【一】虚無からの自己生成
世界の始まりに、何があったのか。
この問いに対する最もラディカルな答えは、「何もなかった」である。神も、物質も、空間も、時間もなかった。あったのは虚無だけだった。そしてその虚無の中から、最初の神が自ら現れた。
親はいない。原因もない。誰かに創られたのでもない。ただ、「在る」ようになった。
これが「虚無からの自己生成」である。比較神話学では、この類型を「creatio ex nihilo」(無からの創造)と呼ぶことがあるが、後述するように、この用語には注意が必要である。
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エジプトのヘリオポリス神学では、最初の神アトゥムがこの類型に属する。
太古、世界はヌンと呼ばれる原初の水に覆われていた。ヌンは混沌であり、形のない可能性であり、まだ何も分化していない状態だった。そのヌンの中から、アトゥムは自らの力で立ち上がった。
アトゥムという名前は「完全なるもの」と「存在しないもの」の両方を意味するとされる。彼は自己充足的な存在であり、外部からの助けを必要としなかった。彼は自らの手で——より正確に言えば、自慰によって——シュウ(大気)とテフヌト(湿気)を生み出した。あるいは別の伝承では、くしゃみをしてシュウを、唾を吐いてテフヌトを生んだともいう。
重要なのは、アトゥムが「自己創造」したという点である。彼には親がいない。ヌンという原初の水は「場」ではあるが、アトゥムの「親」ではない。アトゥムは自らを自ら生み出した。これは論理的には矛盾している——存在しないものが、どうやって自分自身を存在させるのか——が、神話はその矛盾を恐れない。最初の一歩は、論理を超えたところにあるのだ。
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ギリシャ神話では、ヘシオドスの『神統記』がこの問題を扱っている。
「まずはじめにカオスが生じた」と『神統記』は語り始める。カオスという言葉は現代では「混乱」「無秩序」を意味するが、ギリシャ語の原義は「裂け目」「空隙」「口を開けた空間」である。カオスとは、何もない虚ろな空間のことだった。
カオスの後に、ガイア(大地)が生じた。続いてタルタロス(冥界の深淵)が、そしてエロス(欲望・愛)が生じた。
ここで注目すべきは、ヘシオドスが使う動詞である。カオスは「生じた」(ゲネト)。ガイアもまた「生じた」。カオスがガイアを「生んだ」のではない。ガイアはカオスの「後に」現れたのであって、カオスの「子」ではない。
つまり、ギリシャ神話における最初期の神々は、誰かに生まれたのではなく、順番に「生じた」のである。これは日本神話の「成る」に近い発想かもしれない。
ガイアはその後、単独で——性的結合なしに——ウラノス(天空)、山々、ポントス(海)を産んだ。『神統記』は明確に「甘い愛の交わりなくして」と記している。性的結合による出産が始まるのは、ガイアがウラノスと交わってティターン神族を産む段階からである。
ギリシャ神話において、世界の始まりは性なき誕生から始まり、やがて性的結合による誕生へと移行していく。これは「未分化から分化へ」「一から多へ」という宇宙論的プロセスを、生殖の様式の変化として表現したものだろう。
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メソポタミアの創世神話『エヌマ・エリシュ』は、やや異なる始まりを語る。
太古、存在したのはアプスー(淡水)とティアマト(海水・塩水)だけだった。この二つの水が混じり合うところから、最初の神々が生まれた。
これは厳密には「無からの創造」ではない。アプスーとティアマトという「何か」がすでに存在しているからである。しかし、アプスーとティアマト自身がどこから来たのかは語られない。彼らは「最初から」そこにいた。
『エヌマ・エリシュ』の興味深い点は、アプスーとティアマトの「混じり合い」を創造の契機としている点である。淡水と海水が混ざる場所——それは河口である。メソポタミア文明はティグリス川とユーフラテス川の河口デルタ地帯で発達した。彼らにとって、淡水と海水が混じり合う場所は、土地が形成され、生命が育まれる創造的な空間だった。神話は地理的現実を宇宙論に投影しているのである。
◇ ◇ ◇
インドの『リグ・ヴェーダ』には、「ヒラニヤガルバ」(黄金の胎児)という原初的存在が登場する。
ヒラニヤガルバは原初の水に浮かんでいた。彼は「唯一の生命の主」であり、天と地を支え、神々に力を与えた。しかし、ヒラニヤガルバ自身がどこから来たのかは明確ではない。彼は「最初に生まれたもの」とされるが、誰が彼を生んだのかは語られない。
『リグ・ヴェーダ』の有名な「創造讃歌」(第十巻・第百二十九歌)は、さらに根源的な問いを発している。
