【序】概念のアイコンとしての神
火は熱い。海は広い。太陽は眩しい。
これらは人間が最初に知る事実であり、言葉を覚える前から身体で理解する真実である。火に触れれば火傷をする。海に落ちれば溺れる。太陽を見つめれば目が眩む。人間は火や海や太陽の「前」に立ち、その圧倒的な力を受け止めてきた。
しかし人間は、ただ受け止めるだけでは満足しなかった。
火に名前をつけた。海に名前をつけた。太陽に名前をつけた。そして名前をつけるだけでは飽き足らず、そこに「顔」を与えた。火は燃え盛る髪を持つ若者になり、海は泡立つ髭を蓄えた老人になり、太陽は黄金の冠を戴く女王になった。
あるいは逆かもしれない。最初に「誰か」がいて、その「誰か」が火を司り、海を治め、太陽を導くのだと考えたのかもしれない。どちらが先かは、おそらく問うても意味がない。重要なのは、人間が「概念」と「人格」を結びつけずにはいられなかったという事実である。
火という現象。海という存在。太陽という天体。死という運命。時間という流れ。豊穣という恵み。疫病という災い。
人間はこれらすべてに「顔」を与えてきた。
その「顔」を、私たちは「神」と呼ぶ。
◇ ◇ ◇
本稿では、神を「概念のアイコン」として捉える。
アイコンとは、もともとギリシャ語の「エイコーン」に由来し、「像」「似姿」を意味する。コンピュータ画面に並ぶ小さな絵柄を私たちはアイコンと呼ぶが、あれは「フォルダ」や「ゴミ箱」や「設定」といった抽象的な機能を、視覚的に把握できる形に変換したものである。フォルダの絵をクリックすれば、ファイルの集まりにアクセスできる。ゴミ箱の絵にファイルを放り込めば、削除ができる。アイコンは抽象を具象に変換する装置であり、人間が複雑な概念を扱うための「取っ手」のようなものだ。
神もまた、同じ機能を果たしている。
「火」という概念は、目に見えるようで見えない。炎は見える。煙も見える。しかし「火そのもの」——燃焼という現象の本質、熱と光を生み出す力の根源——を見ることはできない。人間の認知には限界がある。抽象的な概念を、抽象的なまま把握し続けることは難しい。
だから人間は、火に「顔」を与えた。
日本ではカグツチ《火之迦具土神》と呼んだ。ギリシャではヘパイストス、ローマではウルカヌス、インドではアグニ、ゾロアスター教ではアータル。名前は異なるが、機能は同じである。「火」という概念に人格を与え、物語の中で動かし、祭祀の対象とすることで、人間は火という現象を「扱える」ようにした。
神が生まれれば、その概念が世界に現れる。逆に言えば、その概念を世界に定位させるために、神が必要とされた。神とは概念の「アイコン」であり、人間が世界を理解するための認知的装置なのである。
◇ ◇ ◇
この定義に従えば、神話における神々の配置は、その文化が世界をどのように分節化したかを示す地図となる。
日本神話を例に取ろう。
火という概念には、カグツチが対応する。太陽にはアマテラス《天照大御神》。月には名目上ツクヨミ《月読命》が当てられているが、実質的な月神としての機能——夜の支配、海の潮汐との関連、農耕暦との結びつき——はスサノオ《須佐之男命》が担っている。海にはオオワダツミ《大綿津見神》、あるいは綿津見三神、宗像三女神。食物にはオオゲツヒメ《大気都比売神》やウケモチ《保食神》。山にはオオヤマツミ《大山津見神》。暦の管理にはヒジリノカミ《聖神》。穀物の年間サイクルにはオオトシノカミ《大年神》。
これらの神々は、日本列島に住む人々が「世界はこのような要素から成り立っている」と考えた、その認識の反映である。火があり、太陽があり、月があり、海があり、食物があり、山があり、時間が流れ、穀物が実る。それぞれの要素に「顔」を与え、「誰がそれを司るのか」を定めることで、人々は世界を秩序立てて理解した。
重要なのは、神々の「顔ぶれ」が文化によって異なるという点である。
日本には火の神がいるが、雷の神は「
また、同じ概念に複数の神を当てる場合もある。日本の海は、オオワダツミという単独の神で表されることもあれば、綿津見三神(底・中・上の三層)として分節化されることもあり、さらに航海の安全を司る宗像三女神が加わることもある。「海」という概念を、一つのアイコンで代表させるか、複数のアイコンに分割するかは、その文化が海をどのように経験し、どのように重要視したかによって異なる。
◇ ◇ ◇
本稿が問うのは、これらの「概念のアイコン」がどのように誕生すると語られてきたかである。
