【五】神殺し・犠牲から生じる

 神が死ぬ。


 その死から、何かが生まれる。新しい神々が、食物が、人間が、あるいは世界の秩序が。死は終わりではなく、創造の契機となる。


 これが「神殺し・犠牲から生じる」という類型である。【四】の巨人解体型と重なる部分もあるが、ここでは殺される対象が必ずしも「原初の巨人」ではなく、また生まれるものが「世界そのもの」ではない場合を中心に論じる。


 神話における神殺しは、大きく三つのパターンに分けられる。


 第一に、「自己犠牲」。神が自ら進んで命を捧げ、その犠牲から何かが生まれる。


 第二に、「他者による殺害」。神が他の神によって殺され、その遺体や血から何かが生まれる。


 第三に、「食物起源」。殺された神の遺体から、穀物や作物が生まれる。これは「ハイヌウェレ型」とも呼ばれる。


    ◇ ◇ ◇


 アステカ神話の「第五の太陽」の創造は、自己犠牲による創造の典型例である。


 アステカの宇宙論では、現在の世界は「第五の太陽」の時代である。それ以前に四つの太陽(四つの世界)があったが、すべて滅びた。第五の太陽を創造するため、神々はテオティワカンに集まった。


 新しい太陽になる神が必要だった。裕福で美しい神テクシステカトルが名乗り出たが、同時に、貧しく醜い神ナナワツィンも立候補した。


 巨大な炎が焚かれた。テクシステカトルは四度、炎に飛び込もうとしたが、恐怖のあまり四度とも引き返した。


 ナナワツィンは躊躇しなかった。彼は一度で炎の中に飛び込み、燃え尽きた。それを見たテクシステカトルも、ようやく炎に身を投じた。


 ナナワツィンは太陽となって東から昇った。遅れて飛び込んだテクシステカトルは月となった。しかし太陽は動かなかった。神々は太陽を動かすために、自分たちも犠牲にならなければならないことを悟った。風の神ケツァルコアトルが神々を殺し、その心臓の力で太陽は動き始めた。


 アステカ神話では、世界の維持そのものが犠牲を要求する。太陽が毎日昇るのは、神々の犠牲があったからである。そしてこの神話は、アステカの人身供犠を正当化する論理となった。太陽を動かし続けるために、心臓と血が必要なのだ、と。


    ◇ ◇ ◇


 メソポタミアの『エヌマ・エリシュ』では、神キングーの血から人間が創られる。


 マルドゥクがティアマトを倒した後、神々は勝利を祝った。しかし神々は、自分たちに奉仕する存在を欲した。マルドゥクは人間を創ることを提案した。


 では、人間は何から創られるのか。マルドゥクはティアマトの軍勢を率いた神キングーを捕らえ、殺害した。キングーの血が集められ、それを粘土に混ぜて人間が形作られた。


 人間は神の血から創られた。しかしその神は、反逆者として殺された神である。人間の本質には、神聖さと反逆性が同居している。この両義性が、人間存在の複雑さを説明する。


 また、人間が創られた目的が「神々への奉仕」であるという点も重要である。人間は神殿を建て、供物を捧げ、神々の世話をするために存在する。神殺しから生まれた人間は、残りの神々に仕える運命を負っている。


    ◇ ◇ ◇


 ギリシャ神話のオルフェウス教には、ディオニュソスの死と人間の起源にまつわる神話がある。


 ゼウスとペルセポネの子である幼児ディオニュソス(この文脈ではザグレウスとも呼ばれる)は、ティターン神族に襲われた。ティターンたちは幼児を八つ裂きにし、煮て、食べた。


 怒ったゼウスはティターンたちを雷霆で焼き尽くした。その灰から人間が生まれた。


 この神話によれば、人間はティターンの灰から生まれたため、ティターン的な性質——粗暴で、地上に縛られた性質——を持っている。しかし同時に、ティターンはディオニュソスの肉を食べていたため、人間の中にはディオニュソス的な性質——神聖で、天上的な性質——も含まれている。


 人間の魂は神聖であるが、肉体は粗暴である。オルフェウス教の修行は、ティターン的な部分を浄化し、ディオニュソス的な部分を解放することを目指す。


 この神話は、神殺しが人間の二重性——肉体と魂、地上と天上、罪と聖——の起源を説明する例である。


    ◇ ◇ ◇


 「ハイヌウェレ型」と呼ばれる神話類型がある。


 インドネシア・セラム島のウェマーレ族の神話に登場するハイヌウェレは、ココヤシの花から生まれた少女である。彼女は不思議な力を持ち、排泄物として様々な宝物を生み出した。