「そのとき、無もなく、有もなかった。空界もなく、その上の天もなかった。何が動いていたのか。どこに。誰の庇護のもとに。深くして測りがたい水が存在していたのか」
この讃歌は、創造の起源について確定的な答えを与えることを拒否する。最後の節では、こう問いかける。「この創造はどこから生じたのか。彼(創造神)がそれを作ったのか、作らなかったのか。最高天にあってこれを見守る者——彼のみが知っている。あるいは、彼も知らないのかもしれない」
これは神話としては異例の懐疑主義である。創造の根源は、神々にすら分からないかもしれないと認めているのである。
◇ ◇ ◇
アフリカ中央部のバコンゴ族の神話では、創造神ンザンビが登場する。
最初、世界は「ムブンギ」——空っぽの状態——だった。ンザンビはその空虚から火花「カルンガ」を生み出し、その火花から世界を創造した。
この神話は、「空っぽ」という状態を起点としている点で、ギリシャのカオス(虚空)に近い。何もないところから、最初の光(火花)が生じ、そこから世界が展開していく。
◇ ◇ ◇
ポリネシアには、タンガロア(あるいはタアロア、タンガロア)という創造神の神話がある。
タヒチの伝承では、タアロアは原初の殻の中に一人で存在していた。彼は殻を破って出てきたが、外には何もなかった。そこで彼は自分の殻を材料にして世界を創った。
マオリ族の一部の伝承には、「イオ」という至高神が登場する。イオは無から世界を創造したとされる。ただし、この伝承にはキリスト教の影響が指摘されており、本来のポリネシア神話に至高神の概念があったかどうかは議論がある。
◇ ◇ ◇
ここで重要な問題を指摘しておく必要がある。
「creatio ex nihilo」(無からの創造)という概念は、実は古代神話にはほとんど存在しない。
上で見てきた事例を振り返ってみよう。
エジプトのアトゥムは、ヌン(原初の水)の中から現れた。ヌンは「無」ではない。ギリシャのガイアは、カオス(虚空)の後に生じた。カオスは「何もない空間」ではあるが、「絶対的な無」ではなく、少なくとも「空間」は存在していた。メソポタミアのアプスーとティアマトは、最初から存在していた。インドのヒラニヤガルバは、原初の水に浮かんでいた。
つまり、多くの神話において、「最初」には何らかの「素材」——水、空間、混沌——がすでに存在しているのである。厳密な意味での「無からの創造」、つまり空間も時間も物質も何一つ存在しないところから神や世界が生じるという考えは、古代の多神教神話にはほとんど見られない。
「creatio ex nihilo」が神学的教義として確立したのは、キリスト教においてであり、それも二世紀から三世紀にかけてのことである。初期のキリスト教神学者たちは、ギリシャ哲学の影響を受けつつ、神が「何もない」ところから世界を創ったという教義を練り上げた。これは、神の絶対性と超越性を強調するための神学的発展であり、素朴な神話的思考とは性質が異なる。
多くの神話が語るのは、「creatio ex materia」(素材からの創造)か、あるいはその中間形態である。完全な「無」ではなく、「未分化な状態」「混沌」「原初の水」から世界が分化し、形成されていくというのが、より一般的な神話のパターンなのである。
◇ ◇ ◇
では、「混沌」とは何か。
この問いへの答えは、文化によって大きく異なる。
ギリシャ語の「カオス」は、先に述べたように「裂け目」「空隙」を原義とする。それは「無秩序な混乱」というよりも、「まだ何も満たされていない空間」のイメージに近い。
エジプトの「ヌン」は原初の水である。それは混沌ではあるが、同時に可能性を孕んだ豊かな源でもある。ナイル川の氾濫が土地を潤し、生命を育むように、ヌンは創造の母胎だった。
メソポタミアでは、アプスー(淡水)とティアマト(海水)の混合が「混沌」である。これは二つの要素がまだ分離していない状態であり、やがてそこから神々が生まれ、世界が秩序づけられていく。
旧約聖書の創世記冒頭に出てくる「トーフー・ワ・ボーフー」(形なく空しい状態)もまた、一種の「混沌」である。これが「絶対的な無」を意味するのか、それとも「未形成の素材」を意味するのかは、聖書学者の間で今なお議論が続いている。
◇ ◇ ◇
■日本の場合
日本神話における最初の神々は、どのように現れたのか。
『古事記』の冒頭はこう始まる。
「天地初めて
ここで注目すべきは、「成る」という動詞である。
天之御中主神は「生まれた」のではない。誰かに「創られた」のでもない。高天原という場所に「成った」のである。
「成る」という日本語は、「ある状態に変化する」「そのようになる」という意味を持つ。「なる」と読むこの言葉には、外部からの働きかけなしに、自発的に、自然に、そうなるというニュアンスがある。
