【二】宇宙卵から孵る

 卵は完璧な形をしている。


 外側は滑らかな殻で覆われ、内側には生命が宿る。卵は閉じられた小宇宙であり、その中で胚は育ち、やがて殻を破って外界に出てくる。鳥が、爬虫類が、魚が、昆虫が、卵から孵る。卵は「始まり」の象徴であり、「可能性」の象徴であり、「完全性」の象徴である。


 世界中の神話が、この卵のイメージを宇宙の起源に投影した。


 太古、世界が始まる前、そこには巨大な卵があった。宇宙卵である。その卵が割れたとき、神が孵り、天と地が分かれ、世界が生まれた。


 これが「宇宙卵から孵る」という類型である。


    ◇ ◇ ◇


 フィンランドの民族叙事詩『カレワラ』は、宇宙卵神話の美しい一例を伝えている。


 太古、大気の女神イルマタルが原初の海に浮かんでいた。彼女は七百年もの間、波間を漂い続けた。あるとき、一羽の水鳥——キンクロハジロ——が巣を作る場所を探して飛んでいた。水鳥はイルマタルの膝を見つけ、そこに降り立ち、卵を産んだ。


 水鳥は卵を温め始めた。イルマタルの膝は熱くなり、彼女は足を動かした。その拍子に卵が海に転がり落ち、砕けた。


 砕けた卵から、世界が生まれた。卵の下半分は大地となり、上半分は天空となった。黄身は太陽となり、白身は月となり、殻の斑点は星々となった。


 この神話の特徴は、宇宙卵が「偶然に」割れるという点である。イルマタルは意図して卵を割ったのではない。彼女は熱さに耐えかねて足を動かしただけだ。創造は計画されたものではなく、偶発的な出来事だった。


 また、卵を産んだのが水鳥であるという点も興味深い。水鳥は水と空の両方に属する存在である。原初の海(水)と、やがて生まれる天空(空)を媒介する存在として、水鳥は選ばれたのかもしれない。


    ◇ ◇ ◇


 中国の盤古ばんこ神話は、宇宙卵と原初の巨人を組み合わせた複合型の創世神話である。


 太古、天地は混沌として分かれておらず、その状態は鶏の卵のようだった。その卵の中で、盤古が生まれた。


 盤古は一万八千年のあいだ卵の中で眠り続け、成長した。やがて目を覚ました盤古は、暗闘の中で斧を振るい、卵を割った。軽くて清いものは上昇して天となり、重くて濁ったものは下降して地となった。


 盤古は天と地の間に立ち、天を支えた。天は一日に一丈ずつ高くなり、地は一日に一丈ずつ厚くなり、盤古もまた一日に一丈ずつ背が伸びた。こうしてさらに一万八千年が過ぎ、天と地は完全に分離した。


 その仕事を終えた盤古は死んだ。彼の遺体は世界を構成する要素となった。息は風と雲に、声は雷に、左目は太陽に、右目は月に、四肢は大地の四極に、血は河川に、筋は道に、肉は田畑に、髪と髭は星々に、皮膚と体毛は草木に、歯と骨は金属と岩石に、精液は真珠に、汗は雨となった。


 盤古神話は、【一】で論じた「虚無からの自己生成」、本章の「宇宙卵から孵る」、そして【四】で論じる「原初の巨人の解体から」という三つの類型を一つの物語に統合している。盤古は卵の中で「自己生成」し、「卵から孵り」、死後は「解体されて世界となる」。中国神話の統合力を示す好例である。


    ◇ ◇ ◇


 インド神話のヒラニヤガルバ(黄金の胎児)は、【一】でも触れたが、宇宙卵との関連でも重要である。


 『リグ・ヴェーダ』では、ヒラニヤガルバは原初の水に浮かぶ存在として描かれる。後の文献になると、このイメージは「ブラフマーンダ」(ブラフマーの卵)として発展する。


 『マヌ法典』によれば、自存者(スヴァヤンブー)が最初に水を創り、そこに種子を投じた。種子は黄金の卵となり、太陽のように輝いた。その卵の中で、自存者自身がブラフマーとして生まれた。ブラフマーは卵の中で一年間を過ごした後、思考の力だけで卵を二つに割った。上半分は天となり、下半分は地となった。


 インド神話における宇宙卵は、「黄金」という属性を持つ。黄金は不変・不滅・純粋の象徴であり、太陽との連想も強い。原初の完全性を表現するのに、黄金以上にふさわしい素材はなかったのだろう。


