「10年分の嘘に、最後の歌を。」
志乃原七海
第1話:堕天使たちの夜 (1)
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## 第1話:堕天使たちの夜 (1)
「あーっ、もう!ほんっとに遅刻しちゃう!」
アスファルトを蹴るスニーカーの音だけが、やけに大きく響く。
中学の卒業式を目前に控えた3月の、まだ肌寒い風が、汗で額に張り付いた前髪を揺らした。
相田詩織、15歳。
カバンの中で、オーディションの応募用紙がくしゃくしゃになっているかもしれない。でも、そんなことはどうでもよかった。今はただ、1秒でも早く、あのビルの、あの会場にたどり着くことだけが全てだった。
東京は、人が多すぎる。
初めての都会に、昨日からずっと、心臓がバクバク言っている。緑川村では、こんなに多くの人間が一ヶ所にひしめき合っているなんて、想像もできなかった。高層ビルが空を突き刺すように建ち並び、電車はひっきりなしに地上も地下も走っている。コンビニは、村にたった一つしかない「ヤマザキショップ」とは比べ物にならないほど煌びやかで、どこを見ても刺激ばかりだ。
『歌手になる』
物心ついた時から、それ以外の夢を描いたことがない。勉強も、友達付き合いも、何もかもがその夢のための準備運動でしかなかった。周りの大人は「高校くらいは行きなさい」と呆れ顔で言うけれど、詩織には分からなかった。夢への最短距離を走らないなんて、そんな時間の無駄遣い、あり得ない。
前だけを見て、ただひたすらに走る。
人混みをかき分け、信号が青に変わるのを待ちきれずに足踏みをして、目的地のガラス張りのビルが見えた瞬間、最後の力を振り絞ってスピードを上げた。
――夢の入り口は、すぐそこ!
自動ドアが目前に迫る。勢いを殺さず、飛び込もうとした、その時だった。
「うわあっ!」
中から出てきた誰かと、まともにぶつかってしまった。
「きゃっ!」という短い悲鳴と共に、相手が体勢を崩す。詩織は「ご、ごめんなさい!」と叫びながら、尻餅をついた相手に慌てて手を差し伸べた。
「……大丈夫ですか?」
顔を上げたその人と、視線が絡み合う。
息を呑んだ。
切りそろえられた、艶やかな黒髪のショートカット。
自分よりずっと背が高く、すらりとした手足。白いブラウスに黒いパンツというシンプルな服装が、かえってその人の凜とした存在感を引き立てている。まるで、宝塚の男役スターみたいだ。緑川村にはいないタイプだ。ファッション雑誌でしか見たことのない、完璧な都会の少女。
それが、鈴木絵里奈だった。
絵里奈は、ぶつけられた肩を少しさすりながら、迷惑そうな、それでいてどこか冷静な目で詩織を見下ろした。その瞳には、詩織が抱くような焦りや熱狂とは無縁の、冷めた光が宿っている。
「……前、見て歩きなさいよ」
低く、落ち着いた声。年齢は、自分より少し上だろうか。17歳か、18歳か。
その大人びた雰囲気に、詩織は完全に気圧されてしまう。
「は、はい!す、すみません!急いでて……!」
しどろもどろに謝る詩織を一瞥し、絵里奈は興味を失ったように立ち上がると、パン、と服の埃を払った。その仕草一つにも、無駄がなく洗練されている。
詩織の目には、彼女が放つオーラがキラキラと輝いて見えた。
こんなに綺麗な人、テレビの中でしか見たことがない。この人も、きっとオーディションを受けに来たんだ。すごい、レベルが違う。
圧倒的な存在感に、詩織はただ立ち尽くす。
絵里奈はそんな詩織を気にも留めず、そのまま颯爽と立ち去ろうとする。
「あ、あの!」
詩織は、思わず声をかけていた。
絵里奈が、少しだけ面倒くさそうに振り返る。
「あなたも、オーディション、ですか?」
問いかける詩織の声は、興奮と緊張で上ずっていた。
絵里奈は、一瞬だけ目を細めると、まるで分かりきったことを聞かれたかのように、小さく、そして冷ややかに頷いた。
「……まあね」
その一言だけを残し、彼女は今度こそ振り返らずに、雑踏の中へと消えていった。
残された詩織は、心臓がバクバクと鳴っているのを感じていた。
遅刻しそうな焦りよりも、ぶつかってしまった気まずさよりも、もっと強い感情が全身を支配する。
――すごい。
――あの人と、一緒に歌えたら。
それは、まだ形にならない、漠然とした憧れ。
そして、これから始まる長い夜の、ほんの始まりの合図。
詩織は、絵里奈が消えた方向をしばらく見つめた後、はっと我に返ると、再びビルの中へと駆け出した。
まだ、何も始まっていない。
そして、この出会いが、自らの人生を、そして目の前の少女の人生を、永遠に変えてしまうことなど、知る由もなかった。
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