 村人たちは踊りの祭りを催した。ハイヌウェレは祭りの中心に立ち、踊り手たちに宝物を配った。しかし村人たちは彼女を恐れ、嫌悪した。祭りの最終夜、村人たちはハイヌウェレを踊りの輪の中心で生き埋めにして殺した。


 ハイヌウェレの父は娘の遺体を掘り起こし、切り刻んで各地に埋めた。遺体の各部分から、それまで存在しなかった栽培植物——芋類——が生えてきた。


 この神話は、民族学者アドルフ・イェンゼンによって「ハイヌウェレ型」として定式化された。イェンゼンは、世界各地の農耕民族に類似した神話が存在することを指摘した。


 ハイヌウェレ型神話の特徴は以下の通りである。


 第一に、殺されるのが女神または少女であること。第二に、殺害の動機が嫌悪や恐怖であること。第三に、遺体から食用植物(特に芋類や穀物)が生まれること。第四に、この出来事が農耕の起源となること。


 栽培植物の起源が殺人にあるという発想は、農耕が「自然」ではなく「文化」の所産であることを示唆している。植物を育て、収穫し、食べるという行為は、原初の殺害を繰り返し再現することなのである。


    ◇ ◇ ◇


 ■日本の場合:オオゲツヒメとウケモチ


 日本神話には、ハイヌウェレ型に分類される神話が存在する。オオゲツヒメとウケモチの神話である。


 『古事記』では、スサノオが高天原を追放された後、オオゲツヒメ(大気津比売神)に食物を求めた。


 オオゲツヒメは、鼻、口、尻から様々な食物を取り出し、それを調理してスサノオに差し出した。


 スサノオはその様子を覗き見てしまった。食物が体の穴から出されていることを知った彼は、「穢らわしいものを食べさせた」と怒り、オオゲツヒメを殺した。


 殺されたオオゲツヒメの遺体から、様々な穀物や蚕が生まれた。頭からは蚕が、目からは稲の種が、耳からは粟が、鼻からは小豆が、陰部からは麦が、尻からは大豆が生じた。


 神産巣日御祖神カミムスビノミオヤノカミがこれらを取って種とした。これが五穀の起源である。


    ◇ ◇ ◇


 『日本書紀』には、類似した話がウケモチノカミ(保食神)の神話として記されている。


 アマテラスは弟のツクヨミに、葦原中国にいるウケモチを見に行くよう命じた。ツクヨミがウケモチのもとを訪れると、ウケモチは口から飯を出し、海に向かって魚を吐き出し、山に向かって獣を吐き出して、御馳走としてツクヨミをもてなそうとした。


 ツクヨミは怒った。「穢らわしい。口から吐き出したものを私に食べさせるとは」。そしてウケモチを剣で斬り殺した。


 ウケモチの遺体からは様々なものが生まれた。頭には牛馬が、額には粟が、眉には蚕が、目には稗が、腹には稲が、陰部には麦と大豆と小豆が生じた。


 報告を聞いたアマテラスは激怒した。「汝は悪しき神なり。もう汝とは会いたくない」。これ以降、アマテラスとツクヨミは昼と夜に分かれて住むようになった。太陽と月が同時に空にいないのは、この出来事のためである。


    ◇ ◇ ◇


 オオゲツヒメとウケモチの神話は、世界のハイヌウェレ型神話と共通の構造を持っている。


 女神が殺され、その遺体から食用植物が生まれる。殺害の動機は嫌悪感である。この出来事が農耕(穀物栽培)の起源となる。


 しかし、日本の神話には独自の特徴もある。


 第一に、「穢れへの嫌悪」が明確に動機として語られている点である。


 スサノオもツクヨミも、食物が体から出されることを「穢らわしい」と感じる。これは単なる嫌悪ではなく、「穢れ」という宗教的観念に基づく反応である。


 ハイヌウェレ神話では、村人たちがハイヌウェレを殺す動機は、彼女の不思議な力への恐怖と嫉妬である。日本の神話では、動機がより明確に「穢れ」の観念と結びついている。


 日本神話において、身体から出るもの——排泄物、嘔吐物、血液など——は穢れの典型である。食物がそのような経路で生産されることは、食物を穢すことを意味する。この穢れへの強い反応が、神殺しを引き起こすのである。


