【六】身体から現れる

 神の体から、別の神が生まれる。


 性的結合によってではない。殺害によってでもない。神の体の一部から——汗から、涙から、唾から、嘔吐物から、排泄物から、あるいは洗い流された垢から——新しい神々が現れる。


 これが「身体から現れる」という類型である。


 この類型は、【三】の性的結合とも【五】の神殺しとも異なる。交わりはなく、死もない。生きている神の体から、何かが分離し、独立した存在となる。


    ◇ ◇ ◇


 エジプトのヘリオポリス神学では、創造神アトゥムが身体から神々を生み出した。


 【一】で触れたように、アトゥムは原初の水ヌンから自己創造した最初の神である。彼は自慰によって——あるいは別の伝承では、くしゃみと唾によって——シュウ(大気)とテフヌト(湿気)を生み出した。


 自慰による創造は、精液という身体の分泌物から神が生まれることを意味する。くしゃみと唾による創造は、より明確に「身体から現れる」類型に属する。アトゥムがくしゃみをするとシュウが生まれ、唾を吐くとテフヌトが生まれた。


 この神話では、創造は意図的な行為ではない。くしゃみは不随意な反応であり、唾を吐くことも日常的な行為である。世界を構成する重要な神々が、このような些細な身体行為から生まれるというのは、興味深い発想である。


 アトゥムの涙から人間が生まれたという伝承もある。エジプト語で「涙」(レムト)と「人間」(レメト)は音が似ており、この語呂合わせが神話の背景にあるとされる。神の悲しみから人間が生まれた——あるいは、人間の存在は神の涙のように儚いものである——という含意があるのかもしれない。


    ◇ ◇ ◇


 インド神話では、創造神ブラフマーの体の各部位から様々な存在が生まれる。


 ブラフマーの口から神々が生まれ、胸から祖霊が生まれ、腰から人間が生まれ、足から悪魔(アスラ)が生まれた。


 また、ブラフマーの精神的な「子」として、七人の聖仙(サプタリシ)が生まれた。彼らはブラフマーの心から、あるいは思考から生まれたとされる。これは【七】で論じる「言葉・意志で創る」類型との境界領域にある。


 シヴァ神の額の汗から、あるいは怒りから、ヴィーラバドラという恐ろしい神が生まれたという神話もある。感情が身体的な形を取って分離し、独立した存在となる。


    ◇ ◇ ◇


 北欧神話では、原初の巨人ユミルが単独で子を産んだ。


 【四】で触れたように、ユミルは両性具有の存在だった。彼が眠っている間に汗をかき、その汗から男女の霜の巨人が生まれた。左腕の下から男が、右腕の下から女が生まれたのである。


 また、ユミルの両足を擦り合わせると、そこから六つの頭を持つ巨人が生まれた。


 ユミルの場合、性的結合はない。彼は一人で、自分の体から子孫を生み出した。汗という分泌物から、あるいは足の摩擦という身体行為から、新しい存在が現れる。


 これは「身体から現れる」類型の典型例である。原初の存在は、他者を必要とせず、自らの体から増殖していく。


    ◇ ◇ ◇


 中国神話では、盤古の体から生まれた寄生虫が人間になったという伝承がある。


 盤古が死んだとき、彼の体には多くの寄生虫がいた。風に吹かれて、それらの寄生虫は人間に変わった。


 この神話は、人間の起源を「神の体から生まれた虫」に求めている。あまり名誉ある起源ではないように見えるが、人間が神の体と直接的なつながりを持っていることを示している。


 女媧が黄土をこねて人間を作ったという神話がより有名だが、盤古の寄生虫の話も並行して伝わっている。中国神話における人間創造には、複数の伝承が共存しているのである。


    ◇ ◇ ◇


 ギリシャ神話では、ゼウスの頭からアテナが生まれた。


 ゼウスは知恵の女神メティスを最初の妻とした。しかし、メティスの子がゼウスを超える力を持つという予言があった。ゼウスは妊娠したメティスを呑み込んだ。


 やがてゼウスは激しい頭痛に苦しむようになった。ヘパイストス(鍛冶の神)が斧でゼウスの頭を割ると、そこから完全武装したアテナが飛び出した。


 アテナは母の胎内ではなく、父の頭から生まれた。これは「身体から現れる」類型の変形である。アテナが知恵と戦略の女神であることは、彼女が「頭」から生まれたこととつながっている。