 また、ブラフマーが「思考の力で」卵を割るという点も注目に値する。物理的な斧ではなく、精神的な力で創造を行う。これは【七】で論じる「言葉・意志で創る」類型との接点を示している。


    ◇ ◇ ◇


 エジプトのヘルモポリス神学にも、宇宙卵の観念がある。


 ヘルモポリス(トート神の都市)では、「八柱神」(オグドアド)と呼ばれる原初の神々が信仰されていた。彼らは四対の男女神であり、原初の水、無限、暗闘、不可視性を象徴していた。


 この八柱神が協力して、原初の丘に宇宙卵を産んだ(あるいは創った)。卵が割れ、そこから太陽神ラーが誕生した。ラーの光が世界を照らし、創造が始まった。


 ヘルモポリス神話の特徴は、卵を産む主体が複数の神々であるという点である。フィンランド神話の水鳥、中国神話の混沌とは異なり、ここでは八柱の神々が共同で卵を創造している。宇宙卵は「発見される」ものでも「偶然に割れる」ものでもなく、「意図的に創られる」ものなのである。


    ◇ ◇ ◇


 ギリシャのオルフェウス教は、公的なオリンポス宗教とは異なる密儀的伝統を持っていた。そこにも宇宙卵神話がある。


 オルフェウス教の宇宙論では、最初にクロノス(時間)が存在した。クロノスはアイテール(上層大気)とカオス(虚空)を生み、その中に銀色の卵を創った。


 卵からパネス(あるいはプロトゴノス、エロス)が孵った。パネスは両性具有の神であり、「最初に生まれたもの」を意味する名を持つ。パネスは光を放ち、世界を照らし、他の神々を生み出した。


 オルフェウス教の宇宙卵は「銀色」である。インドの「黄金の卵」と対照的だ。銀は月と結びつき、月は神秘と変容を象徴する。密儀宗教にふさわしい色彩選択と言えるかもしれない。


    ◇ ◇ ◇


 ポリネシアのタヒチ神話では、創造神タアロアが卵の殻の中にいた。


 太古、タアロアは「ルモイア」と呼ばれる卵の殻の中に、一人で座っていた。外には何もなかった。空もなく、海もなく、月も太陽もなかった。タアロアだけが存在していた。


 タアロアは殻を破って外に出た。しかし外には何もなかったので、彼は殻を使って世界を創ることにした。殻の一部は大地となり、別の一部は天蓋となった。タアロア自身の体からも世界の要素が生まれた。彼の背骨は山脈となり、肋骨は丘陵となり、内臓は雲となった。


 この神話は、宇宙卵と巨人解体を組み合わせている点で、盤古神話と構造的に似ている。ただし、盤古が「死んで」世界となるのに対し、タアロアは「自ら」世界を創り出す。タアロアは死なない。彼は今も世界の中に遍在している。


    ◇ ◇ ◇


 アフリカのドゴン族(マリ共和国)の創世神話は、その複雑さで知られている。


 創造神アンマは、最初、宇宙卵の形をしていた。卵の中には四つの鎖骨があり、それぞれが四元素(水、火、土、空気)と四方位を象徴していた。


 アンマは卵を開いて世界を創造した。しかし創造の過程で混乱が生じ、秩序と無秩序の闘争が始まった。この闘争が、世界の不完全さの起源である。


 ドゴン神話の宇宙卵は、単なる「始まり」の器ではなく、すでに構造——四元素と四方位——を内包している。卵が割れることは、その構造が外界に展開することを意味する。


    ◇ ◇ ◇


 朝鮮半島の建国神話には、卵から英雄が生まれる話が繰り返し現れる。


 高句麗の始祖・朱蒙しゅもうは、河伯(河の神)の娘・柳花が日光に感じて産んだ卵から生まれた。柳花は卵を捨てたが、動物たちが卵を守った。やがて卵から男児が孵り、朱蒙と名づけられた。朱蒙は弓の名手となり、高句麗を建国した。


 新羅の始祖・赫居世かくきょせいは、蘿井らせいという井戸のそばで発見された大きな卵から生まれた。卵はひさごのような形をしており、光り輝いていた。卵を割ると、中から端正な男児が現れた。


 伽耶の始祖・首露王しゅろおうは、天から降ってきた金の箱の中にあった六つの卵の一つから生まれた。六つの卵からはそれぞれ男児が孵り、六伽耶の王となった。


 これらの朝鮮半島の卵生神話は、「宇宙卵」というよりも「英雄誕生譚」としての性格が強い。卵から生まれるのは世界ではなく、王国の始祖である。卵は天や神との特別なつながりを示す聖なる印であり、卵から生まれた者は統治する正統性を持つ。