    ◇ ◇ ◇


 第二に、殺害者が罰を受ける(あるいは非難される)点である。


 『日本書紀』では、ツクヨミはアマテラスから「悪しき神」と呼ばれ、絶交される。姉は弟の行為を正当なものとは認めなかった。


 『古事記』ではスサノオは直接的な罰を受けていないが、彼はすでに高天原を追放された後であり、この殺害が彼の粗暴な性格の一例として語られている。


 インドネシアのハイヌウェレ神話では、殺した村人たちがその後どうなったかは詳しく語られない。日本神話では、殺害者の道徳的評価が物語の中で示されている。


    ◇ ◇ ◇


 第三に、この神話が天体現象(太陽と月の分離)の起源譚と結びついている点である。


 『日本書紀』のウケモチ神話は、太陽と月がなぜ別々に空に現れるかを説明する。アマテラス(太陽)とツクヨミ(月)の不和が、昼夜の分離の原因となる。


 食物起源神話と天体神話が一つの物語に統合されているのは、日本神話の特徴である。殺害という一つの事件が、複数の起源を説明する。


    ◇ ◇ ◇


 カグツチの殺害も、神殺しから神々が生まれる例として重要である。


 【三】で触れたように、イザナミは火之迦具土神ヒノカグツチノカミを産んだとき、陰部を焼かれて死んだ。怒ったイザナギは、十拳剣でカグツチを斬り殺した。


 カグツチの血は岩や剣に飛び散り、そこから多くの神々が生まれた。石拆神イワサクノカミ根拆神ネサクノカミ石筒之男神イワツツノオノカミ甕速日神ミカハヤヒノカミ樋速日神ヒハヤヒノカミ建御雷之男神タケミカヅチノオノカミイツノ比売神ヒメノカミなど。


 また、カグツチの遺体の各部分からも神々が生まれた。頭から正鹿山津見神マサカヤマツミノカミ、胸から淤縢山津見神オドヤマツミノカミ、腹から奥山津見神オクヤマツミノカミ、陰部から闇山津見神クラヤマツミノカミ、左手から志芸山津見神シギヤマツミノカミ、右手から羽山津見神ハヤマツミノカミ、左足から原山津見神ハラヤマツミノカミ、右足から戸山津見神トヤマツミノカミ


    ◇ ◇ ◇


 カグツチ神話は、【四】で論じた巨人解体型と構造的に似ている部分がある。遺体の各部位から異なる神々が生まれるという対応関係は、ユミルやプルシャの神話を想起させる。


 しかし重要な違いがある。


 ユミルやプルシャの遺体からは「世界の要素」——天地、山河、太陽、月——が生まれる。カグツチの遺体から生まれるのは「山の神々」(ヤマツミ神)である。世界そのものではなく、世界の中の特定の領域を司る神々が生まれるのである。


 カグツチ神話は、「巨人解体による世界創造」の構造を知りながら、それを「神殺しによる神々の誕生」に縮小したもの——と解釈することもできるかもしれない。あるいは、両者は独立に発生した類似のパターンなのかもしれない。


    ◇ ◇ ◇


 日本神話における神殺しには、もう一つの特徴がある。殺害が「復讐」や「怒り」によって動機づけられている点である。


 イザナギがカグツチを殺すのは、妻イザナミの死に対する怒りと悲しみのためである。スサノオがオオゲツヒメを殺すのは、穢れに対する嫌悪のためである。ツクヨミがウケモチを殺すのも同様である。


 これに対して、アステカのナナワツィンは自ら進んで火に飛び込む。インドのプルシャは神々によって供犠として捧げられる。メソポタミアのキングーは反逆者として処刑される。


 日本神話の神殺しには、「自己犠牲」の要素がほとんどない。殺される神は、自ら死を選んでいるわけではない。殺す側の怒りや嫌悪が、殺害を引き起こす。


 これは日本神話の特徴の一つと言えるだろう。神殺しは崇高な犠牲ではなく、感情的な反応として語られる。そしてその結果として、意図せず新しい存在が生まれる。創造は計画されたものではなく、暴力の副産物なのである。


    ◇ ◇ ◇


 神殺しから何かが生まれるという発想は、世界中の神話に見られる。


 アステカでは、自己犠牲が太陽を動かす。メソポタミアでは、反逆者の血が人間を創る。オルフェウス教では、神の死が人間の二重性を説明する。ハイヌウェレ型では、女神の遺体が栽培植物をもたらす。


 日本では、神殺しが穀物の起源となり、山の神々を生み出す。その動機は穢れへの嫌悪であり、復讐であり、結果は意図されたものではない。


 死から生が生まれる。破壊から創造が生まれる。この逆説は、神話的思考の根底にある洞察の一つである。しかし、その逆説がどのように語られるか——自己犠牲として、処刑として、憤怒の結果として——には、それぞれの文化の刻印が刻まれている。

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