■1-3 新世界への扉
風間所長と名乗る人物が待っていた応接間は、ほとんど音がなかった。
白すぎる壁のせいか、呼吸さえも吸い込まれていく気がした。
俺はただ困惑していた。
脳が頼りにならない。
風間所長と目を合わせようとしたところで、綾瀬龍華の声が割り込んできた。
「睡眠導入剤。指示されてる用量の三倍……あら、四倍だったかしら?」
パラパラとレポートをめくる音がやけに大きく聞こえる。
その瞬間、胸の奥で固まっていた何かが割れた。
点と点がつながり、つながった線が脳を貫いた。
「……四倍、ですね」
返事はしたが、顔は上げられなかった。
テーブルの一点ばかり見つめる。
「そう」
彼女は軽く相槌を打つ。
憐れむでもなく、責めるでもなく。
ただ“確認した”という声だった。
「……バスルームですか?」
「正確には、その手前の脱衣所ね」
彼女はレポートへ視線を落とし、淡々と答えた。
「……そうですか」
気の抜けた返事が勝手に口から滑り出た。
数秒遅れて、深い深い溜め息が出た。
やってしまった。
言葉にするまでもなく理解した。
不眠症との長い付き合い。
眠れない夜を薬でごまかし続けた十年間。
そして多幸感を求め、許容量を超えた使用に走った日々。
危ないと分かっていながら、それでもやめられなかったこと。
全部が一本の線になって、ここへたどり着いたのだ。
「なんでその状態でバスルーム行くかなぁ……俺」
自嘲が漏れる。
「危ないのは薬の使い方でしょ」
綾瀬龍華が肩をすくめた。
叱るでもなく、突き放すでもなく。
ただ事実を言った声。
続けようと彼女が口を開きかけ――
「そこで平衡感覚を失って転倒し、後頭部を強打。神楽坂君は死んだ」
それまで黙っていた風間所長が、
綾瀬龍華の言葉に被せるように“結論”を落とした。
白い部屋に、重い静寂が降りた。
「……ここまでで何か分からないことはあるかな?」
風間所長の問いは事務的だった。
俺は小さく首を振った。
「……ないです。はい」
風間所長は、机の上に出されていたコーヒーを一口飲んだ。
感情の読めない顔は、こちらが死んだ理由を語った直後とは思えないほど静かだ。
「さて。死因の確認は終わったし、次の話に移ろうか」
「次に、って……?」
「転生だよ」
風間所長は短く告げる。
「ただし、魂がどの世界に適応できるかは個体差が大きい。記憶の強度、精神の癖、生前の執着、未練……。これらが魂の“形”を決める」
魂の形……?
分かるような、分からないような。
けれど風間所長の声には妙な説得力がある。
「君の魂は比較的きれいだ。濁りが少ない。壊れていない。転生プロセスに乗せることは可能だ」
「俺はその……いい状態ってことなんですか?」
「表面上はね」
唐突に綾瀬龍華が口を挟んだ。
表情は冷静なのに、声には微かに針がある。
「表面……?」
「魂は外から見える部分と、内側の核で全然違うの。見た目の強度と、実際の適応力は別問題よ」
風間所長が補足する形で言葉を続けた。
「だから我々は監視官を置く。転生直後の魂は不安定で、何かのきっかけで簡単に崩れてしまう。そのためのフォロー役として、綾瀬君が同行する」
「同行……するんですか?」
「ああ。彼女は優秀だからね」
俺は思わず質問を投げた。
「監視官って……その、何をするんですか?」
「あなたを見張るのよ」
即答。
「え、見張るって?」
「言葉の通りよ。魂が崩れないように誘導するし、危険行動は止めるし、精神が沈んだら介入するし……まあ、色々よ」
「色々って……」
「あなた、危なっかしいもの」
風間所長が少し笑った。
「綾瀬君の判断は的確だ。神楽坂君は魂自体の質は良いが、内側に不安定さを抱えているタイプだろう」
「――だからあなたの転生は、私が担当するの。新世界における魂の適応を見届ける。それが監視官である私の仕事よ」
そして風間所長が淡々と話を進める。
「これが我が研究所の転生システムの概要だ。何か質問は?」
白い部屋にまた静寂が落ちた。
風間所長の説明が終わり、
部屋の空気はゆっくりと冷えていった。
「いえ、ないです」
俺はこう答えるより他になかった。
「では──準備を始めようか」
所長が軽く指を鳴らすと、
部屋の中央に円形の光が浮かび上がる。
白ではない。
研究所の冷たさとは違う、
どこか温度のある淡い銀色だった。
「これは第3転生シュートだ。神楽坂君、ここを通れば新世界に着く」
俺は喉を鳴らした。
言葉が出ない。
綾瀬が静かに前へ出る。
「大丈夫よ。あなたがどう転んでも、当面は私がついているわ」
綾瀬は表情を変えない。
ただまっすぐ俺に視線を向けている。
銀色の光が、ゆっくり強くなった。
温かいのに、触れたら消えてしまいそうな光。
「さ、行きましょう」
俺は深く息を吸った。
これは第二の人生なのだろう。
けれどご褒美ではない。
まだ何も始まっていない。
俺は光の中へ、一歩を踏み出した。
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