これはエジプトのアトゥムの「自己創造」とも、ギリシャのガイアが「生じた」のとも、微妙に異なる。アトゥムには自らを創造するという能動的な意志がある。ガイアが「生じた」のは、カオスの後に現れたという時間的順序を示している。しかし日本の「成る」は、より受動的で、より自然発生的なニュアンスを持つ。
火が燃える。水が流れる。風が吹く。それと同じように、神が「成る」。あたかも自然現象のように、最初の神は現れたのである。
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『古事記』の原初神には、もう一つ重要な特徴がある。「
独神とは、配偶者を持たない神、対になる神がいない神のことである。後にイザナギとイザナミが登場するが、彼らは対偶神——男女一対の神——である。しかし最初の三柱(天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神)は独神であり、性別すら明確ではない。
独神は子を産まない。『古事記』は「身を隠したまひき」と記すのみで、これらの神々がその後どうなったかを語らない。彼らは世界の始まりに「成り」、そして「隠れた」。それだけである。
この「身を隠す」という表現も興味深い。最初の神々は、創造の仕事をするために現れたのではない。世界を秩序づけるために活動したのでもない。ただ「成り」、そして「隠れた」。
一つの解釈は、これらの原初神が「世界の根源」そのものであり、世界が存在し始めた瞬間に、彼らは世界の中に溶け込んで見えなくなったというものである。彼らは世界の「背景」になったのだ。
別の解釈は、これらの原初神が記紀編纂時に付け加えられた「帳尻合わせ」であるというものである。中国の道教や陰陽思想の影響で、「天地開闢の前に何があったか」を説明する必要が生じ、しかし具体的な神話がなかったため、名前だけの神を配置したという見方である。
いずれにせよ、日本の原初神の「成って、隠れる」というパターンは、世界の神話の中でもかなり独特である。他の文化の創造神は、自己創造した後に活発に活動し、世界を形作り、後続の神々を生み、人間を創造する。しかし日本の独神たちは、ただ「成り」、そして「隠れる」。彼らは創造神というよりも、存在の根源そのもの——概念化された「始まり」——なのかもしれない。
◇ ◇ ◇
『日本書紀』の冒頭は、『古事記』とはやや異なる始まり方をする。
「
ここには「混沌として鶏の卵のごとく」という表現がある。これは中国の盤古神話の影響であることは、【序】でも述べた通りである。
しかし重要なのは、日本書紀がこの後どう続くかである。
「清陽なるものは
つまり、清いものと濁ったものが分離して、天と地になったというのである。ここには卵を割る神の姿はない。中国の盤古が斧で卵を割って天地を分けたのとは異なり、日本書紀では天地は「自然に」分離したのである。
そしてその後に神が「成る」。
日本書紀においても、神は「創られる」のでも「生まれる」のでもなく、「成る」のである。
◇ ◇ ◇
日本神話の「成る」という動詞は、世界的にどう位置づけられるだろうか。
一つの見方は、これがアニミズム的世界観の表現であるというものだ。アニミズムにおいては、世界は創造者によって「作られる」のではなく、自ずから生成する。山は山として在り、川は川として流れ、神は神として成る。すべては自然の成り行きであり、外部からの意志的介入を必要としない。
別の見方は、これが「創造神話の欠如」を示しているというものだ。世界の多くの神話は、なぜ世界が存在するのか、どのようにして世界が作られたのかを説明しようとする。しかし日本神話は、その問いに正面から答えることを避けているように見える。世界は「ある」。神は「成る」。それ以上の説明は必要ない——あるいは、それ以上の説明は元々存在しなかった。
エジプトのアトゥムが自慰によって最初の神々を生み、ギリシャのカオスから順番に原初の神格が生じ、メソポタミアの水の混合から神々が誕生するのに対し、日本の原初神は何も「しない」。ただ「成り」、「隠れる」だけである。
これは創世神話の「簡素さ」なのか、それとも「深遠さ」なのか。あるいは、より古い伝承が失われ、名前だけが残った「残骸」なのか。
確実に言えることは、日本神話が「虚無からの自己生成」という類型を持ちながらも、その表現方法において独自の特徴——「成る」という受動的・自発的な動詞、「隠れる」という消極的な帰結——を示しているということである。
神は創られず、生まれず、ただ「成る」。この発想は、日本人が世界をどのように理解していたかを示す一つの手がかりかもしれない。世界は誰かに作られたものではなく、自ずからそうなったもの。神々もまた、自ずから成ったもの。この「自ずから」という感覚が、日本神話の底流を成しているように思われる。
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