火の神がいる。では、その火の神はどこから来たのか。太陽の女神がいる。では、彼女は誰が産んだのか。海の支配者がいる。では、彼はいつから存在しているのか。
神話は、神々の存在を所与のものとして語ることもあるが、多くの場合、神々の「起源」を説明しようとする。そしてその説明の仕方——神がいかにして誕生するか——には、いくつかの類型がある。
世界中の神話を見渡すと、神の誕生は大きく八つのパターンに分類できる。
第一に、何もないところから自ら現れる。虚無からの自己生成である。最初の神には親がいない。原因もない。ただ「在る」ようになる。エジプトのアトゥム、ギリシャのカオスから生じたガイア、日本の
第二に、原初の卵から孵る。宇宙は巨大な卵として始まり、その卵が割れて神や世界が生まれる。フィンランドの『カレワラ』、中国の盤古神話、インドのヒラニヤガルバがこの類型に属する。
第三に、神々の性的結合から産まれる。父神と母神が交わり、次世代の神を生む。最も「自然」に見える誕生の形であり、ギリシャのティターン神族、日本のイザナギ・イザナミの神生みがこれに該当する。
第四に、原初の巨人の遺体から生じる。最初に存在した巨大な存在が殺され、その身体が解体されて世界や神々が生まれる。北欧のユミル、インドのプルシャ、メソポタミアのティアマトが代表例である。
第五に、神殺しと犠牲から生じる。第四の類型と似ているが、殺される対象が「原初の巨人」ではなく「神」であり、生じるものが「世界」ではなく「食物」や「文化的要素」である点が異なる。インドネシアのハイヌウェレ神話、日本のオオゲツヒメ神話がこれに当たる。
第六に、神の身体や分泌物から現れる。神が自らの体の一部——汗、涙、唾液、精液、あるいは切り落とした肢体——から新たな存在を生み出す。エジプトのアトゥムの自慰による創造、日本のイザナギの
第七に、言葉や意志によって創造する。神が言葉を発することで、その言葉が現実となる。「光あれ」と言えば光が生じる。旧約聖書の創世記、エジプトのメンフィス神学におけるプタハ神がこの類型を代表する。
第八に、儀式や誓約から生まれる。特殊な儀礼的行為、契約、誓いの結果として神が誕生する。日本のウケヒ《誓約》が顕著な例であり、世界的に見ても極めて稀な類型である。
これら八つの類型は、相互に排他的ではない。一つの神話体系の中に複数の類型が共存することは珍しくない。日本神話では、天之御中主神は「成る」(第一類型)、イザナギ・イザナミの子は「産まれる」(第三類型)、カグツチの遺体からは神々が「生じる」(第五類型)、禊からは神々が「現れる」(第六類型)。一つの神話が複数の誕生パターンを使い分けているのである。
◇ ◇ ◇
本稿が対象とする「神」の範囲を明確にしておく。
含めるのは、多神教における神々、世界創造や自然現象や社会秩序を司る超自然的存在、他の神を生む能力を持つ存在、そして概念のアイコンとして機能する竜・巨人・精霊である。北欧神話のユミルは「巨人」と呼ばれるが、彼の遺体から世界が生じた以上、彼は「世界」という概念のアイコンである。中国神話の竜王は「竜」であるが、水や河川を司る以上、概念のアイコンとして機能している。これらは本稿の対象に含める。
除外するのは、一神教における唯一神、仏教における仏、そして概念を司らない単なる怪物や妖怪である。
一神教の神を除外する理由は、その神が「生まれない」からである。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教における神は、始まりを持たず、終わりを持たない。誰にも創られず、どこからも生じない。神は永遠の昔から存在し、永遠の未来まで存在する。「神の誕生」という概念そのものが、一神教の神学においては成り立たない。(ただし、「神が言葉によって世界を創造する」というパターンは第七類型として扱う。これは神の誕生ではなく、神による創造の話だからである)
仏教を除外する理由は、仏が「悟った人間」だからである。釈迦牟尼は人間として生まれ、修行し、悟りを開いて仏陀となった。弥勒菩薩も観音菩薩も、衆生を救済する存在ではあるが、概念のアイコンとして機能する「神」とは性質が異なる。仏教の宇宙論には帝釈天や梵天といった神格も登場するが、これらはインド神話のインドラやブラフマーを取り込んだものであり、仏教独自の「神の誕生」譚ではない。