 同様に、ディオニュソスはゼウスの腿から生まれた。母セメレがゼウスの真の姿を見て焼け死んだとき、ゼウスは胎児を自分の腿に縫い込み、臨月まで育てた。ディオニュソスは「二度生まれた者」と呼ばれる。


    ◇ ◇ ◇


 ■日本の場合:禊と化生


 日本神話において、「身体から現れる」類型は極めて重要な位置を占めている。


 最も重要な例は、イザナギのみそぎからの神々の誕生である。


 イザナギは黄泉国からイザナミを連れ戻そうとして失敗し、穢れを負って地上に戻った。彼は筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原あわぎはらで禊を行った。


 『古事記』は、この禊から生まれた神々を詳細に列挙している。


 まず、イザナギが身に着けていたものを投げ捨てると、そこから神々が生まれた。杖からは衝立船戸神ツキタツフナトノカミが、帯からは道之長乳歯神ミチノナガチハノカミが、袋からは時量師神トキハカシノカミが、衣からは煩累之宇斯能神ワズライノウシノカミが生まれた。


 次に、水に入って身を清めると、黄泉国の穢れから禍を司る神々——八十禍津日神ヤソマガツヒノカミ大禍津日神オオマガツヒノカミ——が生まれた。その禍を直すために、神直毘神カムナオビノカミ大直毘神オオナオビノカミ伊豆能売神イズノメノカミが生まれた。


 水底で身を清めると底津綿津見神ソコツワタツミノカミ底筒之男命ソコツツノオノミコトが、中ほどで清めると中津綿津見神ナカツワタツミノカミ中筒之男命ナカツツノオノミコトが、水面で清めると上津綿津見神ウワツワタツミノカミ上筒之男命ウワツツノオノミコトが生まれた。


 そして最後に、左目を洗うと天照大御神アマテラスオオミカミが、右目を洗うと月読命ツクヨミノミコトが、鼻を洗うと建速須佐之男命タケハヤスサノオノミコトが生まれた。


 これが「三貴子」の誕生である。日本神話の最も重要な神々——太陽神アマテラス、月神ツクヨミ、海原の神スサノオ——は、イザナギの体から、禊という行為を通じて生まれたのである。


    ◇ ◇ ◇


 禊からの神々の誕生は、日本神話における「身体から現れる」類型の最も発達した形態である。


 注目すべき特徴がいくつかある。


 第一に、穢れと清めの弁証法である。


 イザナギは黄泉国の穢れを負っている。禊はその穢れを洗い流す行為である。しかし、洗い流された穢れから禍の神々が生まれ、それを直すための神々も生まれる。穢れそのものが神格化されるのである。


 そして最終的に、最も清らかな部分——目と鼻——から最も貴い神々が生まれる。穢れを通過し、清めの過程を経ることで、かえって最高の存在が生まれる。これは単純な「清浄=善」「穢れ=悪」という図式ではない。


 第二に、身体部位と神格の対応である。


 左目から太陽神、右目から月神、鼻から海原の神が生まれる。なぜ目から天体の神が、鼻から海の神が生まれるのか。


 一つの解釈は、目が「見る」器官であり、太陽と月は「見られる」天体だからである。太陽と月は空で最も目立つ存在であり、目との連想が働いたのかもしれない。


 鼻からスサノオが生まれることについては、鼻が呼吸と関係し、風や嵐と連想されること、あるいは鼻が顔の中心より下にあり、地上・海洋との対応が意識されたこと、などが推測されている。