 これは重要な区別である。宇宙卵神話が「世界はどのように始まったか」を問うのに対し、朝鮮半島の卵生神話は「この王朝はなぜ正統なのか」を問うている。卵という同じモチーフが、宇宙論と政治的正統性という異なる目的に使われているのである。


    ◇ ◇ ◇


 宇宙卵神話の分布を見ると、興味深いパターンが浮かび上がる。


 この類型は、フィンランドから東南アジア、ポリネシアまで、ユーラシア大陸の周縁部に広く分布している。中国、インド、エジプトといった古代文明の中心地にも存在する。一方、純粋な形での宇宙卵神話は、メソポタミアやギリシャの主流神話には見られない(オルフェウス教は周縁的な密儀宗教である)。


 比較神話学者マイケル・ウィッツェルは、宇宙卵神話を「ローラシア神話」の特徴的パターンの一つとして挙げている。ローラシア神話とは、アフリカを出た現生人類がユーラシア大陸を東へ移動する中で発展させた神話体系であり、創造から終末までの「物語」構造を持つとされる。


 卵のイメージは、おそらく鳥類の観察から生まれた。卵の殻を割ると、中から生命が現れる。この驚異的な現象を、人々は宇宙の起源に投影した。閉じた殻の中で何かが育ち、やがて殻を破って世界が展開する——この直観は、人類の広い範囲で共有されたのである。


    ◇ ◇ ◇


 ■日本の場合:存在しない


 では、日本神話に宇宙卵はあるのだろうか。


 結論から言えば、日本神話には「卵から神が孵る」という構造は


 しかし、これは単純な「不在」ではない。


 日本書紀の冒頭を、もう一度確認してみよう。


 「いにしへ、天地未だわかれず、陰陽分れず、渾沌こんとんとして鶏子とりのこの如く、溟涬めいけいとしてきざしを含めり」


 「渾沌として鶏子の如く」——混沌として鶏の卵のようだった。


 この表現は、中国の盤古神話を記した『三五歴紀』の一節とほぼ同じである。


 「天地渾沌如鶏子、盤古生其中」——天地は混沌として鶏の卵のごとし、盤古その中に生まる。


 日本書紀の編纂者は、中国の宇宙卵神話を明らかに知っていた。「鶏子の如く」という比喩を借用しているのだから、知らなかったはずがない。


 しかし、決定的な違いがある。


 中国の盤古神話では、盤古は卵の生まれ、卵を天地を分けた。卵の内部で成長し、卵から孵り出るという構造がある。


 日本書紀では、「卵のような混沌」という比喩はあるが、その卵の中に神がいるわけではない。天地は「自然に」分離する。清いものが上昇して天となり、重いものが下降して地となる。卵を割る神はいない。卵から孵る神もいない。


 神が「成る」のは、天地が分離したである。


 つまり日本書紀は、中国から「卵のような混沌」という宇宙論的イメージをが、「卵から神が孵る」という神話構造はのである。


 古事記に至っては、卵の比喩すら存在しない。「天地初めて発けし時、高天原に成りませる神」から始まる。高天原という場所がすでに前提されており、混沌としての卵のイメージはない。


    ◇ ◇ ◇


 ただし、記紀の中に卵生神話が全く存在しないわけではない。


 『古事記』応神天皇条に、天之日矛アメノヒボコ阿加流比売神アカルヒメノカミの話がある。


 昔、新羅の沼で一人の女が昼寝をしていた。そこに日の光が虹のように差して、女の陰部に当たった。女はたちまち妊娠し、赤い玉を産んだ。その玉を手に入れた天之日矛が床に置くと、玉は美しい娘に変わった。それが阿加流比売神である。


 これは明らかに卵生神話の一種である。日光による感精、玉(卵)からの誕生という構造は、朝鮮半島の始祖神話——朱蒙、赫居世、首露王——と同じ系統に属する。


 しかし注目すべきは、この話の位置づけである。


 第一に、舞台は新羅であり、日本ではない。第二に、これは神代の話ではなく、応神天皇の時代の話として記録されている。第三に、天之日矛は「新羅の国王の子」であり、渡来人として日本にやってきた存在である。


 つまり記紀は、卵生神話を「外来のもの」として扱っているのである。朝鮮半島には卵から生まれる神話がある、それが日本に伝わってきた——そのような認識で記録されている。日本固有の創世神話としては、卵生のモチーフは採用されていない。