怪物や妖怪を除外する理由は、それらが概念を司らないからである。日本の鬼や天狗や河童は、確かに超自然的存在ではあるが、「恐怖」や「山」や「水」の概念を代表するアイコンとして崇拝されているわけではない。ギリシャ神話のメドゥーサやヒュドラも、退治されるべき怪物であり、何かの概念を司る神ではない。これらは本稿の対象外とする。
◇ ◇ ◇
本稿のもう一つの特徴は、「日本神話に無いもの」に注目する点である。
八つの類型のうち、日本神話には明確に「存在しない」ものがある。宇宙卵から神が孵る話はない。原初の巨人を解体して世界を作る話もない。言葉によって神を創造する話もない。
これらの「不在」は、単なる偶然や欠落ではない。
たとえば宇宙卵について。日本書紀の冒頭には「渾沌、鶏子の如し」という表現がある。これは中国の盤古神話「天地渾沌、鶏子の如し」とほぼ同文であり、日本書紀の編纂者が中国の宇宙卵神話を知っていたことは明らかである。にもかかわらず、日本神話では卵から神が孵ることはない。「卵のような混沌」という比喩は借用したが、「卵から神が生まれる」という神話構造は採用しなかった。これは「知らなかった」のではなく、「知っていて採用しなかった」のである。
なぜ採用しなかったのか。一つの仮説は、朝鮮半島との差別化である。高句麗の朱蒙、新羅の赫居世、伽耶の首露王は、いずれも卵から生まれた始祖である。もし天皇家の始祖も卵から生まれたとすれば、朝鮮半島の王家と同じ神話構造を共有することになる。八世紀の日本において、それは政治的に望ましくなかったのかもしれない。
本稿では、各類型を検討した後に「日本の場合」を付記する。そこでは、日本神話にその類型が存在する場合はその特徴を分析し、存在しない場合はなぜ存在しないのかを考察する。「ある」ことと同様に、「ない」ことも意味を持つ。神話に何が語られているかと同時に、何が語られていないかを問うことで、日本神話の特質がより鮮明に浮かび上がるはずである。
◇ ◇ ◇
最後に、方法論について述べておく。
本稿は、世界神話を主とし、日本神話を従とする。
日本神話、特に『古事記』と『日本書紀』(記紀)は、八世紀に編纂された文献である。そこには確かに古い伝承が含まれているが、同時に編纂時の政治的意図によって大きく歪められてもいる。天皇家の権威を正統化するために、様々な氏族の伝承が統合・改変・削除された。高天原を中心とする神々の序列は、大和朝廷を中心とする政治秩序を神話的に正当化するために構築されたものである。
このような記紀を「日本神話の原型」として扱い、そこから出発して世界神話と比較するのは、方法として危うい。記紀に書かれているから「日本ではこうである」と言い切ることはできないし、記紀に書かれていないから「日本には無い」と断定することもできない。政治的に不都合な伝承は削除されたかもしれないし、都合のよい伝承は強調されたかもしれない。
そこで本稿では、逆の手順を取る。まず世界神話から「神の誕生」の類型を抽出する。次に、各類型について世界各地の事例を検討する。そして最後に、「日本の場合」としてその類型が日本神話にどのように現れているか(あるいは現れていないか)を考察する。
この方法により、日本神話を相対化することができる。「日本神話ではこうなっている」という記述を、「世界的に見てこのパターンに属する」とか「世界的に見て珍しい」とか「世界的に見て類例がない」という形で評価できるようになる。日本神話の特質は、日本神話だけを見ていては見えてこない。世界という鏡に映して初めて、その輪郭が明確になる。
◇ ◇ ◇
火の神カグツチは、どのようにして生まれたのか。
イザナギとイザナミの性的結合から産まれた。しかし彼は母イザナミに火傷を負わせて死なせ、怒った父イザナギに斬り殺された。そしてその遺体から、新たな神々が生じた。
この一連の物語には、第三類型(性的結合から産まれる)、第五類型(神殺しから生じる)、そして第六類型(身体から現れる——カグツチの血や遺体から神が生じる)が重層的に含まれている。一柱の神の誕生と死をめぐって、複数の類型が絡み合っているのである。
こうした複雑な構造は、日本神話に限らない。世界中の神話が、複数の類型を組み合わせ、変奏し、独自の物語を紡いできた。本稿では、その多様性を類型化によって整理しながらも、個々の神話が持つ固有の論理と美しさを損なわないよう努めたい。
神を生むとは、概念に顔を与えることである。では、人間はどのようにして概念に顔を与えてきたのか。その問いへの答えを、これから八つの章で探っていく。
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