第4話 「江藤小百合です。よろしくお願いします」



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### **第四話:揃えられた駒**


扉の向こう側は、もぬけの殻だった。

ガランとした待合室に一人取り残され、相田詩織は、呆然と立ち尽くす。


帰っていい、と言われたはずだ。

プロデューサーの、あのゴミを見るかのような目。あれは、紛れもなく不合格を告げる目だった。

なのに、なぜ。レッスンスタジオに。


何かの間違いか。

それとも、からかわれているだけか。

不合格の絶望と、ほんの米粒ほどの「もしかしたら」という希望が、心の中でせめぎ合う。

詩織は、夢遊病者のように、ふらふらとした足取りで、巨大なビルを後にした。


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同時刻。あのオーディション会場。

プロデューサーは、先ほど詩織が映っていたモニターを眺め、満足げにほくそ笑んでいた。

計算できない、ただの馬鹿。

氷のように心を閉ざした、売れない歌手。

その二つが混じり合った時、どんな化学反応が起きるのか。想像するだけで、愉快だった。


だが、それだけでは足りない。

博打が過ぎる。ビジネスとして成立させるには、確実な保険が必要だった。

初めから、完成された「商品」が。


「――次、どうぞ」


スタッフの声と共に、一人の少女が部屋に入ってくる。

その瞬間、会場の空気が、変わった。

詩織のような熱気ではない。絵里奈のような緊張感でもない。

場を、完全に支配する、圧倒的な存在感。


「江藤小百合です。よろしくお願いします」


澄んだ声。完璧な角度のお辞儀。

その名を聞いて、何人かの審査員が、息を呑んだ。

江藤小百合。

幼少期から天才子役として、その名を知らない者はいない。芸歴だけで言えば、ここにいる審査員の誰よりも長い、とんでもない逸材。


「ふん。で、何を思うて歌手なんぞに?」

プロデューサーが、値踏みするように問いかける。


小百合は、ふわりと微笑んだ。

それは、長年の経験で培われた、完璧な「天使の笑顔」だった。

「新しいことに、挑戦してみたくなったんです」

その瞳の奥は、誰にも読ませない。


審査など、不要。それは、全員が分かっていた。

ただの、形式。

しかし、小百合は、一切手を抜かなかった。


歌。

ミュージカルで鍛え上げられた声は、どこまでも伸びやかで、音程一つ外さない。

ダンス。

しなやかな手足が描く軌跡は、寸分の狂いもなく、見る者を魅了する。

芝居。

「お願い。私を、ここから連れ出して」

その一言だけで、会場の誰もが、胸を締め付けられた。


完璧だった。

完璧、すぎた。


「……すげーな、おい」

作曲家が、呆然と呟く。


プロデューサーは、その完璧すぎるパフォーマンスを腕組みしながら見つめていた。

感情が読めない。それ故に、コントロールが難しいかもしれない。

だが、この才能は、金になる。間違いない。


「――結構だ。ご苦労さん」

プロデューサーが言うと、小百合は、再び完璧なお辞儀をして、静かに部屋を後にした。


モニターには、まだ、詩織の映像が残っている。

プロデューサーは、その二つの顔を、交互に見比べた。


制御不能な原石、相田詩織。

完璧すぎる完成品、江藤小百合。

そして、その二人を繋ぐ、屈辱を抱えた氷の女、鈴木絵里奈。


アンバランスで、歪で、だからこそ、面白い。

「――駒は、揃った」

プロデューサーは、サディスティックな笑みを浮かべた。


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翌日。13時少し前。

詩織は、一縷の望みを胸に、指定されたレッスンスタジオの前に立っていた。

一晩中、ほとんど眠れなかった。

来ないで後悔するよりは、と、震える足でここまで来た。


扉を開けると、がらんとした空間が広がっていた。

壁一面の巨大な鏡。誰も、いない。


やはり、騙されたのだ。

全身から力が抜け、その場にへたり込みそうになった、その時だった。


「相田詩織さんね」


背後から、凛とした声がした。

昨日オーディション会場にいた、秘書らしき女性――山田里奈が、立っていた。


「合格よ、あなた」

「へ……?」

「ただし、ソロデビューじゃないわ。あなたは、鈴木絵里奈の新しいユニットメンバーとして採用されたの。TwinSpark。それが、あなたたちのユニット名よ」


頭を、鈍器で殴られたような衝撃。

喜びは、一瞬で、絶望に変わった。

私は、あの人の、部品。


ガチャリ、とスタジオの扉が開く。

レッスンウェアに身を包んだ、鈴木絵里奈が入ってきた。

彼女は、固まっている詩織と里奈を一瞥すると、何も言わずに、壁際のバーに向かい、黙々とストレッチを始める。

その背中は、詩織の存在など、まるで無いかのように、明確な拒絶を示していた。

その瞳は、昨日見たのと同じ、どこまでも冷たい、湖の色をしていた。


憧れの人は、もう、どこにもいなかった。

そこにあるのは、自分を、巨大な何かの「部品」としてしか見ていない、冷たい現実だけだった。

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