【七】言葉・意志で創る

 「光あれ」


 神がそう言うと、光が生まれた。


 これが「言葉・意志で創る」という類型である。神は手を動かさず、体を使わず、他の誰かと交わらず、ただ言葉を発するだけで——あるいは心に思うだけで——存在を創り出す。


 この類型は、一神教、特にユダヤ・キリスト教・イスラム教(アブラハムの宗教)において最も発達している。しかし多神教にも、言葉や意志による創造の痕跡は見られる。


    ◇ ◇ ◇


 『創世記』の冒頭は、言葉による創造の最も有名な例である。


 「初めに、神は天と地を創造された。地は混沌としており、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ』。すると光があった」


 神は六日間で世界を創造した。各日の創造は、「神は言われた」という言葉で始まる。


 第一日、光が創られた。第二日、天が創られた。第三日、海と陸と植物が創られた。第四日、太陽・月・星が創られた。第五日、魚と鳥が創られた。第六日、動物と人間が創られた。第七日、神は休まれた。


 この創造の特徴は、神が言葉を発するだけで物事が存在するようになることである。「光あれ」と言うと光が生まれる。「地は植物を生やせ」と言うと植物が生える。言葉が物質化し、意志が現実となる。


 これは「creatio ex nihilo」(無からの創造)の典型例として解釈されてきた。【一】で述べたように、厳密な意味での「無からの創造」は、二~三世紀のキリスト教神学で発展した概念だが、その源泉は『創世記』にある。


    ◇ ◇ ◇


 ヨハネによる福音書は、創世記を踏まえつつ、さらにラディカルな主張を展開する。


 「初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。この言葉は初めに神とともにあった。すべてのものは、この言葉によって成った」


 ここでは「言葉」(ロゴス)自体が神と同一視されている。神が言葉を使うのではなく、言葉そのものが神である。言葉は創造の道具ではなく、創造の主体である。


 ギリシャ哲学の「ロゴス」概念——理性、論理、言葉——がユダヤ教の創造神話と融合した結果、このような思弁が生まれた。


    ◇ ◇ ◇


 クルアーンにも、言葉による創造が語られている。


 「かれが何事かを決定されるとき、ただ『有れ』と言われると、それは有る」(第二章117節)


 アッラーが何かを創造するとき、「クン」(有れ)と言うだけで、それは存在する。これは『創世記』の「光あれ」と同じ構造である。神の言葉は即座に現実となる。


 イスラム教では、クルアーン自体が「神の言葉」とされる。クルアーンは創られたものではなく、永遠に神とともに存在する神の言葉そのものである。言葉の神聖さと創造力への信仰が、ここに極まっている。


    ◇ ◇ ◇


 エジプトのメンフィス神学にも、言葉による創造が見られる。


 メンフィス(古代エジプトの首都)では、創造神プタハが信仰されていた。「シャバカ石碑」に記されたメンフィス神学によれば、プタハは心で思考し、舌で言葉を発することによって世界を創造した。


 「心に浮かんだすべてのもの、舌が命じたすべてのものから、あらゆるものが生まれた」


 プタハの心臓(思考の座)が概念を形成し、舌(言葉の器官)がそれを発声する。言葉によって概念が現実化する。


 これはヘリオポリス神学(アトゥムが身体から神々を生み出す)とは異なる創造論である。メンフィス神学はより抽象的であり、思考と言葉という非物質的な行為が創造の原理となっている。


 興味深いことに、メンフィス神学は紀元前七世紀頃に成文化されたとされるが、その起源はより古い可能性がある。ユダヤ教の言葉による創造との関係——影響関係があるのか、独立した発展なのか——は議論されている。


    ◇ ◇ ◇


 インド神話にも、言葉と創造の結びつきがある。


 ヴェーダの伝統では、「ヴァーチ」(言葉、女神)が重要な位置を占める。ヴァーチは宇宙の創造に関与し、神々にさえ力を与える。


 『リグ・ヴェーダ』では、ヴァーチはこう宣言する。「私は神々とともに歩む。私は天と地を貫く。私は父なる天の頂きから生まれ出た」。言葉は創造の原理であり、世界を支える力である。


 後のウパニシャッドでは、「オーム」(ॐ)という聖音が宇宙の根源とされる。オームは創造以前から存在し、すべてのものはオームから生じ、オームに帰る。音と言葉が宇宙論の中心に置かれている。


 ただし、これらは厳密には「神が言葉で世界を創った」という物語ではない。言葉そのものが神格化されている、あるいは言葉が宇宙の根本原理とされている、というほうが正確である。一神教の言葉による創造とは、構造が異なる。


    ◇ ◇ ◇


 マヤ神話の『ポポル・ヴフ』には、言葉による創造が明確に語られている。


 天と地の創造者たちは相談した。「山が水から現れ、大地が存在するように」。彼らがそう言うと、そのとおりになった。「大地よ」と言うと、大地は即座に形成された。


 創造者たちは言葉を交わし、相談し、決定する。そして言葉が発せられると、世界が形作られる。これは『創世記』と構造的に類似している。


 『ポポル・ヴフ』はスペイン征服後の十六世紀に文字化されたため、キリスト教の影響が入っている可能性がある。しかし、古いマヤの伝統も含まれていると考えられており、言葉による創造がマヤ文化に元々存在していた可能性もある。


