覆ったメイデン様に触れたときのそれを連想させることは全く無いし、無言の彼女と一緒にいる空間はまるで針のムシロのようだがそれはメイデン様が身の内の棘を持って相手の血を絞り取ったこととは何の関係もない。

 アイアンメイデン。実に酷いあだ名だ。全く以て彼女との因果、類似、共通性は断じて無い。……うん、無い……。

 

 ごほん、と二度目の咳払いをして俺は空気を変える。ことが出来るわけもなく、春の陽の光が注ぐ海底のような静寂の中で、一人会話を再開する。


「えーと、春野さんは3年目なんだね。そろそろ仕事には慣れた?」

「……」

「そうかそうか、出来ることも増えてきたんだね。今何か困っていることはある?」

「……」

「なるほど、特になし、と。何か仕事をする上での目標とか、こうなれたらいいな、っていうビジョンとかロードマップはある?」

「……」


 プロジェクトマネージャー歴5年の豊富な経験を武器に、俺は春野さんと順調なコミュニケーションを重ねる。そして引き出された彼女に関するありとあらゆる情報を流れるようなキータッチで手元のパソコンにぱちぱちと打ち込んでいく。うむ、液晶に映った 「助けて」 の文字の行列が我ながら痛ましい。

 

 その後も俺は84日もの不漁にも負けず海へ漕ぎ出す老人のように何度も幾度も、会話のボールを千切っては投げて千切っては投げた。そして千切れたボールが会議室の床にうず高く積もった頃、手元の時計が 1on1 の時間が間もなく終わりそうなことを告げた。努力の甲斐あって、コミュニケーションの果てに0個もの情報を取得したことに満足を覚えて俺は額の汗を拭う。汗である。決して涙ではない。

 

「……じゃあそろそろ時間だし1on1は終わろうかな……。明日からはうちのプロジェクトに参加してもらうことになるから、何かわからないことがあったら聞いてね……」

 

 少し涙声にもなりかけている俺の声にもやはり返答はない。

 諦めてがたんと椅子を引いた時、少年時代の誕生日ほどに待ち望んでいた彼女の声が、初めて会議室に響いた。

 

「……せんぱい」

「……うおお!! はい!せんぱいです!」

 

 あまりの興奮に変な声が出た。が、幸い春野さんは気にした様子もない。

 俺は立ちかけの体勢のまま、前のめりになって眼の前のアイアンメイデン様の言葉に耳を傾ける。

 

「……わたし、もう仕事を辞めようと、思っているんです。社会人として生きていくには、私はあまりにも適性が低すぎて」


 残念ながら社会人適性が低そうなことは否めない。普通の社会人は30分間上司を放置プレイするような胆力を持ち合わせない。

 が、適性なんてものは経験でなんとでもなると、俺は心から思った。仕事なんて、つまるところ環境への適応だ。身も蓋も無いが、大抵のことは慣れでなんとかなる。

 何と言ってフォローすべきかと言葉を考えていたら、机に視線を落としたままの春野さんが言葉を重ねた。

 

「今回駄目だったら、会社を辞めます。家に引きこもります。そして陽の光の下を歩く人全てに災いあれと、布団の中で日夜お祈りする巫女になります」

「……邪教だね……」

「そして皆の悲しみを集めて口いっぱいに頬張り、きらきら光る海に落ちる夕日を眺めながら毎日こう言うんです。『ああ、今日も良い一日だったな』って」

「……巫女というか、邪神そのものだね……」

「でも最後にもう一回だけ頑張りたいなって、思うんです。諦めるのも闇落ちエンドも簡単だけど、その前にあと一回だけ、社会人として生き直してみたいなって」

「う、うん、それがいい。闇落ち適性の高さを垣間見た気がするけど、こっちに戻ってきたほうが絶対いい……」

「……ついては先輩に、お願いしたいことが、あります」

「……お願い? もちろんもちろん、俺に出来ることならなんでもするよ!」

 

 そこで言葉を切った春野さんは、目を閉じてゆっくりと呼吸を整え始めた。

 聞き流せない言葉がいくつもあった気がしたけれども、今はそんなことはどうでもいい。

 MTGの時間は既に過ぎており会議室の外に人の気配も感じるけれども、そんなこともどうでもいい。


 今何よりも重要なのは春野さんの次の言葉だ。彼女しか分からない何かに追い詰められている春野さん。そんな彼女が俺に何かを求めている。上司として、男として、出来うる限り応えてやりたいと思うのが人情だ。

 気心のしれたチームメンバーならたくさん紹介しよう。快適な仕事環境なら出来る限り提供しよう。お金の無心なら……ちょっとで良ければ出そう。

 

 俺は邪教の巫女(成りかけ)の次の言葉を、熱心な信徒のように息も吸わずにひたすらに待った。

 

 やがて春野さんはそっと目を開き、ゆっくりと席から立ち上がる。

 その頬は告白でもするかのようにゆっくりと朱に染まり、その瞳は捨てられた子犬のようにしっとりと潤みゆく。

 そして触れれば壊れそうな華奢な肩を少し震わせながら、春野さんは物語の始まりを告げる鈴のような声で、静かに、しかし確かに、空気を震わせた。

 

「私を、褒めてください。たくさん、褒めてください」

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