第2話次、23番、相田詩織さん」
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### **第二話:審査員席**
淀んだ空気が、パイプ椅子に座る相田詩織の肺を満たした。
香水、整髪料、そして隠しきれない汗の匂い。そのすべてが、ここが戦場であることを、声高に告げていた。
掌はじっとりと汗をかき、スカートで何度も拭う。その手のひらのしっとりとした感触だけが、唯一の現実だった。
周囲に目をやれば、皆、自分よりも背が高く、化粧も、表情も、何もかもが完璧に見えた。都会という、まだ得体の知れない怪物が、この部屋に少女たちを閉じ込めているようだった。
心臓が、肋骨の裏側で、激しく、獣のように暴れている。
「――次、23番、相田詩織さん」
乾いたスタッフの声が、硬質な空気の中で、無情に響き渡った。
来る。
詩織の身体が、小さく跳ねる。
この瞬間のために、何百回と繰り返してきた「もしも」。その全てが、音を立てて崩れていく。
「は、はういッ!」
口から出た声は、予想に違わず、醜く裏返った。
ぴしり、と。
張り詰めていた静寂の糸が、無様にも千切れる音がした。
押さえきれない、ひそひそとした笑い声が、刺々しい矢となって、翔子の耳朶を掠めていく。
燃えるように頬が熱い。
頭から火が出る、とは、きっとこのことだろう。
俯けば、見慣れないヒールの尖ったつま先が、自分の古いスニーカーの傍らに立っていた。
最悪だ。歌う前に、こんな形で笑われるなんて。
逃げたい。
身体中の細胞が、この場から逃げ出せと、本能的に叫んでいる。
しかし、ここで背を向けたら、何のためにここまで走ってきたのか。
何のために、たった一人で、見知らぬこの東京の街に来たのか。
詩織は、ぐっと唇を噛みしめる。奥歯が、ギリリ、と軋んだ。
大丈夫。
歌だ。歌えば、きっと。
声さえ、届けば、きっと。
その衝動に突き動かされるように、身体を震わせ、ほとんど勢いだけで立ち上がった。
そして、重く分厚い、扉へと向かう。
震える手でノブに触れると、ひんやりとした金属の冷たさが、現実を引き戻した。
一度、大きく深呼吸をする。肺いっぱいに、澱んだ空気を吸い込む。
大丈夫、大丈夫。
私の、全部を、ぶつけるんだ。
意を決して、ノブを捻り、力任せに扉を開いた。
「失礼します! 相田詩織です! よろしくお願いします!」
喉を絞り出し、声を張り上げる。
身体が勝手に90度折れ曲がる。その動作を終え、顔を上げた先には、息を呑むほど眩いスポットライトが、ぎらつく視線を伴い、ずらりと並んだ審査員たちを照らし出していた。
室内は、完全に静まり返っている。待合室の、あの小さな笑い声が、嘘のように消えていた。
空気が、刃のように重い。
品定めする、あの瞳が、自分という人間を、骨の髄まで、暴こうとしているようだった。
ごくり、と唾を飲み込む。喉の奥で、音を立てるのが分かった。
その、刹那だった。
視線が、不意に、惹きつけられた。
引き裂かれた空間に、一条の糸が引かれたかのように、目が奪われる。
審査員席の、最も遠い、端。
そこに、座っている。
嘘、だ。
切りそろえられた、濡れたような黒髪。
完璧なまでに白いブラウスが、凜とした立ち姿と、どこか大人びた雰囲気を強調していた。
間違いない。
さっき、ビルの入り口で、ぶつかった、あの人だった。
なぜ。
どうして、あの人が、そこに。
混乱が、嵐のように脳裏を駆け巡る。
憧れと、畏怖。その感情が、目の前の現実に、拒否反応を示す。
だが、その否定は、すぐに崩れ去った。
彼女の前に置かれたネームプレートを、視線が必死に、目で追う。
ぎらつく照明の反射。その光を、目を細めて掻き分けても、そこに記されていた文字は、紛れもなく――
『鈴木 絵里奈』
――だった。
肺の中の空気が、ごっそり、抜け落ちていく。
テレビで見たことがある。何度も。
ソロで歌い、クールで、儚く、そしてとてつもなく美しかった、憧れの存在。
雲の上の人。
受験生などでは、決して、なかった。
じゃあ、なぜ。
なぜ、あの時、素知らぬ顔をして、自分を見送ったのだ。
鈴木絵里奈は、詩織の視線に気づいているのかいないのか、手元の書類に目を落としたまま、表情一つ変えない。その横顔は、まるで彫刻のように冷たい。いや、冷徹だ。
あの人は、あの出会いを、最初から記憶していない。
あるいは、そう見せている。
そうとしか思えなかった。
呆然と立ち尽くす詩織の、足が縫い付けられる。
すると、中央に座っていた、この場の支配者であるプロデューサーが、苛立たしげにペンでテーブルを叩いた。その音は、静寂の中、驚くほど大きく響く。
「――おい、君。いつまで突っ立ってるんだ?」
ねっとりとした、品定めするような声。
その粘つく視線が、鈴木絵里奈と、自分の間を行き来する。
その声で、詩織は、はっと我に返った。
そうだ、ここは、オーディション。
混乱が、脳髄を掻き乱す。
必死で、現実と感情を、切り離そうとする。
しかし、どうあがいても、審査員席の端に座る『鈴木早智子』の存在から、目を逸らすことができなかった。
彼女は、一体。
この、運命めいた出会いは、偶然なのか。
それとも、あの人が放つ光に、引き寄せられるように、自ら選び取ってしまった、もう一つの始まりなのか。
プロデューサーの、冷たい声が、追い打ちをかけるように響いた。
「で、君は、何ができるんだ?」
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