    ◇ ◇ ◇


 ポリネシア神話にも、言葉や思考による創造の痕跡がある。


 マオリ族の一部の伝承では、至高神イオが思考と言葉によって世界を創造したとされる。「イオは言葉を発し、世界は形を取った」。


 ただし、イオ信仰がキリスト教以前から存在していたかどうかは議論がある。一部の学者は、イオは宣教師の影響で導入された概念だと主張している。


    ◇ ◇ ◇


 ■日本の場合:存在しない


 日本神話には、言葉によって神や世界が創造されるという神話は


 天之御中主神は「成った」のであり、誰かに「言葉で創られた」のではない。イザナギとイザナミは島々を「産んだ」のであり、「言葉で呼び出した」のではない。アマテラスは禊の際に「現れた」のであり、「言葉で生じた」のではない。


 日本神話における神々の誕生は、「成る」「産む」「現れる」という動詞で語られる。「言う」「命じる」「呼ぶ」という言葉の行為は、創造の契機としては用いられない。


    ◇ ◇ ◇


 言葉による創造がないということは、何を意味するのか。


 第一に、日本神話には超越的な創造神がいないということを示している。


 「光あれ」と言って光を創るためには、その言葉を発する主体が、光よりも先に、光の外に存在していなければならない。言葉による創造は、創造者と被造物の根本的な分離を前提とする。


 日本神話の神々は、世界の外から世界を創るのではない。彼らは世界の内に「成る」。世界と神は分離していない。超越的な視点——世界の外から世界を見渡し、命令する視点——は存在しない。


 第二に、日本神話には「命令する神」がいないということを示している。


 「光あれ」は命令形である。神が世界に命令し、世界が従う。そこには主人と従者、命令者と服従者の関係がある。


 日本神話の高天原の神々も、イザナギ・イザナミに「この漂える国を修理固成せ」と命じる。しかしこの命令は、国土を「創れ」というものではない。すでに存在する(漂っている)ものを「固めよ」という命令である。


 イザナギとイザナミは矛で混沌をかき回し、国土を「産む」。彼らは言葉によって島々を呼び出すのではなく、身体的行為と生殖によって島々を生み出す。


 第三に、言葉の力についての理解が異なるということを示している。


 日本にも「言霊」(ことだま)の観念がある。言葉には霊力が宿り、発せられた言葉は現実に影響を与える。祝詞のりと呪詞じゅしは、言葉の力を利用した宗教的実践である。


 しかし、言霊は「創造」の力ではなく、「影響」の力である。言葉は現実を変化させ、動かし、祝福し、呪うことができる。しかし、何もないところに存在を呼び出すことはできない。


 日本の言霊観は、すでに存在するものに働きかける力である。一神教の「言葉による創造」は、存在しないものを存在させる力である。両者は、言葉の力についての異なる理解を示している。


    ◇ ◇ ◇


 なぜ、日本神話には言葉による創造がないのか。


 いくつかの仮説が考えられる。


 第一に、一神教的な超越神の概念がなかったからである。言葉による創造は、世界の外から世界に命令する超越神を必要とする。日本神話は多神教であり、神々は世界の内部に存在する。超越的な創造神がいなければ、言葉による創造もありえない。


 第二に、日本神話が身体的・物質的な創造を好むからである。【三】の性的結合、【六】の身体から現れる、など、日本神話の創造は常に身体を介している。言葉は非物質的であり、身体を必要としない。日本神話は、このような非物質的な創造に馴染まなかったのかもしれない。


 第三に、中国・朝鮮を経由して伝わった文化的影響の中に、言葉による創造がなかったからである。日本に影響を与えた道教、儒教、仏教には、一神教的な言葉による創造はない。道教の「道」は言葉を超えたものであり、儒教の「天」は人格的な創造神ではなく、仏教は創造神話を持たない。


    ◇ ◇ ◇


 言葉による創造の「不在」は、日本神話のもう一つの特徴を浮き彫りにする。


 言葉による創造がある文化では、神と世界の関係は主人と作品の関係に似ている。陶工が粘土から壺を作るように、神は言葉で世界を作る。作品は作者に従属し、作者は作品を超越している。


 日本神話では、神と世界の関係はより有機的である。神々は世界の中に「成り」、世界を「産み」、世界と一体化している。世界は神の「作品」ではなく、神の「体」の延長であり、神の「子」である。


 この違いは、人間と自然の関係についての理解にもつながるかもしれない。言葉で創造された世界は、言葉で支配される対象である。身体から生まれた世界は、身体とつながった延長である。


 日本文化における自然観——自然を支配するのではなく、自然と調和する——は、この神話的な世界理解と無関係ではないかもしれない。


    ◇ ◇ ◇


 「言葉・意志で創る」という類型は、世界の神話の中でも特定の文化圏に集中して分布している。


 アブラハムの宗教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)では、この類型が中心的な位置を占める。エジプトのメンフィス神学にも存在する。インドには言葉の力への強い信仰があるが、創造神話としては発達していない。メソアメリカにも痕跡がある。


 一方、中国、日本、北欧、ギリシャの主流神話には、言葉による創造は見られない。これらの文化では、創造は物質的・身体的なプロセスとして語られる。


 なぜある文化では言葉が創造の原理となり、別の文化ではそうならなかったのか。文字の発明、都市文明の発達、一神教の発生、哲学的思弁の伝統——様々な要因が複合的に作用したのだろう。


 確実に言えることは、日本神話がこの類型を「持たない」ということ、そしてその不在が日本神話の特質——内在的な神々、身体的な創造、有機的な世界観——と一貫しているということである。

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