    ◇ ◇ ◇


 なぜ、日本神話は宇宙卵を採用しなかったのか。


 第一の仮説は、朝鮮半島との差別化である。


 先に述べたように、高句麗、新羅、伽耶の始祖はすべて卵から生まれている。これらは日本と密接な関係にあった朝鮮半島の王朝である。


 もし天皇家の始祖も「卵から生まれた」とするならば、朝鮮半島の王家と同じ神話構造を共有することになる。八世紀の日本——律令国家として中国に比肩しようとし、朝鮮半島に対しても優位を主張しようとしていた日本——において、これは政治的に望ましくなかったかもしれない。


 「我々の始祖は卵から生まれたのではない。彼らとは違う」——そのような差別化の意図が、宇宙卵の排除につながった可能性がある。


    ◇ ◇ ◇


 第二の仮説は、既存の伝承との両立困難である。


 日本神話には、すでに「独神として成る」という原初神の概念と、「イザナギ・イザナミの性的結合による国生み・神生み」という神話構造があった。


 宇宙卵神話を導入するとすれば、どこに配置するか。卵の中から最初の神が孵るのか。それとも卵から天地が生まれ、その後に神が成るのか。いずれにしても、既存の伝承と整合性を取ることは難しい。


 特に問題なのは、イザナギ・イザナミの「国生み」である。彼らは性的結合によって国土(島々)を「産む」。これは【三】で詳しく論じるが、世界的に見ても珍しい神話構造である。宇宙卵から世界が生まれるなら、イザナギ・イザナミが国を産む余地がなくなる。


 記紀の編纂者たちは、イザナギ・イザナミの神話を中心に据えることを選んだ。そのためには、宇宙卵は邪魔だったのかもしれない。


    ◇ ◇ ◇


 第三の仮説は、「孵化」という受動性の忌避である。


 卵から孵るとは、殻の中で育ち、殻を破って出てくることである。これは、ある意味で「受動的」な誕生である。卵という環境に守られ、養われ、その結果として生まれ出る。


 一方、日本神話の「成る」は、どこからでもなく、何にも依存せず、自発的に「そうなる」ことである。成ることには、卵のような容器も、親のような保護者も必要ない。


 また、「産む」という動詞は能動的である。イザナミは国土を「産む」。母体が主体的に生み出すのであって、卵から自動的に孵るのではない。


 日本神話は、「成る」と「産む」という二つの動詞を中心に構成されている。どちらも、宇宙卵の「孵る」とは異なる論理を持っている。


    ◇ ◇ ◇


 第四の仮説は、単純に「伝播しなかった」というものである。


 宇宙卵神話は、南方系の神話(東南アジア→中国南部→朝鮮半島)と、北方系の神話(シベリア→フィンランド)の両方に存在する。しかし日本列島には、これらとは別系統の神話が先に定着していた可能性がある。


 神話は必ずしも隣接する地域から伝わるわけではない。海流、人口移動、交易路などの複雑な要因によって、あるモチーフは伝わり、別のモチーフは伝わらない。宇宙卵は、たまたま日本列島の基層神話に含まれていなかったのかもしれない。


 ただし、この仮説は日本書紀の「鶏子の如く」という表現と矛盾する。少なくとも八世紀の編纂者たちは、宇宙卵の概念を知っていた。知っていて採用しなかったのだとすれば、単なる「伝播しなかった」では説明がつかない。


    ◇ ◇ ◇


 最も可能性が高いのは、これらの要因の複合である。


 日本列島の基層神話には、元々宇宙卵のモチーフがなかった(あるいは希薄だった)。八世紀に記紀が編纂されるとき、中国の宇宙論は参照されたが、卵から神が孵るという構造は、既存の伝承とも政治的要請とも合致しなかった。結果として、「卵のような混沌」という比喩的表現だけが借用され、宇宙卵神話の核心——卵から孵る——は排除された。


 これは「欠如」ではなく「選択」である。


 日本神話に宇宙卵がないのは、日本人が宇宙卵を知らなかったからではない。知っていて、採用しなかったのである。


    ◇ ◇ ◇


 「ない」ことは、しばしば「ある」ことと同じくらい雄弁である。


 日本神話に宇宙卵がないという事実は、記紀の編纂者たちが何を採用し、何を排除したかを示している。彼らは中国の宇宙論を参照しながらも、独自の神話構造——「成る」原初神と「産む」国生みの組み合わせ——を構築した。


 その選択の背後には、政治的意図があったかもしれない。文化的独自性の主張があったかもしれない。あるいは、より古い伝承への忠実さがあったかもしれない。


 確実に言えることは、日本神話が世界神話の一つのパターンを「意識的に」採用しなかったということである。宇宙卵の不在は、日本神話の「特徴」なのである。

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