 第三に、禊が性的結合の代替となっている点である。


 三貴子の誕生には、母親がいない。イザナミはすでに黄泉国の住人となっている。イザナギは単独で、自分の体を洗うことによって、最も重要な子どもたちを生み出した。


 これは【三】で論じた性的結合とは全く異なる生殖の論理である。国土と多くの神々は性的結合から生まれたが、三貴子は単独の身体行為から生まれた。


    ◇ ◇ ◇


 イザナミの身体からも神々が生まれている。


 【三】で触れたように、イザナミは火の神カグツチを産んで瀕死の状態になった。その苦しみの中で、彼女の嘔吐物からは金山毘古神カナヤマビコノカミ金山毘売神カナヤマビメノカミが生まれた。糞からは波邇夜須毘古神ハニヤスビコノカミ波邇夜須毘売神ハニヤスビメノカミが生まれた。尿からは弥都波能売神ミツハノメノカミ和久産巣日神ワクムスビノカミが生まれた。


 嘔吐物から金属の神が、糞から土の神が、尿から水の神が生まれる。排泄物という「穢れ」から、世界を構成する重要な要素を司る神々が生まれるのである。


 これは、穢れと神聖さの関係についての日本的な理解を示している。排泄物は穢れの典型であるが、そこから神が生まれる。穢れそのものが、神聖さの源泉となりうる。この両義性は、日本の宗教観の特徴の一つである。


    ◇ ◇ ◇


 スサノオとアマテラスの「ウケヒ」(誓約)も、身体から神が生まれる例として挙げられる。


 スサノオが高天原に上ってきたとき、アマテラスは弟の意図を疑った。スサノオは自分の潔白を証明するために、ウケヒを提案した。


 アマテラスはスサノオの十拳剣とつかのつるぎを受け取り、三つに折って、天の真名井の水で濯いで噛み砕き、息を吹きかけた。すると、宗像三女神——多紀理毘売命タキリビメノミコト市寸島比売命イチキシマヒメノミコト多岐都比売命タキツヒメノミコト——が生まれた。


 スサノオはアマテラスの八尺瓊勾玉やさかにのまがたまを受け取り、同様に真名井の水で濯いで噛み砕き、息を吹きかけた。すると、五柱の男神——正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミノミコト天之菩卑能命アメノホヒノミコト天津日子根命アマツヒコネノミコト活津日子根命イクツヒコネノミコト熊野久須毘命クマノクスビノミコト——が生まれた。


 このウケヒでは、物(剣、勾玉)を口に含み、息を吹きかけることで神が生まれる。物と身体と息が組み合わさって、新しい存在を生み出す。これは【八】で論じる「儀式・誓約から生まれる」類型とも重なるが、身体(口、息)が介在している点で「身体から現れる」類型にも属している。


    ◇ ◇ ◇


 日本神話における「身体から現れる」類型の特徴をまとめると、以下のようになる。


 第一に、穢れと清めの弁証法が中心的な役割を果たしている。黄泉国の穢れから禍の神が生まれ、禊から三貴子が生まれる。排泄物から金属・土・水の神が生まれる。穢れは単なる否定的なものではなく、神聖さの源泉でもある。


 第二に、身体部位と生まれる神々の間に対応関係がある。目から天体の神、鼻から海原の神、嘔吐物から金属の神、糞から土の神、尿から水の神。身体は宇宙の縮図であり、各部位が世界の各領域に対応している。


 第三に、この類型が最も重要な神々——三貴子——の誕生を説明している。日本神話において、性的結合から生まれた神々は多いが、最高位の神々は身体から(禊を通じて)生まれた。これは日本神話の独自の特徴と言える。


    ◇ ◇ ◇


 「身体から現れる」という発想は、神と世界の関係についての一つの理解を示している。


 世界は神の「外」に作られるのではない。世界は神の「内」から、神の体から、分離して現れる。神の汗が、涙が、息が、そして洗い流された垢が、世界を構成する存在となる。


 この発想は、世界が神と連続していることを意味する。世界は神の体の延長であり、神の分身である。神と世界は切り離された別々の存在ではなく、一つの連続体を形成している。


 日本神話は、この発想を極めて発達した形で持っている。禊という行為——水で体を洗うという日常的な行為——が、最高神の誕生につながる。日常と神聖、穢れと清浄、身体と宇宙は、切り離すことができないものとして語られているのである。

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