■2-2 監視官の独特な日常

中央公園の端の端。

昼の喧騒が嘘のように引き、石畳に残るのは靴音と風の気配だけ。

闇夜から抜け出してきたような風情の屋台式のうどん屋が、定位置に腰を据えていた。

灯りは控えめで、通りの闇に溶け込みながらも、近づく者だけを確実に引き寄せる。そんな存在感がある。


側面は改造され、外から見れば無骨な箱に過ぎないが、中には簡素ながらも手入れの行き届いたカウンターが設置されている。

木目は磨かれ、金属部分には無駄な曇りがない。

ここが──

異世界における綾瀬龍華さんのホームだ。


本来は、もっと人通りが多く、小銭の落ちやすい場所を狙っていたらしい。

だが陣取り合戦にあえなく敗北し、口約束と無言の圧力に押し出される形で、やむなくこの人通りの少ない位置に落ち着いたという。

結果として、夜の静寂が色濃く残る場所になった。


「監視官としての任務が第一。生活はそれに合わせるだけよ」

と綾瀬さんはうそぶいていた。


近付くにつれて、出汁の香りが強くなる。

静まり返った通りに、そこだけ空気の密度が違うように感じられた。


カウンター奥の下から、小さな頭がひょいと覗いた。

灯りに照らされたその動きは、夜の闇の中ではやけに生き生きして見える。


「ああ、神楽坂! やっと来たね!」

綾瀬さんの声だけで、屋台の内側が別の世界だと分かる。


俺も綾瀬さんも最初は名前が珍しいと言われる。しかしそれは一度きり。

大陸の外から来た流れ者など、この街にはいくらでもいる。

もっと変な名前を持っている者だって数えきれない。


「何でしょうか、綾瀬さん」

俺は小走りで駆け寄った。

通りの冷えた空気から、一歩で温度が変わる。


このうどん屋台は、俺の生活の中心になりつつあった。

待ち合わせでもなく、義務でもない。

ただ、自然と足が向く場所だ。


現状報告は後回しにして、ひとまず俺は夕食をとることにした。

関東風の天ぷらうどんをオーダーして、立ち上る湯気ごとすする。

すると背後ののれんが上がった。


「――あら、お二人さん、失礼しますわ」


闇夜からすっと抜け出すようにして現れた影。

通りの静けさを切り裂くことなく、音もなく屋台に滑り込んでくる。

ヴィクトリアンメイド風のコスチュームを揺らしながら、この街の衛兵たちと毎晩ナワバリ争いを続けている魔導石の商人が、屋台の灯りの下へと自然に溶け込んだ。


「はーい、メイドさん一名いらっしゃーい」

綾瀬さんがパチンと軽くハイタッチ。

この世界に来てから、何度も見てきた光景だ。

外の闇と内の賑わいを隔てる、合図のような仕草。


俺の隣の席に腰かけたのは――モニカ。

言うまでもなくメイドではない。

ただ、色々な服を試し続けた結果、一番売れ行きが良かったのがこのメイド風だったという。

本人はすっかり気に入ってしまい、そのまま定着した。


安い魔導石を露店で売り、取り締まる衛兵さんに怒られる毎日。

自称・魔導石の第一人者らしいが、それがどの分野の第一人者なのかは誰も知らない。

本人も、説明しない。


……ただ、一度だけ見せてもらった高純度の魔導石は、たしかに本物の匂いがした。

ぞくりとするほど、力の輪郭が明確だった。

その一度で俺はモニカの話を信じることにした。

どうせ買わないのだ。

構える理由はない。


「モニカ、調子はどうよ」

俺は雑に声をかける。


「あら、神楽坂さん。ねえ、たまには何か買ってみなさらない?」


語尾、口調、身のこなし。

すべてメイドっぽさに寄せている。

演技というより、もはや生活様式だ。

心底楽しんでいるのだろう。

突っ込まないのが正解だ。

この人の戦闘力は、見た目以上に高い。

……いや、戦っているのを見たわけじゃないけれど、

なんとなく察せるものがある。


モニカが差し出してきたビロードの布の上には、

様々な色をした魔導石がいくつも並んでいる。


俺は適当に一つつまんでひょいと持ち上げた。

指先に、かすかな熱。


「いらないねぇ。俺の生活には必要ないもん」


「まあ! それはいけませんわ。大した魔導力をお持ちでないのに、そんな強気でいて大丈夫ですの?」


「いいんだよ。見くびられても困る。人には人のスタイルがあるの。不要なんだよ、俺には」


モニカは大げさに両手を広げて空を仰いだ。

屋台の天井が、ちょっと狭そうだ。


「まぁ! 徹底して拒否なさるのね。分かりませんか?この可もなく不可もない出来の素晴らしさ。ああ…神楽坂さんがダンジョンのど真ん中で万策尽きる姿が目に浮かびますわ」


そのとき、前方から綾瀬さんの声が飛ぶ。

「はい、きつね普通盛り天かすマシマシ一丁!七味は後悔のない範囲でお使いください」


どんぶりがモニカの前に差し出される。

湯気が立ち上り、会話の間に割り込んできた。


「わお、すごい店ね神楽坂さん。何も頼んでないのに私好みの一品が出てきたわ!」

大袈裟にはしゃいでみせるモニカ。


なんてことはない。

“いつものやつ”だ。


「そりゃ良かった。……ついでに、うちの店は商売禁止だよ」

綾瀬さんが出汁の温度を確かめながら忠告する。


「分かってますわ。押し売っているわけじゃありませんもの。では姿勢を正して――いただきますわ」


「しゃーないね、どうにも」

綾瀬さんは肩をすくめた。

モニカは幸せそうに湯気を吸い込み、うどんを啜る。

外の通りの静けさが、

急に遠いものに感じられた。


こういう“何でもない時間”に、俺は綾瀬さんの監視官としての経験を感じる。

誰とでも自然に馴染む。

どんな環境にも瞬時に適応する。

軽口を叩きながら、周囲をちゃんと見ている。


――綾瀬さんがいなかったら、俺はこの世界でどう立ち回れていたんだろう。

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2025年12月31日 19:00
2026年1月1日 19:00
2026年1月2日 19:00

30歳の商社マンが転生したら、身体の持ち主は武闘派組織の「副長」だった。――静かに暮らしたいのに、強すぎる身体が面倒事を持ってくる―― ゴールデン・ドア @Golden-Door

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