一月六日【スミレ】
11
花言葉は「愛」「謙虚」「小さな幸せ」
12
久しぶりに降り立った故郷の駅は、記憶よりもずっと静かだった。
改札を出ても人影はまばらで、風の音ばかりが耳に残る。
彼女は小さく息を吐き、車に乗り込んだ。
帰省するのは、何年ぶりだろう。
仕事に追われ、連絡もままならず、気づけば季節だけが積み重なっていた。
田んぼ道を抜ける途中、ふと懐かしい看板が目に入った。
色あせた文字で書かれた文字。
「……まだ、やってるんだ」
無意識のうちにハンドルを切っていた。
引き戸を開けると、変わらない匂いがした。
出汁と炊きたての米、少し焦げた魚の香り。
胸の奥に、子どもの頃の記憶が静かに戻ってくる。
「いらっしゃい」
カウンターの奥から現れた女将は、少し背が丸くなっていたが、声は昔のままだった。
「あ……」
一瞬、女将は彼女の顔を見つめ、それからゆっくり目を細めた。
「……あんた、千夏ちゃんかい?」
名前を呼ばれた途端、喉が詰まる。
覚えていてくれた。
それだけで、胸がいっぱいになる。
「お久しぶりです」
「まあまあ……大きくなって。遠くで頑張ってるって、聞いてたよ」
席に座り、迷わず焼き魚定食を頼む。
昔、部活帰りによく食べた味だ。
運ばれてきた定食は、記憶より少し小ぶりだった。
それでも箸を入れた瞬間、はっきりわかる。
「……変わってない」
派手じゃない。
でも、丁寧で、やさしい味。
理由はわからないけれど、涙がこぼれそうになった。
窓際では、地元の老夫婦が並んで食事をしている。
言葉は少ないが、空気は穏やかだ。
食後、女将が湯のみを置きながら言った。
「たまには帰っておいで。
ここは、逃げ場所みたいなもんだから」
彼女は笑って頷いた。
逃げてもいい。
戻ってきてもいい。
会計を済ませ、店を出る前、庭の隅に目が留まる。
小さなスミレが、ひっそりと咲いていた。
昔と同じ場所で、同じように。
大きな幸せじゃなくていい。
覚えていてくれる場所があること。
迎えてくれる味があること。
それだけで、人はまた前に進めるのだと、彼女は思った。
春の空気を胸いっぱいに吸い込み、彼女は車に戻る。
故郷は変わっていた。
けれど、変わらないものも、確かにここにあった。
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